第16話 街から出ていって
「やっと二人で話せるな」
奥から声がした。
ヴァンサンがいた。
手には紙束を持っている。
表情は穏やかだった。
まるで、夜の散歩に友人を招いたような顔である。
マルタンは鞘に手を置いた。
「尾行に気づいておられましたか」
「もちろん」
ヴァンサンは微笑んだ。
「気づかないふりをするのも、こちらの仕事でね」
「印刷所で何をしているのです」
「共和国人なら分かるだろう?」
ヴァンサンは紙束を軽く叩いた。
「祖国で起きたことと同じことだ」
「これは帝都を燃やす紙です」
「違う。帝都に火があることを知らせる紙だ」
「言い方の問題ではありません」
「いや、言い方の問題だよ、ルクレール先生」
その呼び方に、マルタンの指が止まった。
ヴァンサンは笑みを深めた。
「マルタン・ルクレール。ラ・ヴィーニュ村の長剣師範。妻はセリーヌ。子はリュカ、ミレーヌ、そしてエミール。帝国ではマルクと名乗り、灰鷹隊の犬として共和国人街へ入り込んでいる」
マルタンは顔を変えなかった。
変えなかったつもりだった。
だが、胸の奥で何かが凍った。
「よく調べましたね」
「調べるのが仕事だ」
「家族に手を出すつもりですか」
「今のところはない」
「今のところ」
「君次第だ」
ヴァンサンは紙束を机に置いた。
「君は祖国に戻るべきだ。帝国に剣を売る必要はない。協力しろ。灰鷹隊の情報を流せ。リオン・フォン・アルトベルクが何を探っているのか、ロビン・フォン・バーゼルがどこへ出るのか、レイバーが何を調べているのか」
「報酬は?」
マルタンは静かに聞いた。
ヴァンサンは少し目を細めた。
「必要なだけ払う。セリーヌと子どもたちには本国での保護と仕事を斡旋する。君の道場も再建できるかもしれない」
「旧騎士長剣術の道場を、共和国が?」
「時代に合わせた形で、だ。護身術、体育、青少年教育。名前など変えればいい」
マルタンは、ほんの少しだけ笑いそうになった。
それは確かに、魅力的な話だった。
金。
家族の安全。
本国での仕事。
道場再建。
欲しかったものばかりだった。
いや、欲しかったものだけだった。
セリーヌは守られる。
リュカとミレーヌとエミールは食べていける。
アルマンに頭を下げ続ける必要も、敵国で共和国人として疑われ続ける必要もない。
剣術も、名を変えれば残せる。
家族のためだけなら、これ以上ない提案だった。
なのに、不思議なほど心は動かなかった。
自分でも驚いた。
そして、驚いた自分を、マルタンはすぐに見ないことにした。
「お断りします」
ヴァンサンの笑みが薄くなった。
「即答か」
「はい」
「帝国に忠義があるのか」
「ありません」
「では、灰鷹隊に?」
「それも、少し違います」
「なら、なぜ」
マルタンは答えに迷った。
家族のため。
そう言えば簡単だった。
だが、ヴァンサンの提案も家族のためになる。
むしろ、家族だけを考えるなら、その方がよほど正しいのかもしれない。
それでも拒んだ理由は、もっと単純で、もっと言葉にしにくかった。
ここで頷けば、帝国へ渡った自分が間違いだったことになる。
セリーヌを置いて家を出た夜も、密入国の道も、灰鷹隊で受け取った給金も、刃毀れの嘘も、全部が遠回りだったことになる。
それを認めることが、できなかった。
「私は」
マルタンは言った。
「私を信用してくれた人を、売りたくありません」
ヴァンサンはしばらく黙った。
それから、小さく笑った。
「甘いな」
「よく言われます」
「その甘さで、帝国に使い潰される」
「かもしれません」
「共和国人街の者たちにも、いずれ憎まれる」
「それも、かもしれません」
「それでも?」
「はい」
ヴァンサンは紙束の横に手を置いた。
次の瞬間、紙束の下から短い刃が出た。
マルタンは鞘ごと長剣を外した。
刃と鞘がぶつかる。
印刷所に乾いた音が響いた。
ヴァンサンの戦い方は、剣士のものではなかった。
短剣。
袖の中の細い刃。
足元への蹴り。
投げた活字片。
紙束で視線を塞ぎ、印刷台を挟んで距離を作る。
殺すためというより、逃げるための戦い方だった。
だが、弱くはない。
マルタンは鞘で短剣を受け、肩で印刷台を押しのけた。
長剣を抜けば早い。
しかしここは狭く、紙が多い。火でもつけば終わりだ。
「なぜそこまで灰鷹に肩入れする?」
ヴァンサンが低く言った。
「連中は帝国の犬だ。平民を押さえつけ、貴族を守り、君のような男を使い捨てる」
「その灰鷹隊に、私は給金をいただいております」
「金か」
「はい」
マルタンは踏み込んだ。
「金は大事です」
鞘尻がヴァンサンの肩をかすめた。
「ですが、金だけではありません」
「では何だ」
「約束です」
マルタンは短剣を弾いた。
「受けた役目を果たす。信じて預けられた背中を売らない。そういう、古い約束です」
「旧騎士の戯言だな」
「はい」
マルタンは静かに言った。
「それしか残っておりませんので」
ヴァンサンの目が細くなった。
その時、印刷所の入口で小さな音がした。
マルタンは気づいた。
ヴァンサンも気づいた。
クレールが立っていた。
彼女は息を切らしていた。
おそらく、マルタンを追ってきたのだ。
手には短い棒。
目は、信じられないものを見たように揺れている。
「そんな……」
彼女の声は震えていた。
「どうして……」
マルタンは一瞬、動きを止めた。
その一瞬を、ヴァンサンは逃さなかった。
活字箱を蹴り倒す。
鉛の小片が床に散らばった。
マルタンの足元が乱れる。
ヴァンサンは裏口へ走った。
マルタンは追おうとした。
その背に、ヴァンサンの声が投げられた。
「安心しろ、ルクレール先生。家族には手を出さない」
マルタンは足を止めかけた。
「アルマン商会のトップの妹と甥たちだからな。手を出すには、少し高くつく」
ヴァンサンは闇へ消えた。
追える距離だった。
だが、足が動かなかった。
家族を守っているのは、自分ではない。
アルマンだ。
アルマンの商会の力だ。
アルマンの名だ。
自分は剣を振っている。
金を送っている。
だが、本当にセリーヌたちを守っている壁は、自分ではなかった。
その現実が、胸の奥を深く刺した。
それでも彼は、アルマンの名に守られている家族の方へは戻らない。
クレールたちの方へも戻らない。
手に残っているのは、長剣と、灰鷹隊で得た役目だけだった。
だから、それを手放せなかった。
「マルクさん」
クレールの声がした。
マルタンは振り返った。
彼女は、印刷されたビラと、散らばった活字と、マルタンの手の中の長剣を見ていた。
「今の人、あなたを……ルクレールって」
マルタンは何か言おうとした。
任務だった。
すまない。
騙すつもりでは。
いや、騙していた。
どの言葉も、口に出せなかった。
「すみません」
結局、それだけが出た。
クレールの顔が歪んだ。
「すみません、って」
涙が浮かんだ。
だが、彼女はこぼさなかった。
「あなた、灰鷹隊なの?」
マルタンは答えられなかった。
沈黙が答えだった。
「私たちを、調べてたの?」
「……はい」
クレールは一歩下がった。
その一歩が、マルタンには剣で斬られるより痛かった。
「この街から出ていって」
静かな声だった。
「クレールさん」
「今なら、誰にも言わない」
彼女は震える声で続けた。
「でも、次に見たら言う。ガストンにも、テオにも、みんなにも。だから、今すぐ出ていって」
冷たい言葉だった。
だが、それは逃がすための言葉でもあった。
マルタンには分かった。
分かってしまった。
「申し訳ありません」
彼は深く頭を下げた。
クレールは顔を背けた。
「謝らないで」
その声で、マルタンの胸が詰まった。
かつて夜明け前、ラ・ヴィーニュ村を出た時にも、彼は誰かを置いて走った。
あの時は、セリーヌが追いかけてきた。
抱きしめて、約束して、振り切るように走った。
今度は、抱きしめることも、約束することもできなかった。
マルタンは踵を返した。
走った。
共和国人街の路地を抜ける。
夜の窓に灯る家族の光が、背後へ流れていく。
彼は振り返らなかった。
印刷所の中で、クレールは膝から崩れ落ちた。
声を殺そうとして、できなかった。
共和国人街の夜に、彼女の泣き声が小さくこぼれた。
マルタンはそれを聞きながら、走った。




