第12話 お国自慢の夜
灰鷹隊が中央広場を離れる頃には、日はほとんど傾いていた。
市場は、朝とは別の場所になっていた。
白い小麦粉が泥と血に混じり、踏み潰された野菜が石畳に貼りついている。
焼け落ちた露店からはまだ細い煙が上がり、焦げた布の匂いが鼻に残った。
灰青色の首布を巻いた隊士たちは、疲れ切っていた。
盾を持つ腕は震え、布巻きの槍は何本も折れ、鎧には石を受けた跡が残っている。
負傷した者は担架で運ばれ、歩ける者も足を引きずっていた。
市民たちが、それを見ていた。
感謝の目ばかりではなかった。
恨めしそうな目。
怯えた目。
怒った目。
家族を探して泣く者。
潰れた露店の前で座り込む者。
灰鷹隊を見て、唾を吐く者もいた。
「何見てやがる」
隊士の一人が低く呟いた。
彼の頬は腫れていた。
盾の隙間から殴られたのだ。仲間の一人は暴徒に引きずり込まれ、顔の形が変わるほど殴られた。
市民を守るために来た。
だが、その市民に殴られた。
納得しろという方が無理だった。
人垣の中から声が飛んだ。
「帝国の犬め!」
隊列が一瞬、止まりかけた。
「誰だ」
若い隊士が顔を上げた。
「今言ったのは誰だ!」
「やめろ」
隣の隊士が肩を掴む。
「離せよ。こっちは仲間がやられてんだぞ」
「だからやめろ」
「俺たちが何のために来たと思ってる!」
若い隊士の声が裏返った。
怒りだけではない。悔しさと、疲労と、恐怖が混じっていた。
マルタン・ルクレールは、その声を聞きながら列の端を歩いていた。
彼もまた疲れていた。
喉は煙で痛み、外套には煤がつき、左腕には小さな打撲がある。
だが、彼は努めていつも通りの顔をした。
「ハイネさん」
マルタンは前を歩くフリッツに声をかけた。
「はい」
「担架の左側、少し下がっています。持ち手を替わって差し上げてください」
「あ、はい」
フリッツは慌てて動いた。
「オットーさん、列が詰まっています。右の路地を確認していただけますか」
「了解です、班長」
「ヘルマンさん、後ろの子たちがついてきているようです。怪我人の家族かもしれません。追い払わず、距離だけ取ってください」
ヘルマンは無言で頷いた。
マルタンは、そうやって細かな指示を出し続けた。
何かしていなければ、市民の目を見てしまう。
市民の目を見れば、自分が何をしたのか考えてしまう。
守った。
押し返した。
助けた。
傷つけた。
そのどれもが本当だった。
隊列が下町へ入るにつれ、空気は少し変わった。
灰鷹隊の管轄に近い通りでは、戸口に立つ人々の表情が柔らかかった。
水を持ってくる女がいた。
負傷した隊士に布を差し出す老人がいた。
子どもが小さく手を振り、母親に慌てて引っ込められた。
「灰鷹さん、大丈夫かい」
「市場はどうなったんだ」
「うちの方まで来るのか」
不安はある。
だが、少なくとも憎しみだけではなかった。
マルタンは頭を下げた。
「今は落ち着きつつあります。ですが、今夜は外に出ない方がよろしいかと」
「そりゃそうだね」
女は胸を押さえた。
「こっちで同じことが起きたらと思うと、ぞっとするよ」
「起こさせません」
マルタンはそう答えた。
その言葉が、自分の口から出たことに少し驚いた。
起こさせない。
願いではなく、役目として言った。
帝国に忠義はない。
貴族のために死ぬつもりもない。
だが、こうして顔を知る人々がいる通りを、今日の市場のようにしたくはなかった。
灰鷹隊本部に戻った時、空は赤黒く染まっていた。
◇
本部の一室は、臨時の取調室になっていた。
暴動の中で捕らえた扇動者の一人が、そこに運び込まれていた。
年は三十前後。職人風の上着を着ていたが、手に仕事の跡が薄い。棍棒を持ち込んだ一団の一人である。
リオンは、尋問を始めるつもりだった。
だが、その前に男は死んだ。
椅子に縛られたまま、突然痙攣し、口から泡を吹いた。
ローレンスが駆けつけた時には、すでに手遅れだった。
「毒だ」
ローレンスは男の口元を調べ、顔をしかめた。
「飲み込んだのか」
リオンが尋ねる。
「おそらく。だが、どうやって」
男は拘束されていた。
捕縛時に武器も荷も取り上げている。
マルタンは、男の袖が破れていることに気づいた。
「リオン様」
リオンもすぐに見た。
袖の内側。
縫い目がほどけている。
そこに、小さな油紙の切れ端が残っていた。
ローレンスが慎重に摘まむ。
「袖に縫い付けていたのか」
「捕まり、尋問されそうになったら飲めるように」
リオンの声は冷たかった。
レイバーが部屋の隅で腕を組んでいた。
「素人じゃねえな」
「酔っ払いの暴動ではありませんね」
マルタンは言った。
「当たり前だ」
リオンは男の死体を見下ろした。
「棍棒を持ち込む。火をつける。暴徒に紛れて離脱する。捕まれば毒を飲む。訓練されている」
「革命派が、そこまで」
ローレンスの声には苦さがあった。
「革命派だけなら、まだ分かりやすい」
リオンは破れた袖を指先で軽く持ち上げた。
「問題は、誰がこのやり方を教えたかだ」
部屋の中が静かになった。
マルタンの耳には、まだあの合言葉が残っていた。
灯を移せ。
ヴァレーヌの言葉。
リオンはマルタンを見た。
「共和国語だったと言ったな」
「はい」
「偶然だと思うか」
マルタンは少し黙った。
「思いたいです」
「答えになっていない」
「はい」
リオンはそれ以上責めなかった。
死体は何も話さない。
だが、袖に縫い付けられた毒は、十分に多くを語っていた。
この暴動の後ろには、素人ではない者がいる。
◇
数日後、リオン班には特別報奨金が支給された。
表向きの名目は、中央広場暴動における情報伝達および避難誘導への功績。
実際には、リオン班の偵察報告がなければ、灰鷹隊本隊の配置も、暴徒の封鎖も、火の手の誘導も間に合わなかった。
レイバーは渋い顔で革袋を渡した。
「今回だけだ」
「恐れ入ります」
マルタンは両手で受け取った。
「その顔は何だ」
「いえ」
「嬉しそうだな」
「はい」
「隠せ」
「努力します」
「今すぐだ」
マルタンは真面目な顔を作ろうとした。
だが、うまくいかなかった。
革袋は重い。
この重さは、リュカの靴になり、ミレーヌの服になり、エミールの毛布になり、セリーヌの食卓を少しだけ楽にする。
そう思うと、どうしても頬が緩んだ。
その夜、マルタンは班の隊士たちを連れて、半地下の酒場へ向かった。
リオンは来なかった。
「リオン様は」
店に入るなり、ミレーヌが聞いた。
その声は明るかった。
だが、ほんの一瞬だけ、目が入口の方へ残った。
マルタンはそれを見た。
「本日は所用とのことです」
「そうですか」
ミレーヌはすぐに笑顔へ戻った。
「では、怖いお仕事の皆様だけですね」
「怖くない方でお願いしたいです」
「暴動を止めた方々でしょう? 十分怖いです」
オットーが椅子に腰を下ろしながら笑った。
「怖いなら酒を安くしてくれ」
「怖い方には高くします」
「ひどい」
「壊された椅子代が必要ですから」
店内には、まだ昼間の密談場所とは違う温かさがあった。
夜の酒場には客が入り、笑い声と煙草の匂いと安酒の匂いが満ちている。
奥の卓を一つ借り、マルタン班は座った。
「今日は班長のおごりですか」
オットーが言う。
「全額は無理です」
マルタンは即答した。
「早い」
「妻子がおりますので」
「出た。班長の妻子」
「大事なことです」
ヘルマンが珍しく口を開いた。
「一杯目だけでいい」
「ヘルマンさんは優しい」
「二杯目からは各自だ」
「現実的ですね」
フリッツはまだ少し硬かったが、杯を受け取ると小さく頭を下げた。
「班長。暴動の時は、ありがとうございました」
「私は何も」
「老婆を任せてくれました」
フリッツは杯を見つめた。
「ちゃんと動けた気がします」
マルタンは微笑んだ。
「動けていました」
フリッツは少しだけ顔を赤くした。
酒が回り始めると、話題はだんだん軽くなった。
誰の盾が一番へこんだか。
レイバーの怒鳴り声は暴徒より怖かったか。
リッカが引きずり込まれた隊士を片手で引っ張り出したのは本当か。
ユルゲンが伝令で三度も転びかけたこと。
ミレーヌは卓を回りながら、時々会話に混ざった。
「ミレーヌさん」
オットーがにやにやしながら言った。
「灰鷹隊の中なら、誰が好みなんです?」
フリッツがむせた。
「おい」
「いいじゃないか。聞くだけだ」
ミレーヌは盆を抱え、笑顔のまま首を傾げた。
「そうですねえ」
その一瞬、マルタンは彼女の目が入口ではなく、空席の方へ向いたのを見た。
リオンが座っていない席。
だが、ミレーヌはすぐに視線を戻した。
「皆様、怖いので遠慮しておきます」
「逃げた」
オットーが笑う。
「逃げていません。賢明な判断です」
ミレーヌはそう言って、今度はマルタンへ向いた。
「そういえば、マルタンさんはご結婚されているんですよね」
卓の空気が、一瞬止まった。
オットーの顔が変わった。
フリッツが「あ」と小さく言った。
ヘルマンが杯を置いた。
「やりやがったな」
オットーが呟いた。
「え?」
ミレーヌが瞬いた。
時すでに遅かった。
マルタンは背筋を伸ばした。
「はい。妻はセリーヌと申します」
「あ、はい」
「ヴァレーヌ共和国南部、ラ・ヴィーニュ村の者でして」
「ラ・ヴィーニュ村」
「葡萄の村という意味です」
オットーが天井を仰いだ。
「始まった」
マルタンは気づかなかった。
「ラ・ヴィーニュの葡萄畑は、帝都の方々が想像されるような立派なものではございません。丘に沿って棚がありまして、土は赤く、雨の後などは靴が大変なことになります。しかし夕暮れ時には、葉の裏まで金色に光りましてな」
「へえ」
ミレーヌは笑顔で聞いていた。
「葡萄酒も、決して高級品ではありません。安物です。ですが、土の匂いがいたします。帝都の上等な酒は香りが整っておりますが、我が村の酒は、こう、喉を通ったあとに丘が残るのです」
「丘が」
「はい。丘が」
フリッツが小声で言った。
「丘が残るって何ですか」
ヘルマンが答えた。
「聞くな。長くなる」
「それから妻の煮込みですが」
マルタンは止まらなかった。
「豆と玉葱と安い肉を使うのですが、葡萄酒を少し垂らすのです。ほんの少しです。入れすぎると香りが勝ってしまう。しかし少なすぎると、ただの豆の煮込みになる。その加減が、妻は実に上手でして」
「奥様、お料理上手なんですね」
「はい」
マルタンは誇らしげに頷いた。
「セリーヌは、帳簿も料理も子育ても、私よりずっと上手です。私が上手なのは剣くらいで」
「それ、一番怖いやつですよ」
オットーが言った。
「いえいえ。ラ・ヴィーニュ村では剣など、子どもに字を教えるついでのようなものでした」
「ついでであの腕なのかよ」
酒が進むにつれ、マルタンの話はさらに広がった。
ラ・ヴィーニュの朝市。
ベルナールという葡萄農家の腹の大きさ。
リュカが鶏を追いかけて叱られた話。
ミレーヌが葡萄を口いっぱいに詰めて腹を壊した話。
エミールはまだ父を知らないという話になると、一瞬だけ声が小さくなったが、すぐにまた村のパンの話へ戻った。
ミレーヌは、時々笑いながら聞いていた。
オットーは途中で後悔した顔になった。
フリッツは真面目に頷き続け、結果としてさらに話を長引かせた。
ヘルマンは黙って飲み、たまに「それで」と促してしまい、やはり話を長引かせた。
夜は更けていった。
暴動の煙の匂いは、まだ外套に残っていた。
市場で向けられた憎しみも、捕虜が毒で死んだ謎も、消えたわけではない。
それでも、その夜だけは、半地下の酒場に笑い声があった。
マルタンは酔い、故郷の葡萄畑を語り続けた。
誰もが最初は困った顔をしていたが、やがて少しずつ笑った。
そしてミレーヌだけが、時折入口の方を見た。
来なかった黒髪の貴族を、ほんの少しだけ待つように。




