↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/43

第16話 街から出ていって


「やっと二人で話せるな」


 奥から声がした。


 ヴァンサンがいた。


 手には紙束を持っている。

 表情は穏やかだった。

 まるで、夜の散歩に友人を招いたような顔である。


 マルタンは鞘に手を置いた。


「尾行に気づいておられましたか」


「もちろん」


 ヴァンサンは微笑んだ。


「気づかないふりをするのも、こちらの仕事でね」


「印刷所で何をしているのです」


「共和国人なら分かるだろう?」


 ヴァンサンは紙束を軽く叩いた。


「祖国で起きたことと同じことだ」


「これは帝都を燃やす紙です」


「違う。帝都に火があることを知らせる紙だ」


「言い方の問題ではありません」


「いや、言い方の問題だよ、ルクレール先生」


 その呼び方に、マルタンの指が止まった。


 ヴァンサンは笑みを深めた。


「マルタン・ルクレール。ラ・ヴィーニュ村の長剣師範。妻はセリーヌ。子はリュカ、ミレーヌ、そしてエミール。帝国ではマルクと名乗り、灰鷹隊の犬として共和国人街へ入り込んでいる」


 マルタンは顔を変えなかった。


 変えなかったつもりだった。


 だが、胸の奥で何かが凍った。


「よく調べましたね」


「調べるのが仕事だ」


「家族に手を出すつもりですか」


「今のところはない」


「今のところ」


「君次第だ」


 ヴァンサンは紙束を机に置いた。


「君は祖国に戻るべきだ。帝国に剣を売る必要はない。協力しろ。灰鷹隊の情報を流せ。リオン・フォン・アルトベルクが何を探っているのか、ロビン・フォン・バーゼルがどこへ出るのか、レイバーが何を調べているのか」


「報酬は?」


 マルタンは静かに聞いた。


 ヴァンサンは少し目を細めた。


「必要なだけ払う。セリーヌと子どもたちには本国での保護と仕事を斡旋する。君の道場も再建できるかもしれない」


「旧騎士長剣術の道場を、共和国が?」


「時代に合わせた形で、だ。護身術、体育、青少年教育。名前など変えればいい」


 マルタンは、ほんの少しだけ笑いそうになった。


 それは確かに、魅力的な話だった。


 金。

 家族の安全。

 本国での仕事。

 道場再建。


 欲しかったものばかりだった。


 いや、欲しかったものだけだった。


 セリーヌは守られる。

 リュカとミレーヌとエミールは食べていける。

 アルマンに頭を下げ続ける必要も、敵国で共和国人として疑われ続ける必要もない。

 剣術も、名を変えれば残せる。


 家族のためだけなら、これ以上ない提案だった。


 なのに、不思議なほど心は動かなかった。


 自分でも驚いた。


 そして、驚いた自分を、マルタンはすぐに見ないことにした。


「お断りします」


 ヴァンサンの笑みが薄くなった。


「即答か」


「はい」


「帝国に忠義があるのか」


「ありません」


「では、灰鷹隊に?」


「それも、少し違います」


「なら、なぜ」


 マルタンは答えに迷った。


 家族のため。

 そう言えば簡単だった。


 だが、ヴァンサンの提案も家族のためになる。

 むしろ、家族だけを考えるなら、その方がよほど正しいのかもしれない。


 それでも拒んだ理由は、もっと単純で、もっと言葉にしにくかった。


 ここで頷けば、帝国へ渡った自分が間違いだったことになる。

 セリーヌを置いて家を出た夜も、密入国の道も、灰鷹隊で受け取った給金も、刃毀れの嘘も、全部が遠回りだったことになる。


 それを認めることが、できなかった。


「私は」


 マルタンは言った。


「私を信用してくれた人を、売りたくありません」


 ヴァンサンはしばらく黙った。


 それから、小さく笑った。


「甘いな」


「よく言われます」


「その甘さで、帝国に使い潰される」


「かもしれません」


「共和国人街の者たちにも、いずれ憎まれる」


「それも、かもしれません」


「それでも?」


「はい」


 ヴァンサンは紙束の横に手を置いた。


 次の瞬間、紙束の下から短い刃が出た。


 マルタンは鞘ごと長剣を外した。


 刃と鞘がぶつかる。


 印刷所に乾いた音が響いた。


 ヴァンサンの戦い方は、剣士のものではなかった。


 短剣。

 袖の中の細い刃。

 足元への蹴り。

 投げた活字片。

 紙束で視線を塞ぎ、印刷台を挟んで距離を作る。


 殺すためというより、逃げるための戦い方だった。


 だが、弱くはない。


 マルタンは鞘で短剣を受け、肩で印刷台を押しのけた。

 長剣を抜けば早い。

 しかしここは狭く、紙が多い。火でもつけば終わりだ。


「なぜそこまで灰鷹に肩入れする?」


 ヴァンサンが低く言った。


「連中は帝国の犬だ。平民を押さえつけ、貴族を守り、君のような男を使い捨てる」


「その灰鷹隊に、私は給金をいただいております」


「金か」


「はい」


 マルタンは踏み込んだ。


「金は大事です」


 鞘尻がヴァンサンの肩をかすめた。


「ですが、金だけではありません」


「では何だ」


「約束です」


 マルタンは短剣を弾いた。


「受けた役目を果たす。信じて預けられた背中を売らない。そういう、古い約束です」


「旧騎士の戯言だな」


「はい」


 マルタンは静かに言った。


「それしか残っておりませんので」


 ヴァンサンの目が細くなった。


 その時、印刷所の入口で小さな音がした。


 マルタンは気づいた。

 ヴァンサンも気づいた。


 クレールが立っていた。


 彼女は息を切らしていた。

 おそらく、マルタンを追ってきたのだ。

 手には短い棒。

 目は、信じられないものを見たように揺れている。


「そんな……」


 彼女の声は震えていた。


「どうして……」


 マルタンは一瞬、動きを止めた。


 その一瞬を、ヴァンサンは逃さなかった。


 活字箱を蹴り倒す。

 鉛の小片が床に散らばった。

 マルタンの足元が乱れる。


 ヴァンサンは裏口へ走った。


 マルタンは追おうとした。


 その背に、ヴァンサンの声が投げられた。


「安心しろ、ルクレール先生。家族には手を出さない」


 マルタンは足を止めかけた。


「アルマン商会のトップの妹と甥たちだからな。手を出すには、少し高くつく」


 ヴァンサンは闇へ消えた。


 追える距離だった。


 だが、足が動かなかった。


 家族を守っているのは、自分ではない。


 アルマンだ。

 アルマンの商会の力だ。

 アルマンの名だ。


 自分は剣を振っている。

 金を送っている。

 だが、本当にセリーヌたちを守っている壁は、自分ではなかった。


 その現実が、胸の奥を深く刺した。


 それでも彼は、アルマンの名に守られている家族の方へは戻らない。

 クレールたちの方へも戻らない。


 手に残っているのは、長剣と、灰鷹隊で得た役目だけだった。

 だから、それを手放せなかった。


「マルクさん」


 クレールの声がした。


 マルタンは振り返った。


 彼女は、印刷されたビラと、散らばった活字と、マルタンの手の中の長剣を見ていた。


「今の人、あなたを……ルクレールって」


 マルタンは何か言おうとした。


 任務だった。

 すまない。

 騙すつもりでは。

 いや、騙していた。


 どの言葉も、口に出せなかった。


「すみません」


 結局、それだけが出た。


 クレールの顔が歪んだ。


「すみません、って」


 涙が浮かんだ。

 だが、彼女はこぼさなかった。


「あなた、灰鷹隊なの?」


 マルタンは答えられなかった。


 沈黙が答えだった。


「私たちを、調べてたの?」


「……はい」


 クレールは一歩下がった。


 その一歩が、マルタンには剣で斬られるより痛かった。


「この街から出ていって」


 静かな声だった。


「クレールさん」


「今なら、誰にも言わない」


 彼女は震える声で続けた。


「でも、次に見たら言う。ガストンにも、テオにも、みんなにも。だから、今すぐ出ていって」


 冷たい言葉だった。


 だが、それは逃がすための言葉でもあった。


 マルタンには分かった。


 分かってしまった。


「申し訳ありません」


 彼は深く頭を下げた。


 クレールは顔を背けた。


「謝らないで」


 その声で、マルタンの胸が詰まった。


 かつて夜明け前、ラ・ヴィーニュ村を出た時にも、彼は誰かを置いて走った。

 あの時は、セリーヌが追いかけてきた。

 抱きしめて、約束して、振り切るように走った。


 今度は、抱きしめることも、約束することもできなかった。


 マルタンは踵を返した。


 走った。


 共和国人街の路地を抜ける。

 夜の窓に灯る家族の光が、背後へ流れていく。


 彼は振り返らなかった。


 印刷所の中で、クレールは膝から崩れ落ちた。


 声を殺そうとして、できなかった。


 共和国人街の夜に、彼女の泣き声が小さくこぼれた。


 マルタンはそれを聞きながら、走った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。