第13話 共和国人街の先生
クレール・モローは、帝都の夜が嫌いだった。
昔から嫌いだったわけではない。
子どもの頃は、むしろ好きだった。
昼の共和国人街は忙しい。
葡萄酒商が樽を転がし、布屋が帳簿をめくり、靴職人が革を叩き、女たちが値切り、子どもたちが路地を走る。
帝国語とヴァレーヌ語が混ざり、焼いた玉葱の匂いと安い葡萄酒の匂いと、染料と革の匂いが重なる。
だが夜になると、街は少しだけ静かになった。
店の灯りが落ち、窓から家族の声が漏れ、どこかの家で古いヴァレーヌの歌が聞こえた。
帝都にいながら、ここだけは小さな故郷のようだった。
少なくとも、少し前までは。
「帝国から出ていけ!」
その言葉が最初に壁へ書かれたのは、二月ほど前のことだった。
誰が書いたのかは分からない。
朝、パン屋の壁に黒い塗料で大きく書かれていた。
店主は無言で水をかけ、息子が布でこすった。だが塗料は染みつき、完全には落ちなかった。
次は葡萄酒商の窓が割られた。
その次は、夜道で荷運びの若者が殴られた。
靴職人のジル・カルパンの店には、石と一緒に紙片が投げ込まれた。
共和国人が帝都のパンを盗んでいる。
ヴァレーヌ商人が小麦を買い占めている。
共和政の犬どもを追い出せ。
そんなことが書いてあった。
クレールは仕立て屋で働いていた。
昼は針を持ち、夜は棒を持つ。
帝国当局を信用していないからではない。
いや、少しはそうだった。
だが、それ以上に、自分たちの路地は自分たちで見張るしかなかった。
共和国人街の自警団は、そうしてできた。
自警団といっても、立派なものではない。
葡萄酒商のガストン・ブレルが顔役になり、荷運びの若者たち、職人、店番、夜に手の空く者が集まっただけだ。
武器も、棍棒や杖や鍬の柄ばかりである。
それでも、いるといないとでは違った。
そして、少し前から、その自警団には妙な男が加わっていた。
名を、マルクと名乗った。
ヴァレーヌのリュシアン方面の出で、行商人の用心棒兼人夫として帝都へ来たという。
年は三十を少し過ぎたくらいだろうか。
背は高すぎず、低すぎず。体つきは細く見えるのに、荷を持つと妙に安定している。
いつも古い外套を着て、腰には長剣を下げていた。
それだけなら、用心棒らしいと言えなくもない。
だが、マルクは用心棒にしては腰が低すぎた。
「すみません、少し通ります」
狭い路地で子どもとすれ違う時にも頭を下げる。
「お手伝いしましょうか」
老婆が水桶を持っていれば、当たり前のように持つ。
「いえいえ、私など大した者では」
腕を褒められれば、捨てられそうな子犬のような顔で首を振る。
そのくせ、強かった。
初めてそれを見たのは、共和国人街の南口で嫌がらせがあった夜だった。
帝国人の若者が三人、酒に酔って路地へ入ってきた。
彼らはヴァレーヌ語の看板を蹴り、「共和国へ帰れ」と叫び、止めに入ったテオ・ラヴェルを突き飛ばした。
テオは血気盛んな若者だ。
殴られれば殴り返す。
その夜も、すぐに棒を構えた。
「やめておきなさい」
マルクが言った。
声は柔らかかった。
「止めるなよ、マルクさん」
テオは歯をむいた。
「あいつら、また来たんだぞ」
「だからです」
マルクは前へ出た。
帝国人の一人が笑った。
「何だ、おっさん。共和国の剣士様か?」
「いえ。ただの人夫です」
「なら引っ込んでろ!」
拳が飛んだ。
マルクは、ほとんど動かなかった。
少しだけ体をずらし、相手の手首に外套の下から出した鞘を添えた。
次の瞬間、男は自分で足をもつれさせたように転んでいた。
もう一人が掴みかかる。
マルクは頭を下げるように身を沈め、相手の肘を押した。
男は壁に肩からぶつかり、呻いた。
三人目は短刀に手をかけた。
クレールは息を呑んだ。
しかしマルクの声が低くなった。
「それはおやめなさい」
丁寧な言葉だった。
なのに、夜気が冷えたように感じた。
短刀を抜きかけた男は一瞬ひるんだ。
その一瞬で、マルクの鞘が男の手首を打った。
短刀が石畳を滑る。
マルクはそれを足で遠くへ蹴り、男の襟首を掴んで壁に押しつけた。
「帰り道は分かりますか」
マルクは言った。
「分かるなら、今夜はお帰りください」
帝国人たちは、罵声を残して逃げていった。
テオは呆然としていた。
「すげえ」
それが、彼の第一声だった。
マルクは困ったように笑った。
「酔っておられましたので」
「酔ってたって、あんな簡単には倒れないだろ」
「足元を見れば、だいたい倒れるか分かります」
その日から、自警団の中でマルクへの見方は変わった。
彼は年長者のガストンからも頼られるようになった。
夜警の組み方、路地の見張り位置、子どもや老人を先に逃がす道順。
マルクはそれを、押しつけがましくなく助言した。
「ここに二人置くより、角の手前に一人置いた方がよろしいかと」
「なぜだ」
「この先は一本道に見えますが、裏口が三つあります。逃げる側にも、逃げ込む側にも使われます」
ガストンは太い腕を組んで唸った。
「用心棒にしては、よく道を見るな」
「昔、よく買い物を頼まれましたので」
「何の話だ」
「道を間違えると叱られます」
ガストンは大笑いした。
クレールも笑った。
マルクは真顔だった。
それもまた、おかしかった。
子どもたちも、彼に懐いた。
最初は長剣が珍しかったのだろう。
小さな男の子たちが「剣を見せて」とまとわりついた。
マルクは困った顔をしながらも、刃は見せなかった。
「剣は、抜かない方がよいものです」
「でも、戦うんでしょ」
「できれば逃げます」
「剣士なのに?」
「待っている者がいるなら、なるべく逃げるのです」
子どもたちは意味が分からない顔をした。
クレールは少しだけ胸が痛んだ。
待っている者。
家族だろうか。恋人だろうか。あるいは、ただの言い回しなのだろうか。
そう思ってから、なぜ自分がそんなことを気にしているのかに気づき、頬が熱くなった。
マルクは子どもたちに木切れを持たせ、剣の振り方ではなく逃げ方を教えた。
「怖い人が来たら、まず大人を呼びなさい」
「大人がいなかったら?」
「走りなさい」
「追いつかれたら?」
「大きな声を出しなさい」
「それでも駄目なら?」
マルクは少し考えた。
「相手の足を踏みなさい。強く。できれば親指を」
子どもたちは歓声を上げた。
テオが横で笑った。
「先生、剣術じゃなくて悪知恵だろ」
「生き残る知恵です」
「先生?」
クレールはその言葉に反応した。
マルクは一瞬だけ固まった。
「いえ。昔、少しだけ人に教えることがありまして」
「先生でもやってたの?」
クレールが尋ねると、マルクは曖昧に笑った。
「まあ、似たようなことを。場所は粗末でしたが」
「何それ」
「雨漏りのする立派な教室です」
彼はそう言って、話をそらした。
クレールは、それ以上聞かなかった。
聞きたいことは増えていた。
どこの出なのか。
なぜ帝都へ来たのか。
待っている者とは誰なのか。
なぜ時々、子どもたちを見る目があんなに遠くなるのか。
だが、マルクには聞かれたくない線がある。
クレールはそう感じていた。
共和国人街の住民たちも、次第に彼を受け入れた。
靴職人のジルは、店先の壊れた戸板を直す時、マルクに手伝わせた。
女将のマノンは、余った煮込みを彼に持たせた。
ガストンは夜警の終わりに葡萄酒を一杯だけ注いだ。
「安物だがな」
ガストンが言うと、マルクは真面目に杯を見た。
「ヴァレーヌの葡萄酒は、安物ほど土地が出ます」
「分かる口か」
「少しだけ」
マルクは一口飲み、目を細めた。
「帝都の酒は、整いすぎています」
「言うねえ」
「いえ、失礼しました」
クレールは笑った。
彼のそういうところが好きだった。
強いのに威張らない。
優しいのに、どこか遠い。
ふざけているようで、ふとした瞬間にひどく寂しそうな顔をする。
気にならない方が難しかった。
もちろん、それを誰かに言うつもりはない。
テオなどに知られたら、一生からかわれる。
その夜、共和国人街では再び夜警が組まれた。
帝国人保守派がまた来るという噂があった。
物価高暴動のあと、帝都市民の怒りは新しい標的を探している。
ヴァレーヌ商人が小麦を買い占めた。
共和国人が帝都のパンを盗んだ。
そんな噂が、まるで誰かに撒かれた粉のように街へ広がっていた。
クレールはマルクと同じ組になった。
嬉しいと思ってしまった自分を、心の中で叱った。
夜警は遊びではない。
恋の真似事をしている場合でもない。
それでも、隣を歩くマルクの足音は落ち着いていて、頼もしかった。
「寒くありませんか」
彼が尋ねた。
「平気」
「無理はなさらず」
「あなた、誰にでもそう言うのね」
マルクは少し困った顔をした。
「そうでしょうか」
「そうよ。子どもにも、老人にも、私にも」
「では、悪い癖です」
「悪くはないわ」
クレールは言ってから、少し後悔した。
思ったより優しい声になってしまった。
マルクは彼女を見た。
「ありがとうございます」
また頭を下げる。
クレールは思わず笑った。
「もう。そういうところ」
「どのようなところでしょう」
「何でもない」
その時、路地の先で物音がした。
二人は同時に足を止めた。
影が三つ。
いや、四つ。
フードをかぶった男たちが、ジルの靴店の前に立っていた。
一人が袋から石を取り出している。
クレールは棒を握り直した。
マルクは、まだ剣を抜かない。
「お待ちください」
彼は静かに言った。
男たちが振り返る。
「ここは夜分、閉まっております」
「共和国人街の番犬か」
男の一人が吐き捨てた。
「帝国のパンを盗んだ連中が、店を閉めれば許されると思うな」
「誤解です」
マルクは一歩前へ出た。
「この店は靴職人です。パンは焼いておりません」
一瞬、クレールは場違いにも笑いそうになった。
男たちは笑わなかった。
石が飛んだ。
マルクは鞘で弾いた。
次の瞬間、路地は動き出した。
クレールも棒を構え、テオたちを呼ぶ合図の笛を吹いた。
マルクは前へ出る。
相手を傷つけすぎないように、けれど確実に止める動きだった。
石を投げた男の手首を打つ。
掴みかかった男の足を払う。
棍棒を振った男の肘を押さえ、壁へぶつける。
強い。
やはり強い。
クレールは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
恐怖ではなかった。
笛を聞いた自警団員たちが駆けつけ、男たちは逃げ出した。
一人をテオが捕まえ、もう一人をガストンが押さえ込む。
マルクは最後まで剣を抜かなかった。
「怪我は」
彼はクレールに聞いた。
「ないわ」
「よかった」
その一言が、なぜか胸に残った。
騒ぎが収まったあと、捕まえた男たちは自警団の詰所代わりの倉庫へ連れていかれた。
マルクは後片付けを手伝い、割れた戸板を起こし、石を拾い、ジルに深く頭を下げた。
「私がもう少し早く気づいていれば」
「何言ってる」
ジルは苦笑した。
「あんたがいなきゃ、店ごと壊されてたよ」
マルクはまた困った顔をした。
夜が更けた。
自警団は解散し、それぞれの家へ戻った。
クレールも帰るはずだった。
だが、ふと、マルクの姿が見えないことに気づいた。
詰所にもいない。
ジルの店にもいない。
ガストンと話してもいない。
クレールは路地を歩いた。
そして、共和国人街の外れで彼を見つけた。
マルクは一人で歩いていた。
夜更けの路地を、共和国人街の外へ向かって。
足取りは迷っていない。
まるで、行くべき場所が決まっているようだった。
「マルクさん」
呼びかけようとして、クレールは声を飲み込んだ。
彼は振り返らなかった。
古い外套の裾が、路地の角に消える。
クレールは、その場に立ったまま、しばらく動けなかった。
夜の共和国人街は静かだった。
窓の奥には家族の灯りがあり、遠くで誰かが古い歌を口ずさんでいる。
この街に馴染んでいるように見えた男が、夜になると街の外へ出ていく。
それがなぜなのか、クレールには分からなかった。
ただ、胸の奥に、小さな棘のような違和感が残った。




