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第20話 伝票を追う者たち


 伝票は、嘘をつく。


 リオン・フォン・アルトベルクはそう言った。


 印刷所から押収した紙片を前にして、灰鷹隊の隊士たちは隊舎の一室に集められていた。

 机の上には、焦げた紙、破れた控え、荷札の写し、インクで汚れた注文書が並べられている。


 葡萄酒。

 農具の柄。

 鉄管。

 布反物。

 油壺。

 樽修理代。

 倉庫使用料。

 馬車賃。


 どれも、単独ならありふれた品だった。

 帝都では毎日、葡萄酒が飲まれ、農具が運ばれ、鉄管が売られ、布が裁たれ、油が灯される。


 だが、印刷所がそれらをまとめて発注する理由はない。


「伝票は嘘をつく」


 リオンはもう一度言った。


「だが、嘘をつくにも癖がある」


 レイバーが作った仮の一覧表を、フリッツ・ハイネが壁に貼った。

 若い隊士は、昨夜からほとんど寝ていない顔をしている。

 それでも字は丁寧だった。


「葡萄酒関係が三件。農具屋が二件。鉄物商が二件。布問屋が一件。油商が一件。馬車業者が二件」


 フリッツは読み上げた。


「同じ荷印が、三枚の伝票にあります」


「どれだ」


「これです」


 フリッツは指で示した。


 丸の中に、斜めの線が二本。

 商会印にしては簡素すぎる。

 落書きにしては、同じ形が何度も出ている。


 マルタン・ルクレールは、その印を見つめた。


 見覚えはない。

 だが、見覚えがないこと自体が気にかかった。


 ヴァレーヌの葡萄酒商なら、樽にも札にも、もっと誇らしげな印を焼きつける。

 産地、家名、年、組合印。

 少なくとも、本物の葡萄酒を売る商人なら、自分の名を隠したがらない。


「ルクレール」


 リオンが呼んだ。


「はい」


「葡萄酒から行く」


「承知しました」


「嫌か」


 マルタンは一瞬だけ黙った。


「嫌で済む仕事ではございません」


「便利な返事だ」


「はい」


「褒めていない」


「存じております」


 リオンは机の上から葡萄酒関連の伝票を取った。


「フリッツ、君も来い。目で見て覚えろ」


「はい」


 フリッツは槍を手に取った。


「槍は置け」


「え」


「酒商を訪ねる。戦場へ行くわけではない」


「ですが、反抗の恐れが」


「だから短剣を持て。槍を持った若造が店先に立てば、向こうは口を閉ざす」


 フリッツは慌てて槍を壁へ戻した。


 マルタンは少しだけ笑いそうになった。

 笑いそうになった自分に気づき、すぐに顔を戻した。


 この捜査で笑う資格が、自分にあるのか分からなかった。


   ◇


 葡萄酒商は、共和国人街の外れにあった。


 表向きには、帝国商人の店である。

 看板は帝国語で書かれ、店先には北部産の安い酒樽が並んでいる。

 しかし奥の棚には、ヴァレーヌ産の瓶がいくつもあった。


 共和国人街の人間が、祝いの日や故郷を思い出したい夜に買う酒だった。


 店主は、丸い腹をした中年男だった。

 灰鷹隊が入ってきた瞬間、彼の笑顔は少しだけ固くなった。


「これはこれは、灰鷹隊の皆様。何か御用で」


 リオンは伝票を見せた。


「この樽を扱ったな」


「樽ですか。うちは酒屋ですから、樽は山ほど扱います」


「この印だ」


 店主は伝票を覗き込んだ。


 一瞬、目が動いた。


 マルタンはそれを見た。


「知っているな」


 リオンが言った。


「いえ、似たような印は多くございます」


「では帳簿を見せろ」


「お客様の取引記録を軽々しくお見せするわけには」


「公爵家命令だ」


 リオンは短く言った。


 店主は汗を拭いた。


 帳簿は出てきた。


 だが、出てきた帳簿は綺麗すぎた。

 数字が整い、日付が揃い、取引先名が無難なものばかり並んでいる。


 リオンは帳簿を一瞥し、マルタンへ渡した。


「どう見る」


「綺麗です」


「だろうな」


「綺麗すぎます」


 店主の喉が鳴った。


 マルタンは頁をめくった。


「こちらの樽は、ヴァレーヌ南西部のものとして扱われています」


「そうです。良い酒です」


「ですが、戻り樽の数が合いません」


「戻り樽?」


 フリッツが小声で聞いた。


「葡萄酒の樽は、使い捨てではありません」


 マルタンは説明した。


「高いものです。空になれば戻す。修理して使う。そうでなければ、酒より樽の方が高くつくこともあります」


 フリッツは頷いた。


 マルタンは帳簿を指で押さえた。


「この店は、酒を仕入れたことになっている。ですが、空樽が戻った記録が少なすぎます」


「客が返さなかっただけです」


 店主は早口になった。


「よくあることで」


「よくあります。ですが、これほど続けば商売になりません」


 マルタンは顔を上げた。


「中身ではなく、樽を売りましたね」


 店主の顔色が変わった。


 リオンは静かに言った。


「誰に」


「知りません」


「名前は」


「本当に知りません。ただ、仲介の男が」


「男?」


「若い男です。共和国訛りがありました。金払いはよかった。樽は古くても構わないと」


 若い男。


 マルタンはヴァンサンの隣にいた青年を思い出した。

 名は、まだ知らない。


「どこへ運んだ」


 リオンの声が低くなった。


 店主は首を振った。


「私は知りません。馬車業者に渡しただけで」


「どの馬車業者だ」


 店主は黙った。


 リオンが一歩近づく。


「もう一度聞く」


 その時、店の奥で物音がした。


 マルタンが振り返る。


 奥の戸が開き、若い店員が飛び出した。

 手には小さな帳簿を抱えている。


「止めろ!」


 リオンの声より早く、マルタンは動いていた。


 店員は裏口へ走る。

 葡萄酒樽の間を抜け、荷箱を蹴り倒し、路地へ出ようとする。


 マルタンは長剣を抜かなかった。

 抜けば、狭い店内で樽を割る。

 酒が流れ、床が滑り、火でもあれば厄介になる。


 彼は外套を翻し、倒れた荷箱を踏み越え、店員の肩を掴んだ。


 店員は振り向きざまに短い刃を出した。


 マルタンは手首を押さえ、肘をひねった。

 刃が床に落ちる。

 そのまま体を入れ替え、店員を樽の間へ押し倒した。


「離せ!」


「離しません」


「帝国の犬が!」


「よく言われます」


 言ってから、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 店員は共和国語で罵った。

 マルタンは、その訛りを聞き分けた。


 帝都生まれではない。

 西の方だ。


「誰に頼まれました」


「知らない!」


「その帳簿は」


「知らない!」


 フリッツが追いつき、店員の腕を縛った。

 リオンは落ちた小帳簿を拾った。


「知らないにしては、よく抱えて逃げたな」


 小帳簿には、店の表帳簿にはない数字が並んでいた。

 樽の数。

 馬車賃。

 倉庫番号らしき記号。


 そして、丸の中に斜め線二本の印。


 リオンは店主を見た。


「話は、隊舎で聞く」


 店主は膝から崩れ落ちた。


   ◇


 夕方近く、マルタンは一人で共和国人街の路地に立っていた。


 正確には、一人ではない。

 通りの角にはフリッツがいる。

 少し離れたところには、リオン班の隊士が二人いる。

 彼らは見張りであり、護衛であり、逃げ道を塞ぐ者でもあった。


 だが、マルタンの前に立っているのは、一人だった。


 クレール・モロー。


 彼女は短外套を着ていた。

 髪は後ろで結び、袖はまくっていない。

 今日は仕事の途中ではない。

 自警団の顔だった。


「来ないでと言ったはずです」


 彼女は言った。


「はい」


「それなのに、来た」


「はい」


「顔まで隠して」


 マルタンは、鼻から下の布に触れかけて、やめた。


「任務です」


「便利な言葉ですね」


「はい」


 クレールは顔を歪めた。


「そこで頷かないで」


「……すみません」


「謝らないでと言いました」


 沈黙が落ちた。


 路地の奥で、子どもが笑っている。

 どこかの家から煮込みの匂いがした。

 共和国人街の夕方だった。


 マルタンは、その匂いを知っている。

 知らないふりはできなかった。


「今日は、謝りに来たのではありません」


「でしょうね」


 クレールは冷たく言った。


「灰鷹隊の方が、謝るためだけに共和国人街へ来るはずがありません」


 マルタンは言葉を飲み込んだ。


 その通りだった。


「葡萄酒の樽が動いています」


 彼は言った。


「空樽です。酒ではなく、樽そのものが集められている」


「それを、なぜ私に?」


「共和国人街の自警団なら、妙な荷を見ているかもしれません」


「私たちを調べていた人が、今度は私たちに聞くんですか」


「はい」


「最低ですね」


「はい」


 クレールは拳を握った。


 マルタンは、殴られても仕方がないと思った。

 むしろ、殴られた方が楽かもしれないと思った。


 だが、クレールは殴らなかった。


「……油の匂いがしました」


 彼女は言った。


 マルタンは顔を上げた。


「どこで」


「南の運河へ向かう荷車です。三日前の夜。葡萄酒樽を積んでいました。でも、酒の匂いではなかった」


「油」


「灯火用だと言っていました。けれど、あれだけの量を夜に運ぶ理由が分からない」


「誰が」


「知らない男たちです。共和国語を話していました。でも、帝都の人間も混じっていました」


 クレールは視線を逸らした。


「テオが追おうとしました。ガストンが止めました。最近は、誰が味方で誰が敵か分からないから」


「正しい判断です」


「あなたに言われたくない」


「……はい」


 クレールは唇を噛んだ。


 怒りだけではなかった。

 そこには悔しさもあった。

 裏切られたことへの痛みも、まだ残っていた。


 そして、マルタンがその痛みを見てしまうこと自体を、彼女は嫌がっているようだった。


「勘違いしないで」


 クレールは言った。


「あなたを許したわけじゃありません」


「分かっています」


「分かってない」


 その声は震えていた。


「私は、あなたが嫌いです。嫌いになりたい。あなたを見たら、すぐにみんなへ言うべきだった。灰鷹隊だって。マルクじゃないって。私たちを騙していたって」


 マルタンは黙って聞いた。


「でも、言えなかった」


 クレールは自分の胸元を掴んだ。


「言えなかった自分も嫌いです」


 マルタンは何も言えなかった。


「それでも、あの樽が何か悪いものなら、放っておけない。ここは私たちの街です。あなたたち灰鷹隊の手柄のためでも、帝国のためでもない」


 彼女はマルタンを睨んだ。


「子どもたちが住んでるんです」


 その言葉で、マルタンはリュカとミレーヌを思い出した。

 そして、思い出した自分を恥じた。


「ありがとうございます」


「礼もいりません」


「はい」


「南運河へ行くなら、カルパン運送の古い倉庫を調べて」


「カルパン」


「ジルの遠縁です。今はほとんど使われていません。夜だけ荷が出入りしていると、ガストンが言っていました」


 カルパン。


 印刷所の伝票にあった名と、かすかに繋がった。


「分かりました」


「もう行って」


「はい」


「マルタンさん」


 その名で呼ばれ、彼は足を止めた。


 クレールは、苦しそうな顔をしていた。


「次に私たちを利用したら、本当に許しません」


 マルタンは頭を下げた。


「もう、許されているとは思っておりません」


「そういう言い方も嫌いです」


「……すみません」


「だから、謝らないで」


 クレールは背を向けた。


 マルタンはそれ以上、追わなかった。


   ◇


 その夜、灰鷹隊は鉄物商へ踏み込んだ。


 踏み込む、というほど派手なものではなかった。

 表口からリオンが入り、裏口へマルタンとフリッツが回る。

 周辺には隊士を置き、逃走路を塞ぐ。


 鉄物商の店先には、鍋、煙突部品、農具の金具、水回りの部品が並んでいた。

 どれも普通の品だった。


 普通の品ばかりが並んでいる店は、もう普通には見えなかった。


 裏口で待っていると、中から怒鳴り声が聞こえた。


 次の瞬間、裏戸が開いた。


 男が飛び出す。

 腕に布で包んだ束を抱えている。


「止まりなさい!」


 マルタンが叫んだ。


 男は止まらなかった。


 路地へ走る。

 フリッツが追う。

 マルタンも続く。


 男は荷を投げた。

 布包みが石畳に落ち、鈍い音を立てる。

 中身が何かは見えなかった。

 見えなくてよかった。


 男は角を曲がる。


 その先に、若い男が立っていた。


 共和国風の短い上着。

 細い体。

 鋭い目。


 若い男は、逃げてきた男を見た。

 次に、マルタンを見た。


 一瞬だけ、目が合った。


 若い男は笑わなかった。

 驚きもしなかった。

 ただ、何かを確かめるようにマルタンを見た。


 そして、懐から小さな笛を取り出し、短く鳴らした。


 路地の別方向で、荷車が倒れた。

 樽が転がり、人々が悲鳴を上げる。


 陽動だ。


「フリッツさん、そちらへ!」


「はい!」


 フリッツが荷車の方へ走る。


 マルタンは若い男を追おうとした。

 だが、鉄物商から逃げた男が足元の木箱を蹴り倒した。

 道が塞がる。


 若い男は、その隙に人混みへ消えた。


 逃げた男は、マルタンが取り押さえた。

 抵抗は短かった。

 腕を捻り、膝をつかせ、布で縛る。


 だが、若い男はもういない。


 リオンが後から来た。


「見たか」


「はい」


「知っている顔か」


「いいえ」


 マルタンは首を振った。


「ですが、共和国人です」


「根拠は」


「目と、立ち方と、こちらを見る時の嫌悪です」


「曖昧だな」


「はい」


「だが覚えておけ」


「はい」


 フリッツが戻ってきた。

 額に汗が浮かんでいる。


「荷車は空でした。わざと倒しただけです」


「十分だ」


 リオンは、押さえた男の布包みを見た。


 中身は、鉄管だった。


 ただの鉄管に見える。

 工房でも、井戸でも、煙突でも使える。


 だが、印刷所の伝票、葡萄酒商の帳簿、クレールの言葉、カルパン運送の名。

 それらが重なると、ただの鉄管ではなくなる。


 リオンは言った。


「南運河だな」


 マルタンは頷いた。


「葡萄酒も、農具も、鉄管も、同じ方角へ流れています」


「印刷所ではなく、倉庫か」


「おそらく」


 リオンは夜の運河の方を見た。


 帝都の南に、黒い水路が伸びている。

 荷馬車と倉庫と油の匂いが集まる場所。


「明日から、南運河を見る」


 リオンは言った。


「騒ぐな。踏み込む前に、中身を見る」


「はい」


 マルタンは答えた。


 その声は、自分でも少し疲れて聞こえた。


 共和国人街を出ていけと言われた。

 それでも戻った。

 情報まで受け取った。


 クレールは許していない。

 マルタンも、自分を許せなかった。


 だが、南運河へ行かなければならない。


 樽の中に何があるのか。

 布の芯に何が隠されているのか。

 油がどこで使われるのか。


 知らなければ、帝都のどこかが燃える。


 そう自分に言い聞かせた。


 それは本当だった。


 だから、やはり嫌だった。


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