↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/38

第22話 戦の準備


 夜明け前の隊舎は、油と泥の匂いがした。


 南運河から戻った荷馬車が、裏門の奥に並んでいる。

 積まれているのは、葡萄酒樽、油壺、布反物、農具の柄、鉄管を包んだ長箱、それから焦げた帳簿と破れた荷札だった。


 ひとつひとつは、帝都のどこにでもある品に見える。

 酒場にもある。

 工房にもある。

 農村にもある。

 倉庫にもある。


 だが、それらが同じ荷馬車に積まれ、同じ倉庫から押収され、同じ印のついた伝票に結びついているとなると、話は変わる。


 マルタン・ルクレールは、裏庭の隅に立っていた。


 外套は泥に汚れ、袖には運河の水が乾いた跡が残っている。

 長剣は腰にある。

 鞘の口に、細かな木屑が入り込んでいた。


 彼はそれを指で払った。


 油壺のひとつを運んでいた若い隊士が、顔をしかめた。


「班長、これ、開けてもいいんですか」


「開けないでください」


 マルタンは即座に言った。


「ですが、中身を調べないと」


「調べる方が来ます」


「調べる方?」


「火の扱いに慣れた方です。私たちは、今は運ぶだけです」


 若い隊士は唾を飲んだ。


 マルタンは、なるべく穏やかに続けた。


「壺や樽が酒や油に見えるからといって、全部がその通りとは限りません。倒さない。叩かない。揺らさない。落とさない。よろしいですね」


「はい」


「それと、今見たことは、人に話さない」


 若い隊士が、少し困った顔をした。


「誰にもですか」


「誰にもです」


「灰鷹の者にも」


「命令があるまで、灰鷹の者にもです」


 若い隊士は背筋を伸ばした。


「承知しました」


 マルタンは頷いた。


 自分で言いながら、喉の奥が少し重くなった。


 灰鷹隊の中で隠し事をする。

 同じ隊舎で飯を食い、同じ稽古場で汗を流し、同じ旗を見上げる相手に、見たものを話さない。


 リオン班に入ってから、そういうことは増えていた。


 仕方のないことだ。

 そう言い聞かせるのは、簡単だった。


 だが、簡単な言葉ほど、最近は胸の内でよく引っかかった。


   ◇


 隊舎の奥の小部屋に、押収品のうち紙と地図だけが運び込まれた。


 卓の上には、焦げた帳簿、破れた伝票、荷札、倉庫の見取り図、それから公爵家馬車道の地図が広げられている。


 レイバーは椅子に座らず、卓に両手をついて紙片を見ていた。


 ロビン・フォン・バーゼルは、腕を組んで立っている。

 リオン・フォン・アルトベルクは壁際にいた。

 マルタンは扉の近くに控えた。

 フリッツ・ハイネは、昨夜からほとんど眠っていない顔で、帳簿の写しを抱えている。


「葡萄酒樽、油壺、布、鉄管、農具の柄」


 レイバーが言った。


「ひとつひとつは言い訳が立つ。酒は酒場へ。油は灯火へ。布は問屋へ。鉄管は工房へ。柄は農具屋へ。だが、同じ倉庫に集まる理由はない」


 ロビンが低く尋ねた。


「暴動の準備か」


「それだけなら、もっと雑でいい」


 レイバーは焦げた伝票を指先で押さえた。


「食料、棍棒、旗、腕章、撒き物。暴動ならそういうものが多くなる。これは違う。場所と時間を決めて、何かを壊すか、誰かを殺すための集め方だ」


 誰もすぐには答えなかった。


 小部屋の外から、馬のいななきが聞こえた。


 レイバーは、公爵家馬車道の地図を引き寄せた。


「この道筋は、どこへ向かう」


 リオンが答えた。


「外郭の式典場。公爵家の馬車が、宮廷行事や外郭礼拝へ出る時に使う道の一つだ」


「公にされている道か」


「全部ではない。大通りは誰でも知っている。だが、横道、退避路、馬車溜まり、護衛の入れ替え場所まで書いてある」


 ロビンの眉が動いた。


「それは、誰でも手に入るものではないな」


「少なくとも、市井の印刷屋が持つものではありません」


 マルタンは思わず口を挟んでいた。


 リオンがこちらを見た。


 マルタンは軽く頭を下げる。


「失礼しました」


「続けろ」


 ロビンが言った。


 マルタンは、地図の端に描かれた印を指した。


「この丸に斜め線二本の印、倉庫の帳簿にもありました。葡萄酒樽の荷札にも、油壺の箱にも、焼け残りの紙片にも。おそらく同じ一団が、物資と道筋を同時に管理しています」


「つまり」


 ロビンが言う。


 マルタンは一瞬だけ言葉を選んだ。


「これは、ただ帝都を騒がせる準備ではありません。道を選び、時を選び、相手を選ぶ準備です」


 レイバーが頷いた。


「公爵家の誰かを狙っている」


 言葉が落ちた。


 小部屋が狭くなったように感じた。


 フリッツが息を呑む音がした。


 ロビンは、静かに目を閉じた。


 すぐに開く。


「エレオノーラか」


 その声は、いつものロビンの声より低かった。


 リオンが答える。


「分からない。だが、エレオノーラ様だけではありません。公爵閣下、オスカー卿、公爵家重臣、軍務書記、典礼官。馬車道を狙うなら、候補はいくらでもある」


「いくらでもある、か」


 ロビンは短く息を吐いた。


「ふざけた話だ」


 その言葉に、怒鳴り声は混じっていなかった。

 だからこそ、マルタンには重く聞こえた。


 レイバーが、地図の横に帳簿を置いた。


「ロビン。これは公爵家に上げるべきだ。ただし、上げ方を間違えると漏れる」


「公爵家の中から漏れていると思うか」


「分からない。だが、この地図は、少なくとも公爵家か、その周辺に触れられる人間を通っている」


 リオンが壁から離れた。


「灰鷹隊内でも、知る者は絞るべきです」


 ロビンはリオンを見た。


「隊士に隠すのか」


「はい」


「理由は」


「知らない事は漏らせません」


 その答えは冷たかった。


 だが、間違ってはいなかった。


 ロビンは、しばらく黙った。


 灰鷹隊は、もともと小さな仲間の集まりだった。

 田舎者と没落貴族と平民の若者たちが、手書きの旗を掲げて走っていた。

 そこから大きくなった。

 隊舎を得て、隊旗を得て、軍馬を得て、公爵家の名を背負うようになった。


 大きくなった分だけ、隠さなければならないことも増えた。


 マルタンは、ロビンの横顔を見た。


 この人は、それを喜んではいない。


 そう思った。


「分かった」


 ロビンは言った。


「この件は、俺とレイバー、リオン、マルタン、それから必要な者だけに絞る。フリッツ」


「はい」


 フリッツが背筋を伸ばす。


「おまえは帳簿を見た。だから、この中に入った。外へは出すな」


「承知しました」


 声が少し震えていた。


 ロビンはリオンへ向き直る。


「公爵家へは俺から正式に上げる。だが、細かいところはおまえが詰めろ」


「承知しました」


「リオン」


「はい」


「俺に隠すな」


 リオンは一瞬だけ黙った。


「必要なことは報告します」


「全部だ」


「……努力します」


 ロビンは苦い顔をした。


「おまえの努力は信用しづらい」


「よく言われます」


 レイバーが小さく息を吐いた。

 笑ったのか、呆れたのか、分からない音だった。


 マルタンはそのやり取りを聞きながら、胸の奥で少しだけ安心した。


 まだ、冗談に似たものが残っている。


 けれど、その安心は長く続かなかった。


   ◇


 昼過ぎ、公爵家へ報告が上がった。


 ロビンが正式な報告書を持ち、レイバーが押収物の一覧と地図の写しを添えた。

 リオンは、別口で公爵家の使者と会った。


 マルタンはその場には同席しなかった。


 代わりに、隊舎の裏で押収品の番をした。


 隊士たちは、何か大きなことが起きていると察していた。

 だが、誰もはっきりとは聞かされていない。


「班長」


 若い隊士の一人が、葡萄酒樽を見ながら言った。


「これ、本当に酒なんですか」


「酒かもしれません」


「違うかもしれない?」


「はい」


「じゃあ何なんです」


「知らない方がよいものです」


 若い隊士は嫌そうな顔をした。


「そういう言い方、リオン殿みたいです」


「それは困りました」


 マルタンは真面目に答えた。


 隊士は少し笑い、それ以上聞かなかった。


 マルタンは樽を見た。


 故郷ラ・ヴィーニュの樽とは違う。

 焼印も、板の合わせ方も、鉄輪の締め方も違う。

 それでも葡萄酒樽を見ると、故郷を思い出す。


 葡萄畑。

 乾いた風。

 セリーヌの手。

 子どもたちの声。


 そして、アルマンの店で働く道を選べなかった自分。


 マルタンは目を伏せた。


 帝都を燃やすわけにはいかない。

 公爵家の者を殺させるわけにはいかない。

 灰鷹隊で受けた役目を投げ出すわけにはいかない。


 どれも本当だった。


 だが、本当の言葉がいくつも並ぶ時、その下に別の本音が隠れることがある。


 彼は、それをまだ見ないふりをした。


   ◇


 夕刻、リオンから呼び出しがあった。


 場所は隊舎ではなかった。

 公爵家の館でもなかった。


 半地下の酒場だった。


 マルタンが着いた時、表の扉には準備中の札が掛かっていた。

 通りには人が流れている。

 誰も、その扉の向こうで何が話されるのか知らない。


 マルタンは、二度軽く叩いた。


 少し間があって、扉が開いた。


 ミレーヌが顔を出す。


「あら、マルタンさん」


「こんばんは」


「今日は、あまり賑やかではありませんよ」


「その方が助かります」


 ミレーヌは、いつものように笑おうとした。

 だが、完全には笑えなかった。


 店の奥から、低い声が聞こえたからだ。


 リオンの声ではない。

 レイバーの声でもない。


 もっと大きな、厚みのある声だった。


 ミレーヌは小声で言った。


「奥です」


「ありがとうございます」


「……何か、まずいことですか」


 マルタンは答えなかった。


 答えられなかった。


 代わりに、軽く頭を下げる。


「すみません」


「それ、便利な言葉ですね」


「よく言われます」


 ミレーヌは少しだけ眉を寄せた。


「アルトベルク様も、今日は顔が怖いです」


「いつもでは」


「今日は、いつもよりです」


 マルタンは、そこでようやく小さく笑った。


 だが、その笑みもすぐに消えた。


 奥の卓に、リオンがいた。

 レイバーがいた。


 そして、見慣れないほど大きな男が座っていた。


 椅子が小さく見える。

 半地下の低い天井が、その男のためだけに低くなったように思えた。


 灰色混じりの髪。

 太い首。

 剣を持たずとも武人だと分かる肩。

 その目は、笑っていなかった。


 オスカー・フォン・ヴァルト。


 フォンヴァルト公爵家の騎士隊長。

 公爵の兄。

 エレオノーラの叔父。

 灰鷹隊を見出した大人の一人。


 その男が、公爵家の館ではなく、半地下の酒場にいた。


 マルタンは足を止めた。


 オスカーが顔を上げる。


「来たか」


 声は低かった。


 リオンが言った。


「座れ、ルクレール」


 マルタンは一礼した。


「失礼いたします」


 腰を下ろす前に、彼はもう分かっていた。


 これは、隊舎で聞く話ではない。

 公爵家の表の会議室で話すことでもない。


 だから、ここなのだ。


 オスカーは、卓の上に置かれた地図を指で押さえた。


「本来なら、こんな場所で話すことではない」


 リオンが静かに答えた。


「だから、ここで話されるのでしょう」


 ミレーヌが、奥へ酒ではなく茶を運んできた。

 その手が、ほんの少しだけ止まった。


 マルタンは、それを見てしまった。


 オスカーは茶には手をつけず、地図を見たまま言った。


「公爵家の中にも、知らぬ方がよい者がいる」


 半地下の酒場は、いつもより静かだった。


 マルタンは、自分がまた一段、暗い階段を降りたのだと感じた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。