第14話 この街を守る者
半地下の酒場は、昼でも薄暗い。
準備中の札が掛かった扉の内側で、マルタン・ルクレールは小さな卓を挟んでリオン・フォン・アルトベルクと向かい合っていた。
店内にはまだ客はいない。椅子は卓の上に上げられ、床には拭き掃除の湿り気が残っている。
看板娘のミレーヌは、奥で空樽を動かしていた。
時折こちらを気にしているようだったが、話に割って入ることはない。
「共和国人街の自警団は、思ったより組織立っています」
マルタンは報告した。
「ただし、武器は粗末です。棍棒、杖、鍬の柄。夜警の組み方もまだ甘い。ですが、街を守ろうという意志は本物です」
「主観が混じっているな」
リオンは水にも手をつけずに言った。
「はい」
マルタンは素直に認めた。
リオンの眉がわずかに動く。
「否定しないのか」
「実際、混じっておりますので」
「厄介だな」
リオンは椅子にもたれた。
「続けろ」
「嫌がらせは増えています。店への投石、夜道での襲撃、壁への落書き。『共和国人が帝都のパンを盗んでいる』という噂が広がっています。保守派の帝国人だけでなく、普通の市民にも信じ始めている者がいます」
「買い占めの証拠は」
「少なくとも、共和国人街の小商人にそんな力はありません。大きな倉庫を持つ者も、帝都の小麦価格を左右するほどでは」
「それを君が言うのは、共和国人街に肩入れしているからか」
マルタンは一瞬黙った。
リオンは見逃さない。
「ルクレール。君が彼らの信頼を得るのは有用だ。共和国語を話し、共和国人として振る舞える者は灰鷹隊には少ない。だが、目的を間違えるな」
「目的は、共和国エージェントの情報収集」
「そうだ」
リオンの声は冷たい。
「彼らを守ることではない」
マルタンは、すぐには答えられなかった。
共和国人街の子どもたち。
靴職人ジルの壊された戸板。
ガストンのくたびれた帽子。
クレールが夜警で棒を握る手。
彼らは帝都を壊そうとしている革命派ではなかった。
ただ、店を守り、家族を守り、夜を越えようとしている生活者だった。
「彼らへの襲撃を止めることは、治安維持にも繋がります」
マルタンは言った。
「綺麗な言い方だ」
「間違っていますか」
「間違ってはいない。だから危険だ」
リオンは卓の上で指を組んだ。
「正しい理由がある時、人は踏み込みすぎる」
マルタンは視線を落とした。
「灰鷹隊として、共和国人街を支援することは」
「できない」
答えは即座だった。
「彼らは外国人街だ。しかもヴァレーヌ人。灰鷹隊が表立って支援すれば、帝国市民から共和国人の肩を持ったと言われる。南部公爵家や中央軍も黙っていない。何より、君の潜入が終わる」
「では、彼らは自分たちで何とかするしかない」
「そうだ」
リオンはマルタンを見た。
「そして君は、彼らの仲間ではない」
その言葉は静かだった。
だからこそ、深く刺さった。
「承知しています」
「していない顔だ」
「……努力します」
「その答えも、あまり信用ならないな」
リオンは立ち上がった。
「保守過激派の主犯格を追うのは構わない。捕まえれば多少は静かになる。だが忘れるな。君の任務は、その奥だ。誰が噂を流し、誰が帝国人と共和国人をぶつけようとしているのか。それを探れ」
「はい」
マルタンは頭を下げた。
ミレーヌが奥から顔を出した。
「もう終わりですか?」
「終わりだ」
リオンは短く答えた。
「お水、出しましょうか」
「いらない」
「たまには飲んでください。人は水を飲まないと怒りっぽくなります」
「君は誰にでもそれを言うのか」
「怒りっぽい人にだけです」
リオンは何も言わずに店を出た。
ミレーヌはその背中を見送ったあと、マルタンに小さく笑った。
「相変わらずですね」
「はい」
「マルタンさんも、あまり無理しないでくださいね」
マルタンは少し驚いた。
「私も怒りっぽく見えますか」
「いいえ」
ミレーヌは首を横に振った。
「でも、優しい人ほど、怒る時が怖いですから」
◇
その夜、共和国人街の倉庫には、自警団の主だった者たちが集まっていた。
ガストン・ブレルが古い樽に腰掛け、腕を組んでいる。
クレール・モローは壁際に立ち、短い棒を手にしていた。
テオ・ラヴェルは落ち着かず、何度も足を組み替えている。
他にも、荷運び、職人、店番たちがいた。
マルタンは、ここではマルクだった。
「次は北門通りだ」
ガストンが低い声で言った。
「ホフマンの連中は、いつも酒場で気勢を上げてから来る。今夜も同じなら、北門通りから入ってジルの店かマノンの店を狙う」
「またジルさんの店かよ」
テオが拳を握った。
「あの連中、靴に恨みでもあるのか」
「店が角にあるから狙いやすいんだ」
マルクは静かに言った。
「それに、前に戸板を壊されました。修理したばかりのものをまた壊せば、恐怖を与えられると思っているのでしょう」
「胸糞悪いな」
「はい」
マルクが素直に頷くと、テオは少し拍子抜けした顔をした。
「マルクさんも、そういうこと言うんだな」
「胸糞悪いものは、胸糞悪いです」
クレールが小さく笑った。
その時、倉庫の扉が開いた。
「では、胸糞悪い相手には、胸糞悪いくらい丁寧な罠を用意しましょう」
入ってきた男は、柔らかな声でそう言った。
年は三十前後。
身なりは質素だが清潔で、旅商人にも書記にも見える。
濃い髪を後ろで束ね、目元には穏やかな笑みがある。
「ヴァンサン」
ガストンが顔を上げた。
「遅かったな」
「申し訳ありません。少し遠回りをしてきました」
ヴァンサン・ルノワール。
マルクは、その名を初めて聞いた。
共和国人街の者たちは彼を知っているようだった。
テオは親しげに手を上げ、クレールも軽く会釈した。
「こちらは?」
ヴァンサンの視線がマルクへ向く。
「マルクだ」
ガストンが言った。
「最近手伝ってくれている。腕が立つ」
「それは心強い」
ヴァンサンは微笑み、マルクへ手を差し出した。
「ヴァンサン・ルノワールです。共和国人街の連絡役のようなことをしています」
「マルクです」
マルクは握手に応じた。
手は柔らかくない。
書記の手ではなかった。
だが、剣士の手とも違う。
隠し事がある手のようだ。
マルクはそう感じた。
ヴァンサンは笑みを崩さなかった。
「南部のご出身ですか」
「リュシアン方面です」
「そうでしたか」
ヴァンサンはそれ以上聞かなかった。
聞かなかったことが、かえって気になった。
作戦はすぐにまとまった。
北門通りの入口に見張りを置く。
ジルの靴店には明かりを落とさせる。
マノンの店の裏口を開け、逃げ道に見せかける。
実際にはそこへ自警団員を隠す。
通りの奥には荷車を置き、逃走路を狭める。
マルクの提案に、ヴァンサンがいくつか補足した。
「彼らは酔って来る。真正面の抵抗には強気ですが、退路が塞がれると急に弱くなる。捕まえるなら、最初に一人を倒して勢いを折るより、全員が入り込んだところで出口を塞ぐ方がいい」
「同感です」
マルクは答えた。
ヴァンサンは嬉しそうに頷いた。
「話が早い」
「慣れているだけです」
「何に?」
「……騒ぎに」
ヴァンサンは笑った。
クレールは、二人を見比べた。
「何だか、二人とも怖いわね」
「私もですか」
マルクが困った顔をする。
「マルクさんは、怖くないふりをしているから怖い」
テオが笑った。
「それ分かる」
「心外です」
マルクは本気で傷ついたような顔をした。
ヴァンサンは、その様子をじっと見ていた。
◇
襲撃は、予想通りその夜に来た。
北門通りの向こうから、酔った歌声が聞こえてきた。
帝国の古い軍歌だった。
「共和国人は帝国から出ていけ!」
誰かが叫ぶ。
石が一つ、ジルの店の戸板に当たった。
マルクは暗がりで息を潜めた。
隣にはクレールがいる。
彼女は緊張していたが、逃げ腰ではなかった。
「大丈夫ですか」
マルクが囁く。
「それ、私の台詞」
「そうですか」
「あなた、いつも人の心配ばかりね」
「悪い癖です」
クレールは小さく笑った。
通りへ入ってきたのは七人だった。
先頭にいる大柄な男が、ベルトラム・ホフマン。
元兵士とも、食い詰めた工房職人とも言われる男で、最近の襲撃の主犯格と見られている。
「出てこい、共和国犬ども!」
ホフマンが棍棒で戸板を叩いた。
「帝都のパンを盗んだ分、今夜は払ってもらうぞ!」
マルクは奥歯を噛んだ。
パンを盗んだ者など、ここにはいない。
だが、今それを言っても意味はない。
ホフマンたちがマノンの店の裏口へ向かった。
開いている扉を見つけ、罠とも知らずに入り込む。
合図は、ヴァンサンが出した。
窓の隙間から、細い笛の音が鳴る。
「今です」
マルクは飛び出した。
同時に、荷車の陰からテオたちが出る。
裏口の中ではガストンが退路を塞ぐ。
クレールも棒を構えて続いた。
ホフマンたちは一瞬で囲まれた。
「何だ、てめえら!」
「この街の者だ」
ガストンが言った。
「夜中に他人の店を壊す者を、少し叱りに来た」
乱闘になった。
ホフマンの取り巻き、ルッツ・バウアーが最初に棍棒を振り回した。
テオがそれに突っ込みかける。
「待ちなさい!」
マルクが鋭く言った。
テオの足が止まる。
棍棒は空を切った。
その隙にマルクが入る。
鞘でルッツの手首を打ち、膝裏を払った。
ルッツは見事に転んだ。
クレールは別の男の足を棒で止めた。
力では負けるが、二人がかりなら倒せる。
ガストンは太い腕で一人を壁へ押しつけた。
ヴァンサンは戦闘の中心には入らなかった。
だが、逃げようとした男の前にいつの間にか立っていた。
短い杖を相手の胸に当て、柔らかく言う。
「そちらは袋小路です。行かない方がいい」
男が怯んだ瞬間、背後から自警団員が押さえた。
ホフマンだけはしぶとかった。
元兵士という噂は本当らしい。
棍棒の振り方が酔っ払いではない。
重い一撃でテオの棒を弾き飛ばし、ガストンの肩を打った。
「どけ、共和国の鼠ども!」
ホフマンが叫ぶ。
マルクは前へ出た。
「もうおやめなさい」
「お前か、最近うろついてる用心棒は」
「ただの人夫です」
「人夫がそんな目をするかよ!」
ホフマンが棍棒を振り下ろす。
マルクは受けなかった。
半歩ずれ、棍棒の軌道を外し、相手の肘へ鞘を添える。
力を流し、足を払う。
ホフマンは倒れなかった。
踏ん張った。
マルクは少しだけ目を細めた。
「なるほど」
「何がなるほどだ!」
二撃目。
今度はマルクが踏み込んだ。
鞘尻でホフマンの鳩尾を突く。
息が止まったところで、腕を絡め取り、壁へ押しつける。
クレールが縄を投げた。
「マルクさん!」
「ありがとうございます」
マルクはホフマンの手首を縛った。
戦いは終わった。
息を切らす自警団員たちの中で、ヴァンサンだけは涼しい顔をしていた。
「見事です」
彼はマルクに言った。
「いえ。皆さんのおかげです」
「謙遜も、ここまで来ると技ですね」
ヴァンサンは微笑んだ。
ホフマンたちは巡衛隊へ突き出された。
巡衛隊士は面倒そうな顔をしたが、縛られた男たちと壊された戸板、目撃者の数を見て、さすがに引き取った。
「どうせすぐ出てくる」
テオが吐き捨てた。
誰も否定できなかった。
◇
それでも、その夜だけは共和国人街に少し明るい空気が戻った。
マノンの店に自警団員たちが集まり、粗末な卓に葡萄酒と煮込みが並んだ。
勝利というには小さすぎる。
だが、久しぶりに一方的に殴られずに済んだ夜だった。
テオは得意げに話し、クレールは笑い、ガストンは肩をさすりながら葡萄酒を飲んだ。
マルクは端の席にいた。
騒ぎの中心にいるのは苦手らしい。
それでも、住民たちが礼を言いに来るたび、律儀に頭を下げた。
「あなたのおかげよ、マルクさん」
クレールが杯を持って近づいた。
「いえ。皆さんが準備されたからです」
「またそれ」
「事実です」
「事実でも、少しは得意そうにしていいのに」
「得意になると、妻に叱られ……」
マルクはそこで言葉を止めた。
クレールは瞬いた。
今、何と言いかけたのか。
だが、マルクはすぐに咳払いをした。
「昔、よく叱られまして」
「誰に?」
「いろいろな方に」
「ごまかした」
「はい」
「認めるのね」
クレールは笑った。
その時、ヴァンサンが店に入ってきた。
手には細長い瓶を二本抱えている。
「少しだけ、良いものを持ってきました」
ガストンが目を丸くした。
「おい、それは」
「ヴァレーヌ南部の葡萄酒です」
ヴァンサンは瓶を掲げた。
「安物ではありませんよ。祝いには、これくらい許されるでしょう」
歓声が上がった。
マルクの手が、わずかに止まった。
ヴァレーヌ南部。
それだけなら珍しくない。
葡萄酒は南部の特産だ。
ヴァンサンは瓶を開け、杯に注いだ。
深い赤の酒だった。
彼は一杯をマルクへ差し出した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
マルクは受け取った。
香りがした。
土と葡萄の皮と、夕暮れの丘の匂い。
ラ・ヴィーニュ村の酒ではない。
だが、近い。
胸の奥が小さく痛んだ。
ヴァンサンは、穏やかな笑顔のまま言った。
「故郷の葡萄酒は、美味いでしょう?」
店の笑い声が、遠くなった。
マルクは、杯を持ったまま動かなかった。
故郷。
彼はここで、故郷を言っていない。
リュシアン方面だとしか言っていない。
南部だとは明かしていない。
まして、葡萄酒の村などとは一言も。
マルクは顔を変えなかった。
何も反応しなかった。
ただ、静かに杯を口元へ運んだ。
「ええ」
彼は答えた。
「ヴァレーヌの葡萄酒は、どこのものでも美味しゅうございます」
「そうですね」
ヴァンサンは微笑んだ。
その目だけは、笑っていなかった。
クレールは、二人の間に一瞬流れた冷たいものに気づかなかった。
いや、気づいたかもしれない。
だが、それが何なのかは分からなかった。
店の中では、また笑い声が上がった。
誰かが歌い始めた。
テオが調子外れに合わせ、ガストンが腹を揺らして笑った。
マルクは杯を置いた。
その夜、共和国人街は久しぶりに勝った。
だがマルタン・ルクレールは、目の前の男が自分の故郷を知っていることを知った。
そして、その事実を誰にも言えなかった。




