第11話 灰鷹の盾
灰鷹隊本部は、静かだった。
静かすぎるほどだった。
隊舎の広間には、すでに出動準備を終えた隊士たちが並んでいる。
盾は壁際に立てられ、練習用の槍は束ねて置かれていた。槍の先端には布が厚く巻かれている。人を殺すためではなく、押し返すための槍だった。
隊士たちは鎧を着込み、首に灰青色の布を巻いている。
誰も大声では話さなかった。
暴動は中央広場で起きている。
それはもう伝令や噂で伝わっていた。
だが、中央広場は南部公爵家の担当区域である。北部公爵家に属する灰鷹隊が、要請もなしに踏み込めば政治問題になる。
だから待っていた。
来ると分かっている要請を。
ロビン・フォン・バーゼルは広間の中央で目を閉じていた。
手は槍の柄に置いている。
顔には焦りがない。
だが、その指はほんのわずかに強く柄を握っていた。
右隣にはリッカがいた。
すでに槍を肩に担いでいる。待つのが嫌いな顔だった。
左隣にはレイバーがいる。
彼は出動名簿と装備表を確認していたが、文字を追っているというより、苛立ちを紙に押し込めているようだった。
ローレンスは広間の端で救護班に指示を出している。
包帯、水、担架、止血布。暴徒鎮圧に出る時、必要になるものは武器だけではない。
廊下の向こうから、足音が聞こえた。
走っている。
広間にいた全員が、顔を上げた。
足音は近づき、扉が勢いよく開いた。
若い隊士が飛び込んでくる。
「南部公爵家配下、帝都巡衛隊より応援要請!」
その声が、広間に響いた。
「中央広場市場にて暴動拡大! 灰鷹隊に出動要請です!」
ロビンは目を開けた。
「来たか」
短い言葉だった。
リッカが即座に言った。
「遅い!」
「仕方がない」
レイバーが書類を閉じた。
「貴族様のプライドや派閥の問題もある。南部の管轄に北部の部隊を入れるんだ。要請を出すだけでも揉めたはずだ」
「揉めている間に市場が燃える」
リッカの声は冷たい。
ロビンは槍を持ち上げた。
「貴族の派閥争いの割を食っている巡衛隊のためにも、すぐに向かうぞ」
広間の空気が一気に変わった。
「盾隊、前へ。槍隊は布巻きを持て。刃付きは抜くな。救護班はローレンスに従え。馬は使わない。市街で暴徒を踏むな」
ロビンの声に、隊士たちが動き出す。
灰鷹隊は走った。
◇
暴動対策本部は、中央広場から少し離れた南部公爵家の巡衛詰所に置かれていた。
そこは混乱していた。
机の上には雑な地図が広げられ、伝令が出入りし、南部公爵家の巡衛隊士たちが怒鳴り合っている。
中央軍の将校もいるが、管轄と指揮系統の確認に手間取っていた。
「東側の露店通りから火が出た!」
「西側はまだ押さえられる!」
「違う、暴徒は北へ流れている!」
「南門を閉じろ!」
「閉じたら逃げ遅れが出る!」
ロビンたちが到着した時、灰鷹隊の配置はまだ決まっていなかった。
増援を呼んだはいい。
だが、その増援をどこへ置くのか。
どの道を塞ぎ、どの道を開けるのか。
南部の指揮官たちは、暴徒の現在位置すら掴みきれていなかった。
このままでは、灰鷹隊は遊兵になる。
レイバーが舌打ちした。
「最悪だな。燃えてる家を見てから井戸を探してる」
「言い方」
ローレンスが小さく注意したが、否定はしなかった。
その時、詰所の扉が開いた。
ユルゲン・クーンが飛び込んできた。
リオン班の連絡係である。息を切らし、額に汗を浮かべていた。
「リオン班より報告!」
ロビンが振り向いた。
「言え!」
ユルゲンは地図へ駆け寄り、指で示した。
「暴徒の主流は中央広場から北西へ流れています。理由は、東側の火災と南側巡衛隊の封鎖。北西の布市場通りが狭く、ここで詰まります」
「北西か」
南部の指揮官が地図を覗き込む。
「その先は住宅区ではないか」
「はい。まだ避難が終わっていません。ですが、布市場通りの手前に荷馬車置き場があります。盾隊を置くならここです」
ユルゲンの指が、細い路地の合流点を叩いた。
「西側の井戸はフリッツが確保に向かっています。火の手は東から北へ流れる恐れあり。南側は巡衛隊が押していますが、押しすぎると暴徒が住宅区へ抜けます」
詰所の空気が変わった。
情報が入った。
初めて、暴動が地図の上で形を持った。
「灰鷹隊は荷馬車置き場へ」
ロビンが即断した。
「盾で路地を塞ぐ。布市場通りの奥の住民を避難させろ。ローレンス、君は本部に残って負傷者の受け入れを組んでくれ。僕もここで指揮に入る」
「ロビンは前に出ないの?」
リッカが聞いた。
「出たい」
ロビンは短く答えた。
「だが今はここで全体を見る人間がいる。レイバー、リッカ、現場は任せる」
「分かった」
レイバーが頷く。
リッカは槍を回した。
「押し返せばいいんでしょ」
「殺すな」
ロビンが言った。
「分かってる」
「本当に分かってるな」
「布巻きでしょ」
リッカは不満そうに穂先を見た。
「刺さりにくい」
「刺すなと言ってるんだ」
レイバーが横から言った。
「行くぞ。時間がない」
◇
荷馬車置き場は、すでに半分ほど壊れていた。
転がった車輪。
ひっくり返った樽。
踏み潰された布袋。
遠くでは煙が上がり、焦げた油の匂いが風に混じっている。
暴徒の波は、すぐそこまで来ていた。
最初に聞こえたのは、怒鳴り声だった。
「どけ!」
「倉庫を開けろ!」
「南部の犬ども!」
「商人を引きずり出せ!」
怒号は一つの声ではない。
何十、何百もの声が混ざっている。
中には本当に怒っている者もいる。中にはただ流されている者もいる。中には略奪の機会を待っている者もいる。
灰鷹隊は盾を構えた。
レイバーが声を張る。
「盾隊、二列! 槍隊は後ろ! 押し返すだけだ、突くな! 隙間を作るな!」
リッカは少し後ろで槍を構えた。
彼女が前へ出れば、暴徒を何人も叩き伏せられるだろう。
だが、今日はそれをする日ではない。
灰鷹隊の盾が、路地を塞いだ。
人の波がぶつかった。
鈍い音がした。
盾越しに、市民の体重が来る。
怒りと恐怖と勢いが混ざった重さだった。
「押せ!」
「どけ!」
「俺たちはパンを買いに来ただけだ!」
「何が灰鷹だ!」
暴徒は盾を叩いた。
拳で、棒で、石で。
盾を持つ隊士たちは歯を食いしばった。
「踏ん張れ!」
レイバーが叫ぶ。
「腰を落とせ! 肩で受けるな、足で受けろ!」
最初は持ちこたえた。
盾の壁は崩れない。
布巻きの槍は、盾の上から軽く突き出され、近づきすぎた者を押し戻す。
暴徒も、相手が刃を向けていないことを見て、最初は怯んだ。
だが、怒りは増えていった。
後ろから押される者が前へ出る。
前の者は引けない。
転びそうになった者を、さらに後ろが押す。
盾の前で人が潰れかける。
「下がれ! 子どもがいる!」
灰鷹隊の誰かが叫んだ。
だが、声は届かない。
石が飛んだ。
盾に当たる。
また一つ、今度は隊士の額をかすめた。
血が流れる。
「我慢しろ!」
レイバーが叫んだ。
「まだだ!」
その時、盾の下から手が伸びた。
暴徒の一人が、這うようにして隙間へ潜り込み、盾を持つ隊士の足首を掴んだ。
「うわっ」
隊士が体勢を崩す。
盾の列に穴が開きかけた。
そのまま引きずり込まれれば、待っているのは暴徒の中でのリンチだった。
隣の隊士が、とっさに棒を振り下ろした。
市民の腕に当たる。
悲鳴。
暴徒の空気が変わった。
「殴ったぞ!」
「こいつら市民を殴った!」
「帝国の犬が!」
標的が、盾から隊士へ変わった。
棒が振られる。
石が飛ぶ。
盾の隙間から拳が入る。
一人の隊士が盾を支えきれず、膝をついた。
そこへ手が伸びる。
「引け!」
リッカが叫んだ。
間に合わない。
隊士が暴徒の中へ引きずり込まれた。
灰青色の首布が、人の波の中に消える。
レイバーの顔が変わった。
迷いは、一瞬だけだった。
「槍隊、前!」
声が低く、鋭く響いた。
「盾、半歩開けろ! 槍衾!」
布巻きの練習槍が、盾の隙間から一斉に突き出された。
古代の重装歩兵のように、灰鷹隊は形を変えた。
盾で受けるだけではない。
槍で押し返す。
突くなと言われていた槍が、初めて反撃の形を取った。
布を巻いているとはいえ、長い棒である。
胸に当たれば息が詰まる。
腹に入れば膝が折れる。
顔に当たれば鼻が折れる。
暴徒が一歩、下がった。
「押せ!」
レイバーが叫ぶ。
「一歩だけだ! 追うな! 押せ!」
灰鷹隊は押した。
盾と槍が揃って前へ出る。
暴徒は押し返される。
叫び声が上がる。
倒れる者が出る。
怪我人は出る。
それは分かっていた。
分かっていて、レイバーは命じた。
引きずり込まれた隊士を、リッカが引き戻した。
彼女は盾列の横から飛び込み、暴徒の手を槍の柄で弾き、隊士の首布を掴んで引きずり出した。
隊士の顔は腫れ、口から血が出ていた。
「生きてる?」
リッカが聞く。
「たぶん」
隊士は呻いた。
「なら後ろ」
リッカは彼を救護班へ押しやった。
別の路地でも、同じようなことが起きていた。
南部公爵家の巡衛隊は、灰鷹隊ほど長い槍を持っていなかった。
棍棒と短い盾で暴徒を押し返すしかない。
その分、距離が近い。
市民の拳も、巡衛の棍棒も、互いに直接届く。
白兵戦に近かった。
ローレンスは本部で負傷者の受け入れを指揮しながら、運ばれてくる者の数に顔を曇らせた。
「灰鷹隊、三名負傷。巡衛隊、七名。市民は……数えきれない」
「まだ増える」
ロビンは地図を見ていた。
ユルゲンがまた駆け込んでくる。
「リオン班より追加報告! 北西の流れは灰鷹隊が止めています。東側火災は広がりつつありますが、西の井戸は確保。南側の巡衛隊が押し返しすぎて、暴徒が東の小路へ流れています!」
ロビンは地図に指を置いた。
「そこには何がある」
「布問屋と、古い倉庫が二つ」
「燃えやすいな」
ローレンスが言った。
ロビンは即断した。
「巡衛隊へ伝令。南側は押しすぎるな。東の小路は開けて逃がす。火がある方へ追い込むな」
「ですが、逃がせば暴徒が散ります」
南部の将校が言った。
「火事場へ追い込むよりましです」
ロビンの声は穏やかだったが、譲らなかった。
「人は逃げ道がなければ暴徒になります。逃げ道があれば、ただの逃げる人です」
将校は一瞬黙り、やがて頷いた。
◇
リオン班は、市場の裏を走っていた。
マルタンは煙を吸い、咳をした。
目が痛い。
焦げた布と油の匂いがする。
広場の一角では露店が燃えていた。
誰が火をつけたのかは分からない。
火付け役か、倒れた灯火か、略奪の混乱か。
今は原因より、広がりを止める方が先だった。
「火事だ!」
オットーが叫んだ。
「逃げろ! 東は燃えてるぞ!」
リオン班の隊士たちは、暴徒に紛れるようにして同じことを叫んだ。
「子どもを連れて逃げろ!」
「井戸の方へ行くな、混んでる!」
「北は詰まってる、東へ行くな、西へ回れ!」
暴徒の中には、まだ商店を壊そうとする者もいた。
だが、火事という言葉は強い。
怒りよりも、煙の方が分かりやすい。
逃げ出す者が出た。
逃げる者が出れば、人の流れが変わる。
怒鳴り声の質が変わる。
奪え、から、逃げろ、へ。
マルタンは、転んだ老婆を抱き起こした。
「こちらへ」
「息子が」
「後で探します。まずこちらへ」
老婆をフリッツに渡す。
フリッツは震えながらも頷いた。
「任せてください」
彼は老婆を支え、人の流れの外へ出した。
その背中を見て、マルタンは少しだけ安心した。
護衛任務で足が止まった若い隊士は、まだ恐れている。
だが、今は動いていた。
「ルクレール」
リオンが呼んだ。
「はい」
「北西は止まった。東は逃がす。後は、中心を空にする」
「どうやって」
「燃えている方を大げさに言え」
「実際よりも?」
「実際より少しだけだ。大きすぎる嘘は混乱を増やす。小さな誇張は人を動かす」
マルタンは一瞬だけリオンを見た。
「勉強になります」
「綺麗な勉強ではない」
「はい」
マルタンは走った。
「火が回るぞ! 広場から出ろ!」
叫びながら、彼は自分の声が誰かを操っていることを自覚した。
これは救助だ。
同時に、扇動でもある。
火付け役が人を怒りへ動かしたように、今、彼らは人を恐怖へ動かしている。
違いは目的だけだった。
その目的の違いを信じなければ、足が止まりそうだった。
◇
夕刻近くになって、暴動はようやく鎮まり始めた。
完全に終わったわけではない。
まだあちこちで怒鳴り声がし、捕縛された者が暴れ、負傷者が呻いている。
だが、人の波は砕けた。
市場を飲み込んでいた怒りの塊は、逃げる者、捕まる者、倒れる者、泣く者へとばらけていた。
灰鷹隊の盾は傷だらけだった。
布巻きの槍も何本か折れていた。
隊士たちの腕は震え、足は泥と血と粉で汚れていた。
市場は荒らされていた。
小麦袋は破られ、白い粉が土と血に混じっている。
露店の一部は焼け落ち、焦げた柱から煙が上がっていた。
ひっくり返った荷車の下で、誰かが呻いている。
巡衛隊士が一人、顔を腫らして倒れていた。
灰鷹隊の若い隊士も、担架に乗せられて運ばれていく。
引きずり込まれた隊士だった。
命はある。だが、しばらく槍は握れないだろう。
ローレンスは負傷者の間を走り回っていた。
彼の手袋は血で汚れている。
ロビンは、市場の中央で立ち尽くしていた。
守った。
少なくとも、暴動は広がりきらなかった。
住宅区へ火は回らず、子どもたちの避難も間に合った。
だが、守るために傷つけた。
それは、誰の目にも明らかだった。
マルタンは、地面に落ちた紙片を拾った。
薄い紙だった。
粗い印刷。
文字は帝国語。
民のパンを、貴族の倉に眠らせるな。
飢えは罪ではない。奪い返せ。
古き鎖を断て。
マルタンは、その文を見て顔を強張らせた。
言い回しが、似ている。
リュシアンで聞いた言葉に。
ヴァレーヌ革命の頃、壁に貼られていた紙の言葉に。
リオンが横から紙片を覗き込んだ。
「知っているのか」
マルタンは、しばらく答えなかった。
市場の向こうでは、負傷した市民が泣いている。
灰鷹隊の隊士が、その市民を担架に乗せている。
そのすぐ近くで、別の市民が灰鷹隊へ唾を吐いた。
マルタンは紙片を握った。
「……昔、リュシアンで聞いた言葉です」
リオンの目が細くなる。
煙の残る中央広場で、灰鷹隊の灰青色の首布が夕暮れに揺れていた。
市民を守った証のようにも、市民を押さえつけた印のようにも見えた。




