第15話 ヴァンサンを追って
ベルトラム・ホフマンは、二日で釈放された。
その知らせを聞いた時、マルタン・ルクレールは半地下の酒場にいた。
まだ昼で、店は準備中だった。卓の上には椅子が上げられ、床には掃除の水気が残っている。
リオン・フォン・アルトベルクは、淡々と告げた。
「保守派の有力者が口を利いたらしい。証拠不十分、酒の勢い、愛国心の行き過ぎ。そんなところだ」
「店を襲い、人を殴り、脅した男がですか」
「そうだ」
「共和政を罵ったから、見逃されたのですか」
「見逃された理由の一つではあるだろうな」
リオンの声は冷たかった。
怒っていないわけではない。だが、怒りを表に出しても何も動かないことを知っている声だった。
マルタンは卓の下で拳を握った。
共和国人街の人々は、ホフマンたちが捕まったことで少しだけ安心していた。
クレールも、テオも、ガストンも、マノンも、ジルも。
彼らはようやく、帝国の法が少しは自分たちを守るのではないかと期待した。
その期待が、二日で踏みにじられた。
「彼らには、どう伝えれば」
「伝える必要はない」
リオンは即答した。
「いずれ知る」
「それでは余計に」
「余計に何だ」
マルタンは言葉を飲み込んだ。
余計に傷つく。
余計に帝国を憎む。
余計に革命派の言葉へ近づく。
それは、言われなくてもリオンは分かっている。
「ルクレール」
リオンは静かに言った。
「いい加減にしろ」
マルタンは顔を上げた。
「君は何をしに共和国人街へ入った」
「共和国エージェントの情報収集です」
「そうだ。保守過激派を懲らしめるためでも、共和国人街の守護者になるためでもない」
「しかし」
「しかし、ではない」
リオンの声が低くなった。
「君が彼らに肩入れすればするほど、正体が露見した時に傷は深くなる。彼らも、君もだ」
マルタンは黙った。
「ヴァンサン・ルノワールを調べろ」
その名が出た瞬間、胸の奥が冷えた。
「彼について、何か」
「今のところ、共和国人街に出入りする連絡役。商人とも知識人ともつく。印刷工とも顔がある。自警団からの信頼もある」
「共和国人街では、頼れる方の一人です」
「だから怪しい」
リオンは言った。
「信用される者ほど、火をつけやすい」
マルタンは、前夜の葡萄酒を思い出した。
故郷の葡萄酒は、美味いでしょう?
彼は一言も、故郷を明かしていない。
「分かりました」
「本当にか」
「はい」
「君の返事は、最近ますます信用ならない」
リオンは椅子から立ち上がった。
「潜入は大詰めだ。情を置いてこい。持ち込めば、死ぬか、死なせる」
◇
共和国人街へ戻ると、クレール・モローが井戸のそばにいた。
彼女は水桶を持っていた。
いつもの短外套に、袖をまくった腕。作業で荒れた手。
マルタンは、ここではマルクだった。
「どこへ行っていたの?」
クレールは尋ねた。
何気ない声だった。
だが、その奥に小さな探りがあった。
「少し、外へ」
「最近、よく外へ行くのね」
「用心棒兼人夫ですので。顔を出す先がいくつか」
「そう」
クレールは水桶を置いた。
しばらく沈黙があった。
「ホフマンたち、出てきたって」
マルタンは目を伏せた。
「……聞きました」
「やっぱりね」
彼女は笑った。
笑ったが、その目は笑っていなかった。
「帝国の法って、便利ね。私たちが殴られた時だけ、急に目が悪くなる」
「クレールさん」
「ごめん。あなたに言っても仕方ないのに」
「いえ」
「あなたは、よくしてくれてる」
その言葉が痛かった。
マルタンは答えられなかった。
クレールは彼を見上げた。
「今夜も夜警?」
「はい」
「じゃあ、あとで」
「はい」
クレールは水桶を持ち上げようとした。
マルタンは反射的に手を伸ばしかけ、途中で止めた。
深入りするな。
リオンの声が、頭の中で響いた。
クレールはその手を見た。
「持ってくれないの?」
「……必要でしたら」
「冗談よ」
彼女は少し寂しそうに笑い、自分で桶を持って歩いていった。
マルタンは、その背中を見送った。
かつて、夜明け前のラ・ヴィーニュ村で、走り去る自分を見送っていたセリーヌの姿が一瞬だけ重なった。
彼は目を閉じ、すぐにその幻を追い払った。
今は、任務だ。
◇
その夜、マルタンはヴァンサン・ルノワールを尾行した。
ヴァンサンは共和国人街の集まりを終えたあと、まっすぐ帰らなかった。
マノンの店で短く話し、ガストンに挨拶し、テオに冗談を言い、クレールには穏やかに会釈した。
誰からも信用されている。
その姿は、見事だった。
ヴァンサンは共和国人街を出て、帝都の古い職人区へ向かった。
マルタンは距離を取りながら追う。
雨は降っていない。
だが、石畳は昼の水撒きで少し湿っていた。
馬車の轍が黒く光り、閉じた工房の窓に月明かりが映る。
ヴァンサンは一度も振り返らなかった。
それが逆に、尾行に気づいている者の歩き方に見えた。
やがて彼は、一軒の印刷所へ入った。
表の看板は古びている。
昼間は帳票や商会の広告を刷る店だろう。
だが、こんな夜更けに明かりが漏れている。
マルタンは裏口へ回った。
鍵はかかっていなかった。
中へ入ると、油と紙とインクの匂いがした。
暗がりの中に印刷機が並び、乾かされた紙が紐に吊られている。
その紙面に書かれた文字を、マルタンは一瞬だけ見た。
民のパンを、貴族の倉に眠らせるな。
古き鎖を断て。
中央広場で拾ったビラと同じ言葉だった。
その声が、印刷機の影から聞こえた。




