第18話 手紙と帳簿
公爵家の婚礼から三日後、マルタン・ルクレールは帝都南区の商館街にいた。
灰鷹隊の短外套は着ていない。
腰の長剣も、いつものように目立たぬ外套の下へ隠している。
ただし、完全に丸腰に見せるには無理があった。
長剣師範というものは、剣を持たずとも剣を持っているように見える。
リオンはそう言ったことがある。
余計なお世話である。
マルタンは商館の軒先で足を止めた。
看板には、帝国語とヴァレーヌ語で商会名が書かれている。
表向きは布、油、乾燥果実、葡萄酒、香辛料を扱う小さな商館。
実際には、国境を越える金と噂と人情の細い道でもあった。
扉を開けると、帳簿の匂いがした。
紙。
インク。
革。
硬貨。
そして、遠くの葡萄酒樽の匂い。
マルタンは一瞬だけ、ラ・ヴィーニュ村の倉を思い出した。
「遅い」
奥から声がした。
アルマンだった。
上等だが目立たない旅装。
磨かれた靴。
指先には商人らしい細い傷。
机の上には帳簿が三冊、帝国銀貨の小袋が二つ、封蝋つきの手紙が一通。
マルタンは頭を下げた。
「お久しぶりです、アルマン」
「久しぶりだな、妹を泣かせている男」
「……すみません」
「そこで謝るな。余計に腹が立つ」
「すみません」
「だから謝るな」
アルマンは額を押さえた。
昔から、このやり取りは変わらない。
マルタンが謝る。
アルマンが怒る。
セリーヌが笑う。
そういう三人だった。
今ここに、セリーヌはいない。
そのことに気づいた瞬間、マルタンの胸が少し重くなった。
「座れ」
「はい」
「剣は抜くなよ」
「商館で抜いたことはありません」
「お前は真面目な顔で妙なことをする」
「心外です」
「心外なことをしてきた自覚がないのが、お前の悪いところだ」
アルマンは手紙を机の上で軽く叩いた。
「セリーヌからだ」
マルタンは、息を止めた。
手紙は小さかった。
上質な紙ではない。
端は少し擦れ、封蝋も商会の荷に紛れさせるため簡素なものだった。
だが、そこには確かに、セリーヌの筆跡があった。
マルタンは両手で受け取った。
「開けても」
「そのために持ってきた」
封を切る指が、少し震えた。
剣を握る時は震えない。
敵を前にしても、震えない。
それなのに、紙一枚を開く時に震える。
情けないと思った。
だが、止まらなかった。
手紙には、短い近況が書かれていた。
リュカの靴が新しくなったこと。
ミレーヌが近所の娘たちに字を教わり始めたこと。
エミールがよく泣くこと。
今年の葡萄は少し酸味が強いこと。
送られてきた金で、屋根の修理を少し進められたこと。
そして最後に、こうあった。
"あなたが送ってくれるものは、確かに届いています。
けれど、どうか、自分の命まで送ってしまわないでください。
子どもたちは、あなたの話を聞きたがります。
リュカは、父さんの剣はまだ錆びていないかと聞きました。
ミレーヌは、帰ったら煮込みを作るから、好き嫌いをしないで食べてと言っています。
エミールは、まだ何も分かりません。
でも、あなたの声を知らないまま大きくなるのは、少し寂しいことだと思います。"
文字が滲んだ。
セリーヌの筆跡が滲んだのではない。
自分の目が悪いのだ。
マルタンは手紙を少し離した。
「……元気そうで、何よりです」
「どこがだ」
アルマンの声は冷たかった。
「元気な女は、夫に命を送るなとは書かない」
マルタンは答えられなかった。
アルマンは帳簿を開いた。
「送金は届いている。そこは安心しろ。お前の金は、一銭も漏らしていない」
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはない。俺は妹と甥と姪を飢えさせたくないだけだ」
「それでも、ありがとうございます」
「……お前は昔から、そういうところが腹立たしい」
アルマンは小さく息を吐いた。
「リュカは背が伸びた」
マルタンは顔を上げた。
「そうですか」
「ああ。子どもの伸び方じゃない。家の男がいない家の伸び方だ」
その言葉は、刃物のように静かだった。
「水をこぼした妹を庇って、自分がやったと言った。まだ子どもだ。だが、もう子どもでいるのをやめようとしている」
マルタンは手紙を握りしめた。
「……私は」
「お前が悪い、とだけ言うつもりはない」
アルマンは言った。
「金は必要だった。セリーヌも分かっている。俺も分かっている。だから道を用意した。送金も引き受けた」
帳簿の紙が、ぱらりと鳴る。
「だがな、マルタン。帳簿に書けないものはある」
「はい」
「父親の不在は、銀貨何枚では埋まらない」
マルタンは深く頭を下げた。
「分かっております」
「分かっている顔をするな。余計に腹が立つ」
「すみません」
「謝るなと言った」
「はい」
二人の間に沈黙が落ちた。
商館の外では、荷馬車の車輪が石畳を鳴らしていた。
帝都は今日も動いている。
婚礼が終わっても、祝福が消えても、誰かの生活は続く。
アルマンは声を少し落とした。
「帝都は、悪い空気になっているな」
「商人の目からも、そう見えますか」
「商人の目だから見える。売れる物と売れない物、値上がりする物、消える物。そういうもので街の機嫌は分かる」
「何が消えていますか」
「余裕だ」
アルマンは即答した。
「パン屋からも、酒場からも、役人からも、兵からも、余裕が消えている。余裕が消えた街は、人を食う」
マルタンは、共和国人街の夜を思い出した。
クレール。
ガストン。
テオ。
マノン。
そしてヴァンサン。
「お前の灰鷹隊は、今は褒められている」
アルマンは続けた。
「公爵家の婚礼もあった。隊長は民衆に人気だ。旗も美しい。勇ましい。そういうものは、商売でもよく売れる」
「旗は商品ではありません」
「だから危ない」
アルマンの目が鋭くなった。
「売れすぎる旗は、燃やされる時も早い」
マルタンは黙った。
同じようなことを、誰かが言っていた。
旗は、美しいほど燃えやすい。
ヴァンサン・ルノワール。
マルタンがその名を思い浮かべた瞬間、アルマンが目を細めた。
「何か知っている顔だな」
「……アルマン」
「何だ」
「ヴァンサン・ルノワールという男を、ご存じですか」
アルマンの表情が変わった。
商人の顔から、兄の顔へ。
そして、共和国市民の顔へ。
「その名を、ここで大声で言うな」
「ご存じなのですね」
「知っている。知らない方が安全な種類の名前だ」
「共和国の工作員ですか」
「俺は商人だ。客の政治思想までは量り売りしていない」
「アルマン」
「そういう男だ」
アルマンは短く言った。
「首都にも、国境にも、帝都にも顔がある。共和国のためと言いながら、火をつける場所を選ばない男だ。お前、関わったのか」
「少し」
「少しで済む男ではない」
アルマンは机に指を置いた。
「マルタン。お前は今、帝国では共和国人として疑われ、共和国では帝国に剣を売った男として疑われている」
「はい」
「灰鷹隊にいる限り、帝国の敵には狙われる。共和国へ帰っても、歓迎されるとは限らない」
「分かっております」
「分かっていない」
アルマンの声が低くなった。
「帰り道にも値段がつく。今ならまだ払える。これ以上高くなれば、俺の商会でも買えなくなる」
マルタンは、手紙を見た。
セリーヌの文字。
リュカの名前。
ミレーヌの名前。
エミールの名前。
帰りたい。
婚礼の日に思ったその言葉が、今度は胸の奥で痛みになった。
「帰りたいです」
マルタンは言った。
アルマンは黙った。
「本当に、帰りたい」
「なら帰れ」
即答だった。
「荷は用意する。中立国までの道も作る。帝都を出るなら早い方がいい」
「ですが」
「ですが、何だ」
マルタンは手紙を丁寧に畳んだ。
「まだ、受けた役目が残っております」
アルマンは笑わなかった。
「灰鷹隊か」
「はい」
「帝国に忠義があるのか」
「ありません」
「公爵家に恩か」
「あります。ですが、それだけでもありません」
「では何だ」
マルタンは少し考えた。
リオンの顔が浮かんだ。
フリッツの顔が浮かんだ。
ミレーヌの笑顔が浮かんだ。
エレオノーラの言葉が浮かんだ。
あなたが守ってくださったから、私は今日ここに立てています。
「預けられた背中を、途中で捨てたくないのです」
アルマンは目を閉じた。
「旧騎士剣術の師範様らしい答えだ」
「すみません」
「謝るな」
「はい」
「立派な言葉だな」
アルマンは、目を開けた。
「受けた役目。預けられた背中。信じてくれた仲間。どれも立派だ」
マルタンは黙っていた。
「だが、本当にそれだけか」
「……何を」
「お前は、剣を置けないだけじゃないのか」
マルタンの指が、畳んだ手紙の端を押さえた。
「アルマン」
「帝国へ行かなければならなかった。灰鷹隊に残らなければならない。そう言えば、お前はまだ長剣師範でいられる。家族のために剣を売る男でいられる」
アルマンの声は荒くなかった。
だからこそ、逃げ場がなかった。
「俺の倉庫で働く男には、なりたくなかったんだろう」
マルタンは否定しようとした。
迷惑をかけられないから。
商家の面子を潰すから。
セリーヌの実家をまた揉めさせるから。
言い訳はいくつも浮かんだ。
どれも本当だった。
だが、それだけではなかった。
「……それも、あります」
声に出すと、思ったより小さかった。
アルマンは顔を歪めた。
「最初からそう言え」
「言えませんでした」
「だろうな」
アルマンは吐き捨てるように言った。
「お前は昔から、謝る時だけは上手い」
「いつまでだ」
「分かりません」
「それが一番悪い答えだ」
「はい」
アルマンは椅子にもたれた。
しばらくして、机の引き出しから小さな包みを取り出した。
「ミレーヌからだ」
「娘の?」
「他に誰がいる」
包みの中には、小さな布切れが入っていた。
稚拙な針目で、灰色とも青色ともつかない糸が縫いつけられている。
「父さんの首布に似ているから、と言っていた」
マルタンは布切れを手に取った。
縫い目は歪んでいた。
糸は途中で絡まり、端は少しほつれている。
だが、子どもの手で一生懸命に縫われたものだと分かった。
「上手になりましたね」
「下手だ」
「最初よりは」
「……そうだな。最初よりはましだ」
アルマンはそっぽを向いた。
マルタンは布切れを胸元にしまった。
「次の送金を、お願いします」
アルマンの顔が険しくなった。
「それが返事か」
「はい」
「帰国の荷ではなく、送金か」
「はい」
アルマンは長く息を吐いた。
「妹に何と伝えればいい」
マルタンは少しだけ迷った。
正直に言えば、セリーヌは心配する。
嘘を言えば、もっと悪い。
「帰りたいと言っていた、と」
「それで?」
「ですが、まだ帰れない、と」
「最低の手紙だな」
「はい」
「自分で書け」
アルマンは紙とペンを押し出した。
マルタンはそれを受け取った。
何を書けばいいのか、すぐには分からなかった。
愛している。
すまない。
金は送る。
元気で。
子どもたちによろしく。
必ず帰る。
どれも本当で、どれも足りなかった。
彼はしばらく白い紙を見つめた。
やがて、最初の一行を書いた。
"セリーヌ、私はまだ生きています。"
それだけで、胸が詰まった。
アルマンは何も言わなかった。
商館の外で、夕方の鐘が鳴った。
帝都の空は赤く、遠いラ・ヴィーニュ村の夕暮れに少し似ていた。
マルタンは続けて書いた。
"帰りたいです。
けれど、もう少しだけ、帰るために働きます。"
嘘ではなかった。
だが、正しいとも言えなかった。
ペン先のインクが、紙の上でわずかに滲んだ。




