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第17話 婚礼の外側


 公爵家の婚礼に、長剣を持ち込む者はいない。


 少なくとも、招かれた客の中には。


 だが、門の外には剣が必要だった。


 ロビン・フォン・バーゼルとエレオノーラ・フォンヴァルトの婚礼の日、公爵邸は朝から落ち着かなかった。

 正門には馬車が並び、貴族家の紋章旗が揺れ、使用人たちは花飾りと料理と客の案内に追われている。

 公爵家の兵は正装し、灰鷹隊の隊士たちも普段より身なりを整えていた。


 灰青色の首布は、今日ばかりは少し誇らしげに見えた。


 マルタン・ルクレールは、招待客ではなかった。


 彼は公爵邸の外塀沿い、馬車道と使用人通用口の間に立っていた。

 腰には長剣。

 肩には灰鷹隊の短外套。

 役目は外周警備である。


 婚礼の内側では、きっと華やかな誓いが交わされているのだろう。

 貴族たちが祝辞を述べ、音楽が鳴り、花が飾られ、エレオノーラが白い衣装をまとっているのだろう。


 マルタンには見えない。


 見えるのは、門の外に集まった下町の人々と、馬車の車輪と、警備配置の表と、怪しい荷物を持った者がいないかという現実だった。


「外側の方が落ち着きますね」


 隣でフリッツ・ハイネが言った。


 彼は槍を持っているが、今日は穂先を布で包んでいる。

 婚礼の日に血が流れては洒落にならない、というレイバーの判断だった。


「そうですか」


 マルタンは答えた。


「中は緊張します。貴族ばっかりで」


「外も貴族の馬車ばかりですよ」


「馬車は喋りませんから」


「たしかに」


 フリッツは少し笑った。


 以前より、笑うようになった。

 エレオノーラ護衛任務で足が止まった若い隊士は、暴動鎮圧を経て、少しだけ自分の足で立てるようになっている。


 その成長を見て、マルタンは嬉しいと思った。


 嬉しいと思ったあとで、自分にはそんな資格があるのだろうかと考えた。


 クレールの顔が浮かぶ。


 この街から出ていって。


 あの言葉は、まだ胸の中に残っていた。

 共和国人街で得た信頼を、彼は任務のために裏切った。

 いや、最初から裏切るために入り込んだ。


 彼女は告発しなかった。

 逃がしてくれた。


 その優しさが、かえって痛かった。


「班長」


 フリッツが声をかけた。


「はい」


「大丈夫ですか」


「何がでしょう」


「いえ。最近、少し……」


 フリッツは言葉を探した。


 マルタンは困ったように笑った。


「疲れが顔に出ておりますか」


「顔というか」


「では、姿勢でしょうか」


「そういうことでは」


「お気遣いありがとうございます」


 マルタンは頭を下げた。


 フリッツは困った顔になった。

 彼はまだ、人を慰めることに慣れていない。

 マルタンも、慰められることに慣れていなかった。


 その時、裏門の方から軽い足音が聞こえた。


 ミレーヌだった。


 半地下の酒場の看板娘である彼女は、いつもの前掛けではなく、少しだけよそ行きの上着を着ていた。

 手には布で包んだ籠を持っている。


「差し入れです」


 彼女は明るく言った。


「酒場から?」


 フリッツが目を輝かせる。


「パンと燻製肉と、少しだけ甘いもの。お酒はありません。警備中ですから」


「残念」


「残念がらないでください」


 ミレーヌは笑いながら籠を差し出した。


 マルタンは頭を下げた。


「ありがとうございます。隊士たちに配らせていただきます」


「マルタンさんも食べてくださいね。最近、顔が細くなってます」


「そうでしょうか」


「そうです」


 ミレーヌは断言した。


「リオン様は?」


 フリッツが何気なく聞いた。


 ミレーヌの目が一瞬だけ揺れた。


「お忙しいのでは」


「たぶん東門です」


 マルタンが言った。


「招待客の馬車の確認をしておられます」


「そうですか」


 ミレーヌは籠の布を直した。


 その時、ちょうど東門の方からリオンが歩いてきた。

 黒髪を整え、普段より少しだけ礼装に近い外套を着ている。

 だが表情はいつも通りだった。


「ミレーヌ」


 彼は短く言った。


「リオン様」


 ミレーヌはすぐに背筋を伸ばした。


「差し入れです。警備の皆様に」


「頼んでいない」


「頼まれなくても持ってきました」


「公爵家の婚礼警備に、酒場の看板娘が出入りするのは本来よろしくない」


「では、ここで帰ります」


 ミレーヌはそう言って、籠をマルタンへ押しつけるように渡した。


 リオンは小さく息を吐いた。


「待て」


 ミレーヌが止まる。


「……差し入れは助かる」


 その一言だけだった。


 だがミレーヌの顔は、ぱっと明るくなった。


「はい」


「ただし、次からは事前に言え」


「次も持ってきていいんですか?」


 リオンは一瞬黙った。


 マルタンは思わず横を向いた。

 フリッツは露骨ににやけそうになり、慌てて顔を引き締めている。


「警備上、確認が必要だと言っている」


「はい。確認します」


 ミレーヌは嬉しそうに頷いた。


 リオンはそれ以上言わず、籠の中から小さな包みを一つ取った。


「これは何だ」


「蜂蜜菓子です」


「警備中に菓子か」


「疲れには甘いものです」


 リオンは不満そうな顔で包みを見た。

 それでも返さなかった。


 ミレーヌは満足そうに笑った。


 マルタンは、その光景を見て少しだけ胸が温かくなった。


 人は、こういう小さなやり取りで救われることがある。

 それを久しく忘れていた気がした。


   ◇


 婚礼は滞りなく進んだ。


 少なくとも外側から見る限りは。


 昼過ぎ、正門の内側から拍手と歓声が聞こえた。

 楽の音が高くなり、花びらが風に乗って外塀の上を越えてきた。


 門の外に集まっていた下町の人々がざわめく。


「今、誓ったのかね」


「隊長さん、ほんとに公爵令嬢と結婚したんだなあ」


「灰鷹隊も偉くなったもんだ」


「でも、あの隊長さんならいいさ。うちの通りの酔っ払いを捕まえてくれたことがある」


 祝福の声ばかりではない。

 成り上がりを面白く思わぬ者もいるだろう。

 貴族の政略を噂する者もいる。


 それでもこの日は、不思議と悪意が薄かった。


 マルタンは、門の外で人々の声を聞いていた。


 妻を迎える男。

 皆に祝福される男。

 守るべき家族がすぐそばにいる男。


 ロビンを羨ましいと思ったわけではない。

 ただ、自分には遠い光だと思った。


 自分の妻は、遠いラ・ヴィーニュ村にいる。

 リュカ、ミレーヌ、エミールもそこにいる。

 自分は金を送っている。

 それだけだ。


 守っているつもりで、実際にはアルマンの商会の名に守られている。

 誰かの街に入り込み、信頼され、裏切り、泣かせて、また走って逃げた。


 そんな自分が、いつかあの家へ帰れるのだろうか。


 そう考えた時、内門の方が少し騒がしくなった。


 公爵家の侍女が一人、こちらへ歩いてきた。

 その後ろに、白い衣装の女性がいた。


 エレオノーラ・フォンヴァルト。

 いや、もうエレオノーラ・フォン・バーゼルと呼ぶべきなのだろう。


 マルタンは慌てて姿勢を正した。


「エレオノーラ様」


 フリッツも驚いて槍を立てた。


 エレオノーラは、警備の者たちへ丁寧に会釈した。

 婚礼衣装のまま外周へ来るなど、本来なら止められるべきことだろう。

 実際、侍女は少し困った顔をしている。


 だが、エレオノーラはまっすぐマルタンの前へ来た。


「ルクレール様」


「様など、とんでもございません」


 マルタンは深く頭を下げた。


「本日は誠におめでとうございます」


「ありがとうございます」


 エレオノーラは微笑んだ。


「どうしても、直接お礼を申し上げたかったのです」


「お礼、でございますか」


「以前、私の護衛任務で、あなたが助けてくださいました。あの時、あなたが扉口を守ってくださらなければ、私は無事ではいられなかったかもしれません」


 マルタンは言葉に詰まった。


「あれは、任務でございました」


「それでもです」


 エレオノーラは、静かに言った。


「あなたが守ってくださったから、私は今日ここに立てています」


 胸の奥で、何かが揺れた。


 守った。


 自分は、守ったのか。


 共和国人街では信頼を裏切った。

 家族は遠く、守れているのか分からない。

 セリーヌの荷を軽くしたつもりで、別の誰かの心を重くした。


 それでも、ここに一人、守れたと言ってくれる人がいる。


 マルタンは頭を下げたまま、少しだけ目を閉じた。


「もったいないお言葉でございます」


「ルクレール様にも、大切な方がいらっしゃるのでしょう」


 エレオノーラの声は柔らかかった。


 マルタンは顔を上げた。


「はい」


「その方々も、あなたが帰ることを待っているはずです」


 マルタンは息を止めた。


 エレオノーラは何も知らない。

 共和国人街のことも、クレールのことも、ヴァンサンのことも。

 ただ、護衛してくれた隊士に礼を言っているだけだ。


 それでも、その言葉はまっすぐ届いた。


 帰ることを待っている。


 セリーヌ。

 リュカ。

 ミレーヌ。

 エミール。


 マルタンは深く、深く頭を下げた。


「必ず、帰りたいと思っております」


「はい」


 エレオノーラは頷いた。


「どうか、ご無事で」


 彼女はそう言って、再び内門へ戻っていった。


 白い衣装が、花飾りの向こうへ消える。


 フリッツが小さく息を吐いた。


「すごいですね」


「何がですか」


「公爵令嬢……じゃなくて、隊長の奥方が、班長にお礼を言いに来るなんて」


「ありがたいことです」


 マルタンは答えた。


 声は少し掠れていた。


 リオンがいつの間にか近くに立っていた。


「救われたか」


 唐突に言われ、マルタンは苦笑した。


「見ておられましたか」


「警備中だからな」


「少しだけ」


 マルタンは正直に言った。


「少しだけ、救われました」


「なら、よかったな」


 リオンはそれだけ言った。


 慰めでも、皮肉でもなかった。


 その簡潔さが、今のマルタンにはありがたかった。


   ◇


 夕暮れ、婚礼の客たちが少しずつ帰り始めた。


 馬車が門を出ていく。

 下町の見物人も散り始める。

 隊士たちは配置を解き、交代で遅い食事を取った。


 ミレーヌの差し入れは、すっかり空になっていた。

 リオンが蜂蜜菓子を食べたのかどうかは、誰も確認できなかった。

 ただ、包み紙だけが彼の外套のポケットから少し覗いていた。


 マルタンはそれを見て、何も言わなかった。


 代わりに、空になった籠をミレーヌへ返した。


「大変助かりました」


「よかったです」


 ミレーヌは籠を受け取り、少しだけリオンの方を見た。


 リオンは門の方を見ている。

 だが、彼は短く言った。


「菓子は悪くなかった」


 ミレーヌの顔が、今日一番明るくなった。


「また作ります」


「警備中でなければな」


「はい」


 マルタンは、二人から少し離れた。


 夕暮れの公爵邸に、婚礼の花飾りが揺れている。

 遠くで、ロビンとエレオノーラを祝う声がまだ聞こえた。


 自分の手は、汚れている。

 それは変わらない。


 だが、今日だけは、その手で守れたものがあったのだと信じてもよい気がした。


 マルタンは、遠いラ・ヴィーニュ村の夕暮れを思い出した。


 葡萄棚の向こうに沈む陽。

 セリーヌの煮込みの匂い。

 子どもたちの声。


 帰りたい。


 久しぶりに、そう思った。


 死んで終わりたいのではなく。

 償いきれないから消えたいのでもなく。


 ただ、帰りたい。


 その思いは弱々しかったが、まだ消えてはいなかった。


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