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第19話 打ち捨てられた印刷所


 印刷所へ踏み込む日は、よく晴れていた。


 雨であればよかったのに、とマルタン・ルクレールは思った。

 雨ならば、通りを歩く人は減る。

 窓からこちらを見る目も少なくなる。

 石畳を踏む足音も、雨音に紛れる。


 だが、その日の帝都は憎らしいほど明るかった。


 朝の光が共和国人街の細い通りに入り、洗濯物を白く照らし、店先の看板をくっきり浮かび上がらせている。

 パン屋からは焼けた粉の匂いがし、子どもが桶を抱えて走り、老人が椅子に腰かけて煙草をふかしていた。


 いつもの街だった。


 マルタンが、二度と同じ顔では歩けなくなった街でもあった。


「顔を上げろ」


 隣でリオン・フォン・アルトベルクが言った。


「下を向いていれば、余計に目立つ」


「はい」


 マルタンは答えた。


 声は、布の内側で少しこもった。


 灰鷹隊の隊士たちは、皆、鼻から下を布で覆っていた。

 灰青色の布ではない。もっと地味な、煤けた灰色の布である。

 首布とは別に、顔を隠すためだけに巻かれている。


 市場暴動の後に決まったやり方だった。


 暴動の最中、誰が棍を振るったか。

 誰が誰を捕らえたか。

 誰が誰の父親を、兄を、息子を殴ったか。


 鎮圧された側は、忘れない。

 そして帝都には、隊士の顔を覚える目が多すぎた。


 顔を隠すのは、卑怯と言われれば卑怯だった。

 だが、後日の報復を避けるには必要なことでもあった。


 リオンは、そう説明した。


 マルタンはその布に、少し救われていた。


 クレール・モローが、どこかの窓から見ているかもしれない。

 ガストンやテオやマノンが、通りの角からこちらを見ているかもしれない。

 自警団の誰かが、灰鷹隊の列の中にマルクを探しているかもしれない。


 布一枚で隠せるものではない。

 背丈も、歩き方も、腰に吊るした長剣も、知る者が見れば分かる。


 それでも、布があるだけましだった。


 自分の顔を見られずに済む。

 自分の表情を、知られずに済む。


 そう思ってしまうことが、また情けなかった。


 この日の灰鷹隊は、たった数人ではなかった。


 リオン班を中心に、二十数人の隊士が動いている。

 前衛、裏口封鎖、周辺警戒、証拠押収、逃走者追跡。

 レイバーが組んだ配置図に、リオンが赤い線を引き、ローレンスが人員を割り振った。


 婚礼前には、これだけの隊士を割く余裕がなかった。

 公爵家の婚礼警備、帝都巡回、市場の不穏、共和国人街の監視。

 灰鷹隊は、あちこちに薄く伸ばされていた。


 ようやくだ。


 ようやく、あの印刷所へ踏み込める。


 マルタンはそう思い、同時に、遅すぎたのではないかとも思った。


 印刷所の前に着いた。


 昼間だというのに、鎧戸は閉じられていた。

 扉には古びた看板がかかっている。

 紙、帳簿、商用札、催し物の刷り物を請け負う普通の印刷所。


 普通の顔をした場所ほど、帝都では信用できなくなっている。


 リオンが手を上げた。


 隊士たちが左右へ散る。

 裏口へ二人。

 通りの角へ四人。

 馬車道側へ三人。

 フリッツ・ハイネはマルタンの斜め後ろにいた。

 槍を握る手に力が入っている。


「フリッツさん」


 マルタンは小さく言った。


「息を止めないように」


「止めてません」


「では、肩を上げないように」


 フリッツは少しだけ肩を下げた。


「……はい」


 リオンは扉の前に立った。

 公爵家の印章が押された命令書を掲げる。


「公爵家命令による検めである」


 声はよく通った。


「扉を開けろ」


 返事はなかった。


 もう一度、リオンが言った。


「公爵家命令による検めである。開けぬなら破る」


 沈黙。


 リオンは横目でマルタンを見た。


「やれ」


「はい」


 マルタンと隊士二人が扉に肩を当てた。

 一度目で軋み、二度目で閂が割れた。

 扉が内側へ開き、乾いた紙と古いインクの匂いが流れ出る。


「前へ」


 リオンの号令で、灰鷹隊が入った。


 誰もいなかった。


 活字台がある。

 印刷機がある。

 紙束がある。

 インク壺がある。

 床には切れ端が散っている。


 だが、人はいない。


 昨日まで働いていた気配だけが、薄く残っていた。


 椅子は倒れていない。

 血もない。

 争った跡もない。

 慌てて逃げたというより、必要なものだけを運び出し、不要なものを置いていった場所だった。


 リオンは舌打ちもしなかった。


「遅かったな」


「申し訳ありません」


 マルタンは反射的に言った。


「君のせいではない」


「ですが」


「謝るな。探せ」


 隊士たちが散った。


 棚。

 机。

 床板。

 灰箱。

 印刷機の下。

 壁にかけられた道具箱。


 フリッツが紙束を開いた。


「ビラです」


 リオンが受け取る。


 そこには、帝国の徴税を罵る言葉が並んでいた。

 貴族の贅沢。

 戦争の無駄。

 パンの値段。

 兵士の命。

 平民の血。


 書いてあることの全てが嘘ではなかった。


 だから厄介だった。


「共和国の署名は」


 リオンが聞いた。


「ありません」


 フリッツが答える。


「発行者名も、印刷元も偽名です」


「当然だな」


 リオンは紙を畳んだ。


 マルタンは別の机を調べていた。

 引き出しの奥に、焼け残りの紙片がある。

 黒く焦げた端を慎重につまみ、広げる。


 帳簿の一部だった。


 数字。

 品名。

 日付。

 荷札の写し。


「アルトベルク様」


 マルタンは声をかけた。


 リオンが近づく。


「何だ」


「発注控えです」


「紙か。インクか」


「いいえ」


 マルタンは焦げた紙を机の上へ置いた。


「葡萄酒、農具の柄、鉄管、布、油壺」


 リオンの目が細くなった。


「印刷所の買い物ではないな」


「はい」


 別の隊士が声を上げた。


「こちらにも伝票があります。樽修理代、馬車賃、倉庫使用料」


 また別の隊士が紙を持ってくる。


「同じ荷印がいくつかあります」


 リオンは机の上に紙片を並べた。


 紙。

 紙。

 焦げた紙。

 破れた伝票。

 荷札の写し。


 決定的な証拠はない。

 ヴァレーヌ共和国の印章もない。

 ヴァンサンの名もない。

 共和国工作員の署名もない。


 だが、印刷所としては不自然なものが、いくつもあった。


 マルタンは葡萄酒の伝票を見た。


 ラ・ヴィーニュ村の名はない。

 だが、ヴァレーヌ南西部の産地名が書かれている。

 商人名も、見覚えがない。


 いや、見覚えがないこと自体がおかしかった。


 その地方の葡萄酒を帝都で扱うなら、いくつか決まった商会がある。

 アルマンが昔、愚痴のように話していた。

 関税をごまかす商人。

 樽だけを使い回す商人。

 中身より銘柄札だけ高く売る商人。


 ここにある名は、そのどれとも違う。


「この樽印」


 マルタンは言った。


「少し変です」


「どう変だ」


「ヴァレーヌ南西部のものを名乗っていますが、焼印の癖が違います。樽職人の組合印に似せていますが、線が一本足りない」


「偽装か」


「少なくとも、本物の葡萄酒商ではないと思います」


 リオンは伝票を見た。


「印刷所が、偽の葡萄酒樽を買う理由は?」


 マルタンは答えなかった。


 答えたくなかった。


 だが、答えはもうそこにあった。


 葡萄酒。

 農具の柄。

 鉄管。

 布。

 油。


 紙と言葉だけでは、帝都は燃えない。

 だが、紙と言葉は、人を集める。

 集まった人に火を持たせれば、街は燃える。


「印刷所ではないものを、刷っていたのでしょう」


 マルタンは言った。


「言葉だけでなく」


 リオンが続けた。


「火種も、か」


 フリッツが息を呑んだ。


 その音は、布の下でも分かった。


 リオンは命じた。


「伝票を全部集めろ。灰箱も漁れ。床板も見る。壁の隙間もだ。紙片一枚残すな」


「はい」


「周辺の者にも聞き込みをする。ただし、乱暴にするな。ここは共和国人街だ。火薬の匂いがする場所で、火打石を鳴らすな」


 隊士たちは動き出した。


 マルタンは机の上の伝票を見つめた。


 クレールの声が耳の奥に残っていた。


 この街から出ていって。


 出ていったはずだった。

 なのに戻ってきた。

 顔を布で隠し、灰鷹隊を連れて、扉を破って。


 自分は何をしているのか。


 答えは簡単だった。


 仕事をしている。

 受けた役目を果たしている。

 帝都を燃やす火種を探している。


 どれも本当だった。


 だから、よけいに嫌だった。


   ◇


 同じ頃、帝都の別の場所で、ヴァンサン・ルノワールは窓のない部屋にいた。


 そこは酒場の地下でも、印刷所でもなかった。

 商館の奥に偽装された一室である。

 壁には棚があり、古い帳簿と空箱が並んでいる。

 机の上には、地図と小さな札が置かれていた。


 ルネ・バローは、その机の前に立っていた。


 若い。

 まだ頬に少年の線が残っている。

 だが、目だけは妙に鋭い。

 理想を信じている者の目だった。


「先生」


 ルネは言った。


「本当に、あの印刷所を明かす必要があったのですか」


 ヴァンサンは椅子に腰かけ、紙を読んでいた。


「明かしたつもりはない」


「ルクレールは尾行していました」


「尾行させたとも言える」


 ルネは眉をひそめた。


「あそこには、まだ使えるものもありました」


「もうない」


「ですが」


「あの場所は用済みだ」


 ヴァンサンは紙を畳んだ。


「印刷機は替えが利く。活字も紙も、いくらでも手に入る。だが灰鷹隊が何を見るか、誰が何に気づくかは、一度見ておきたかった」


「危険です」


「革命は、危険なものだよ、ルネ」


 ルネは黙った。


 ヴァンサンは机の上の札を一つ動かした。


「それに、マルタン・ルクレールは面白い」


「裏切り者です」


「そう単純でもない」


「帝国に剣を売り、灰鷹隊として共和国人街へ入り込んだ男です」


「だから面白い」


 ヴァンサンは微笑んだ。


「彼は革命で立場を失いかけた。旧騎士剣術の師範。古い時代の残り火だ。共和国では居場所を失い、帝国では信用されず、それでも剣を捨てられない」


「なら、こちらに来るべきです」


「そう思った」


 ヴァンサンは軽く頷いた。


「妻子の安全。金。帰国。道場の再建。餌としては悪くなかった」


「食いつきませんでした」


「まだ少し足りなかったのだろう」


 ルネは不満げに息を吐いた。


「何がですか」


「恥だ」


 ヴァンサンは言った。


「彼はまだ、自分の選択が間違いだったと認められない。帝国へ渡ったこと。灰鷹隊に入ったこと。共和国人街を騙したこと。その全部に、まだ意味があると思いたがっている」


「なら、意味を奪えばいい」


 ルネの声は若かった。

 若いからこそ、まっすぐだった。


 ヴァンサンは楽しそうに目を細めた。


「その通り」


 机の上で、札がまた一つ動いた。


「餌は残した。葡萄酒、農具、鉄管、布、油。彼らは追うだろう。灰鷹隊は勤勉だからな」


「わざと残したのですか」


「全部消せば、何も始まらない」


「倉庫に近づかれます」


「近づかせる」


 ルネは顔を上げた。


「なぜ」


「火を消す者は、自分が守っているつもりになる」


 ヴァンサンは静かに言った。


「だが、火元を探して走れば走るほど、足跡は残る。誰がどこを守り、誰を疑い、誰を切り捨てるか。それが見える」


「灰鷹隊を測るために、倉庫を囮にするのですか」


「倉庫一つで灰鷹隊の手の内が見えるなら、安い」


 ルネは納得していない顔だった。


 ヴァンサンは笑った。


「不満か」


「民衆の蜂起は、遊びではありません」


「もちろん」


 ヴァンサンの笑みは消えなかった。


「だからこそ、敵の刃の長さを知らねばならない」


 彼は地図の上、灰鷹隊の隊舎があるあたりを指で叩いた。


「楽しませてくれよ、灰鷹隊」


 そして、少し間を置いて言った。


「楽しませてくれよ、ルクレール先生」


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