第21話 南運河の倉庫
南運河は、帝都の腹の下を流れていた。
宮殿の塔や公爵家の館が、帝都の顔だとすれば、南運河は胃袋である。
小麦、薪、油、布、鉄、酒、干し肉、革、染料。
街が食い、燃やし、着て、働くためのものが、ここを通って出入りする。
昼でも薄暗い場所だった。
倉庫の壁は古く、板は湿り、石畳には馬車の轍が黒く残っている。
運河の水は鈍く濁り、岸には藁屑と油膜が浮いていた。
水の匂い、腐った木材の匂い、馬糞、油、古い酒樽。
マルタン・ルクレールは、そういう匂いの中に立っていた。
灰鷹隊の短外套は着ていない。
腰の長剣も外套の下に隠している。
今日は隊士ではなく、荷運びの用心棒に見えるようにしていた。
見えるようにしているだけで、実際には灰鷹隊だった。
その事実が、最近のマルタンには重かった。
「来ました」
隣の荷箱の陰から、フリッツ・ハイネが小声で言った。
彼も今日は槍を持っていない。
短い棍と刃物を隠し、煤けた帽子を目深にかぶっている。
若さは隠せないが、以前よりは幾分、こういう仕事にも慣れてきた。
マルタンは運河沿いの道を見た。
荷馬車が一台、ゆっくりと進んでくる。
積まれているのは葡萄酒樽だった。
樽にはヴァレーヌ南西部の産地名が焼かれている。
しかし、あの焼印は偽物だ。
印刷所で押収した伝票に残っていた印と同じだった。
葡萄酒商の裏帳簿にも、その印はあった。
そしてクレール・モローが「酒の匂いではなかった」と言った荷にも、おそらく同じ印が付いていたのだろう。
別々に見えていたものが、ここへ流れ込んでいた。
荷馬車は、カルパン運送の古い倉庫の前で止まった。
カルパン運送。
かつては共和国人街の荷運び業者としてそれなりに動いていたが、今は看板だけが古びて残っている。
表向きには、ほとんど使われていない倉庫だった。
だが、夜になると荷が入る。
昼間でも、時々こうして馬車が来る。
使われていない倉庫に、荷が集まる。
それだけで十分に怪しかった。
倉庫の扉が開いた。
中から男たちが出てくる。
港湾労働者の格好をした帝国人。
共和国訛りのある若者。
顔を隠した荷運び。
互いに親しいようには見えない。
だが、動きは慣れていた。
樽が降ろされる。
布反物が運び込まれる。
細長い木箱が続く。
鉄管らしきものを包んだ荷もある。
油壺が、他の荷に紛れて入っていく。
フリッツが小さな板に時刻を書き込んだ。
「葡萄酒樽、六。布反物、三。長箱、二。油壺、四」
「声に出さない方がよろしい」
「あ、すみません」
「いえ。私も昔、帳簿を読む時に声が出ると妻に叱られました」
言ってから、マルタンは少しだけ黙った。
フリッツは気づかないふりをした。
気づかないふりができるようになっている。
若い隊士は、少しずつ大人になっていた。
マルタンは倉庫の出入り口を見た。
扉の陰に、若い男が立っている。
共和国風の短い上着。
細い体。
鋭い目。
鉄物商の路地で見た男だった。
彼は荷運びたちに短く指示を出していた。
怒鳴らない。
慌てない。
手を上げることもない。
それでも、周囲の者は彼を見て動いている。
「あの男です」
マルタンは言った。
「鉄物商の路地で笛を吹いた男」
フリッツは目を細めた。
「若いですね」
「若い方ほど、時々危ういものです」
「班長が言うと重いですね」
「年を取っておりますので」
「そこまでは言ってません」
二人が小声で話していると、背後から足音がした。
リオンだった。
商人風の外套を着ているが、立ち方で隠せていない。
貴族は、ぼろを着ても貴族に見える。
「確認は」
「伝票の荷は、ほぼここへ入っています」
マルタンは答えた。
「葡萄酒樽、布、鉄管らしき長箱、油壺。農具の柄も、おそらく中に」
「中身は」
「まだ確認できていません」
「火の気は」
「倉庫の中では見えません。ただ、油壺があります。火を入れられれば厄介です」
リオンは倉庫を見た。
「明朝まで待つつもりだった」
「はい」
「だが、向こうもこちらを見ているな」
マルタンは頷いた。
若い男が、一度こちらを見た。
ただの視線ではない。
探る目だった。
目が合ったわけではない。
だが、こちらの存在を数に入れた目だった。
「ばれましたか」
フリッツが息を呑む。
「まだだ」
リオンは言った。
「だが、長くはない」
その時、倉庫の奥から小柄な少年が出てきた。
荷運びの手伝いだろうか。
重そうな布包みを抱え、よろめいた。
若い男が、それを支えた。
「無理をするな」
ヴァレーヌ語だった。
声は柔らかかった。
少年に向ける顔も、優しかった。
マルタンの胸に、妙な痛みが走った。
この男は、人を大事にする顔を知っている。
それでいて、この倉庫に何を集めているのかも知っている。
若い男は少年の荷を別の者に持たせ、頭を撫でるような仕草をした。
そして振り返り、別の男へ短く言った。
「奥の箱は最後だ。外へ出すな。指示があるまで触るな」
やはり、ただの荷運びではない。
「名前を知りたいですね」
マルタンは呟いた。
「すぐ分かる」
リオンは冷たく言った。
「動くぞ」
「今ですか」
「向こうがこちらを測っている。これ以上待てば、消える」
フリッツの顔が強張った。
「周辺封鎖はまだ」
「足りない分は、今いる者で塞ぐ」
リオンは短く命じた。
「フリッツ、運河側へ走れ。合図を出せ。マルタン、裏手へ回る。私は正面を押さえる」
「承知しました」
マルタンは外套の下で長剣の柄に触れた。
その瞬間だった。
倉庫の前に立っていた若い男が、こちらを見た。
今度は、はっきりと目が合った。
彼は一瞬だけ、何かを理解した顔をした。
次に、笑った。
楽しそうではない。
悔しそうでもない。
ただ、読みが当たった者の笑みだった。
若い男は指を二本立てた。
倉庫の中の男たちが、一斉に動いた。
「まずい」
リオンが低く言った。
若い男の声が飛んだ。
「帳簿を燃やせ。奥の箱は運河へ。樽は開けるな。油は残すな」
具体的な手順ではない。
だが、それだけで十分だった。
証拠を消すつもりだ。
「行け!」
リオンが叫んだ。
灰鷹隊が動いた。
正面で怒号が上がる。
荷運びたちが逃げ出し、何人かは倉庫の奥へ走る。
扉が閉じられようとした。
マルタンは裏手へ回った。
運河沿いの細い道を走る。
湿った木材が足元で軋む。
倉庫の裏には、小さな搬入口があった。
そこから、男が二人、木箱を抱えて出てくる。
「止まりなさい」
マルタンは言った。
男たちは止まらなかった。
一人が箱を運河へ投げようとする。
マルタンは踏み込み、男の腕を押さえた。
箱が石畳に落ちる。
中で何かが鈍く鳴った。
もう一人が短剣を抜く。
マルタンは長剣を抜いた。
刃を見せるだけで、男は一瞬怯んだ。
その隙に、マルタンは柄頭で手首を打つ。
短剣が落ちた。
「下がっていなさい」
彼は低く言った。
男たちは下がらなかった。
だが、前にも出られなかった。
その時、搬入口の奥から若い男が出てきた。
例の共和国人だった。
近くで見ると、さらに若い。
二十歳を少し越えた程度だろう。
髪は暗く、目はよく澄んでいる。
澄んでいるからこそ、危うかった。
「君がルクレール先生か」
若い男は言った。
マルタンは剣を構えた。
「どなたでしょう」
「名乗るほどの者ではない」
「名乗らない方はたいてい重要な方です」
若い男は少し笑った。
「ヴァンサン先生が言っていた通りだ。礼儀正しくて、腹が立つ」
「それは、申し訳ありません」
「本当に謝っているのか?」
「半分ほどは」
「なら、残り半分は?」
「あなたを捕まえることを考えております」
若い男は腰の短剣を抜いた。
短剣と言っても、兵士のものではない。
路地で使うための刃だった。
マルタンは一歩踏み込んだ。
若い男は退く。
退きながら、足元の縄を蹴った。
積まれていた空樽が崩れる。
マルタンは横へ跳んだ。
樽が転がり、石畳を叩く。
その向こうで、若い男が搬入口の柱へ手をかけた。
逃げるつもりだ。
マルタンは追った。
若い男は短剣を投げた。
狙いはマルタンではない。
壁に吊るされた帳簿袋だった。
刃が紐を切り、袋が落ちる。
中身の紙が散った。
一瞬、視界が白くなる。
その一瞬で、若い男は運河側の細い桟橋へ出た。
マルタンは紙を踏み越えた。
追いつく。
長剣の間合いに入った。
「止まりなさい」
「止まれば捕まるだろ」
「捕まえるために言っております」
「正直だな」
若い男は笑った。
次の瞬間、彼は自分から踏み込んできた。
短い刃が、マルタンの脇腹を狙う。
マルタンは長剣を下げ、刃を受け流した。
腕を取ろうとする。
若い男は身を沈め、マルタンの外套を掴んだ。
引くのではなく、押した。
桟橋の板が濡れていた。
足が滑る。
マルタンは踏みとどまった。
だが、その一瞬で若い男は間合いを外した。
「また会おう、先生」
「名を」
「ルネ」
若い男は言った。
「ルネ・バロー」
そして、運河沿いに停めてあった小舟へ飛び移った。
船頭が櫂を押す。
小舟が岸を離れる。
マルタンは追えなかった。
飛び移れば届いたかもしれない。
だが、背後の倉庫で怒号が上がっている。
フリッツの声も聞こえた。
火をつけられそうになったのか、誰かが水を叫んでいる。
ここでルネを追えば、倉庫を失う。
マルタンは長剣を下ろした。
小舟の上で、ルネがこちらを見ていた。
その顔には、勝ち誇りはなかった。
ただ、覚えたという顔だった。
マルタンも、その名を覚えた。
ルネ・バロー。
◇
倉庫の制圧には、そこからさらに半刻かかった。
正面ではリオンが指揮を執り、灰鷹隊士たちが逃げる者を押さえた。
運河側ではフリッツが、若い隊士二人とともに荷箱を守っていた。
火は出なかった。
少なくとも、大きな火にはならなかった。
それは幸運だった。
倉庫の中には、葡萄酒樽が並んでいた。
農具の柄が束ねられていた。
鉄管が布に巻かれていた。
油壺が木箱に詰められていた。
布反物が積まれていた。
どれも、ひとつひとつなら普通の品に見える。
しかし、ひとつの倉庫に集まると、普通ではなかった。
リオンは倉庫の中央で、押収品を見ていた。
「中身は」
「調べます」
マルタンは答えた。
「ただ、今ここで全てを開けるのは危険かと」
「分かっている。専門の者を呼ぶ」
リオンは床に落ちた紙片を拾った。
焼け焦げた帳簿の一部だった。
数字と荷印が残っている。
「逃げた男は」
「ルネ・バローと名乗りました」
「本名か」
「分かりません」
「顔は覚えたか」
「はい」
リオンは短く頷いた。
「なら十分だ」
「捕まえられませんでした」
「倉庫を押さえた」
「ですが」
「だが、ではない」
リオンは紙片を握った。
「向こうも、こちらを覚えた。次からは、もっと難しくなる」
マルタンは黙った。
倉庫の外では、捕らえられた運び屋たちが座らされている。
何人かは帝国人だった。
何人かは共和国人だった。
誰が思想で動き、誰が金で動き、誰が脅されていたのか、今はまだ分からない。
フリッツが倉庫の奥から戻ってきた。
顔が青い。
「班長」
「どうしました」
「奥に、馬車道の地図がありました」
リオンが振り返る。
「どこの」
「公爵家の馬車が通る道です。たぶん、外郭の式典へ向かう道筋」
倉庫の空気が、少しだけ冷えた。
印刷所。
伝票。
葡萄酒樽。
油壺。
鉄管。
南運河。
それらは、ただ帝都を騒がせるためだけではなかった。
誰かを狙っている。
リオンは静かに言った。
「これは暴動ではないな」
マルタンは、床に散った紙片を見た。
焦げた端。
消えかけた数字。
丸の中に斜め線二本の印。
そして、運河へ消えた若い男の目。
「はい」
マルタンは答えた。
「戦の準備です」




