第22話 戦の準備
夜明け前の隊舎は、油と泥の匂いがした。
南運河から戻った荷馬車が、裏門の奥に並んでいる。
積まれているのは、葡萄酒樽、油壺、布反物、農具の柄、鉄管を包んだ長箱、それから焦げた帳簿と破れた荷札だった。
ひとつひとつは、帝都のどこにでもある品に見える。
酒場にもある。
工房にもある。
農村にもある。
倉庫にもある。
だが、それらが同じ荷馬車に積まれ、同じ倉庫から押収され、同じ印のついた伝票に結びついているとなると、話は変わる。
マルタン・ルクレールは、裏庭の隅に立っていた。
外套は泥に汚れ、袖には運河の水が乾いた跡が残っている。
長剣は腰にある。
鞘の口に、細かな木屑が入り込んでいた。
彼はそれを指で払った。
油壺のひとつを運んでいた若い隊士が、顔をしかめた。
「班長、これ、開けてもいいんですか」
「開けないでください」
マルタンは即座に言った。
「ですが、中身を調べないと」
「調べる方が来ます」
「調べる方?」
「火の扱いに慣れた方です。私たちは、今は運ぶだけです」
若い隊士は唾を飲んだ。
マルタンは、なるべく穏やかに続けた。
「壺や樽が酒や油に見えるからといって、全部がその通りとは限りません。倒さない。叩かない。揺らさない。落とさない。よろしいですね」
「はい」
「それと、今見たことは、人に話さない」
若い隊士が、少し困った顔をした。
「誰にもですか」
「誰にもです」
「灰鷹の者にも」
「命令があるまで、灰鷹の者にもです」
若い隊士は背筋を伸ばした。
「承知しました」
マルタンは頷いた。
自分で言いながら、喉の奥が少し重くなった。
灰鷹隊の中で隠し事をする。
同じ隊舎で飯を食い、同じ稽古場で汗を流し、同じ旗を見上げる相手に、見たものを話さない。
リオン班に入ってから、そういうことは増えていた。
仕方のないことだ。
そう言い聞かせるのは、簡単だった。
だが、簡単な言葉ほど、最近は胸の内でよく引っかかった。
◇
隊舎の奥の小部屋に、押収品のうち紙と地図だけが運び込まれた。
卓の上には、焦げた帳簿、破れた伝票、荷札、倉庫の見取り図、それから公爵家馬車道の地図が広げられている。
レイバーは椅子に座らず、卓に両手をついて紙片を見ていた。
ロビン・フォン・バーゼルは、腕を組んで立っている。
リオン・フォン・アルトベルクは壁際にいた。
マルタンは扉の近くに控えた。
フリッツ・ハイネは、昨夜からほとんど眠っていない顔で、帳簿の写しを抱えている。
「葡萄酒樽、油壺、布、鉄管、農具の柄」
レイバーが言った。
「ひとつひとつは言い訳が立つ。酒は酒場へ。油は灯火へ。布は問屋へ。鉄管は工房へ。柄は農具屋へ。だが、同じ倉庫に集まる理由はない」
ロビンが低く尋ねた。
「暴動の準備か」
「それだけなら、もっと雑でいい」
レイバーは焦げた伝票を指先で押さえた。
「食料、棍棒、旗、腕章、撒き物。暴動ならそういうものが多くなる。これは違う。場所と時間を決めて、何かを壊すか、誰かを殺すための集め方だ」
誰もすぐには答えなかった。
小部屋の外から、馬のいななきが聞こえた。
レイバーは、公爵家馬車道の地図を引き寄せた。
「この道筋は、どこへ向かう」
リオンが答えた。
「外郭の式典場。公爵家の馬車が、宮廷行事や外郭礼拝へ出る時に使う道の一つだ」
「公にされている道か」
「全部ではない。大通りは誰でも知っている。だが、横道、退避路、馬車溜まり、護衛の入れ替え場所まで書いてある」
ロビンの眉が動いた。
「それは、誰でも手に入るものではないな」
「少なくとも、市井の印刷屋が持つものではありません」
マルタンは思わず口を挟んでいた。
リオンがこちらを見た。
マルタンは軽く頭を下げる。
「失礼しました」
「続けろ」
ロビンが言った。
マルタンは、地図の端に描かれた印を指した。
「この丸に斜め線二本の印、倉庫の帳簿にもありました。葡萄酒樽の荷札にも、油壺の箱にも、焼け残りの紙片にも。おそらく同じ一団が、物資と道筋を同時に管理しています」
「つまり」
ロビンが言う。
マルタンは一瞬だけ言葉を選んだ。
「これは、ただ帝都を騒がせる準備ではありません。道を選び、時を選び、相手を選ぶ準備です」
レイバーが頷いた。
「公爵家の誰かを狙っている」
言葉が落ちた。
小部屋が狭くなったように感じた。
フリッツが息を呑む音がした。
ロビンは、静かに目を閉じた。
すぐに開く。
「エレオノーラか」
その声は、いつものロビンの声より低かった。
リオンが答える。
「分からない。だが、エレオノーラ様だけではありません。公爵閣下、オスカー卿、公爵家重臣、軍務書記、典礼官。馬車道を狙うなら、候補はいくらでもある」
「いくらでもある、か」
ロビンは短く息を吐いた。
「ふざけた話だ」
その言葉に、怒鳴り声は混じっていなかった。
だからこそ、マルタンには重く聞こえた。
レイバーが、地図の横に帳簿を置いた。
「ロビン。これは公爵家に上げるべきだ。ただし、上げ方を間違えると漏れる」
「公爵家の中から漏れていると思うか」
「分からない。だが、この地図は、少なくとも公爵家か、その周辺に触れられる人間を通っている」
リオンが壁から離れた。
「灰鷹隊内でも、知る者は絞るべきです」
ロビンはリオンを見た。
「隊士に隠すのか」
「はい」
「理由は」
「知らない事は漏らせません」
その答えは冷たかった。
だが、間違ってはいなかった。
ロビンは、しばらく黙った。
灰鷹隊は、もともと小さな仲間の集まりだった。
田舎者と没落貴族と平民の若者たちが、手書きの旗を掲げて走っていた。
そこから大きくなった。
隊舎を得て、隊旗を得て、軍馬を得て、公爵家の名を背負うようになった。
大きくなった分だけ、隠さなければならないことも増えた。
マルタンは、ロビンの横顔を見た。
この人は、それを喜んではいない。
そう思った。
「分かった」
ロビンは言った。
「この件は、俺とレイバー、リオン、マルタン、それから必要な者だけに絞る。フリッツ」
「はい」
フリッツが背筋を伸ばす。
「おまえは帳簿を見た。だから、この中に入った。外へは出すな」
「承知しました」
声が少し震えていた。
ロビンはリオンへ向き直る。
「公爵家へは俺から正式に上げる。だが、細かいところはおまえが詰めろ」
「承知しました」
「リオン」
「はい」
「俺に隠すな」
リオンは一瞬だけ黙った。
「必要なことは報告します」
「全部だ」
「……努力します」
ロビンは苦い顔をした。
「おまえの努力は信用しづらい」
「よく言われます」
レイバーが小さく息を吐いた。
笑ったのか、呆れたのか、分からない音だった。
マルタンはそのやり取りを聞きながら、胸の奥で少しだけ安心した。
まだ、冗談に似たものが残っている。
けれど、その安心は長く続かなかった。
◇
昼過ぎ、公爵家へ報告が上がった。
ロビンが正式な報告書を持ち、レイバーが押収物の一覧と地図の写しを添えた。
リオンは、別口で公爵家の使者と会った。
マルタンはその場には同席しなかった。
代わりに、隊舎の裏で押収品の番をした。
隊士たちは、何か大きなことが起きていると察していた。
だが、誰もはっきりとは聞かされていない。
「班長」
若い隊士の一人が、葡萄酒樽を見ながら言った。
「これ、本当に酒なんですか」
「酒かもしれません」
「違うかもしれない?」
「はい」
「じゃあ何なんです」
「知らない方がよいものです」
若い隊士は嫌そうな顔をした。
「そういう言い方、リオン殿みたいです」
「それは困りました」
マルタンは真面目に答えた。
隊士は少し笑い、それ以上聞かなかった。
マルタンは樽を見た。
故郷ラ・ヴィーニュの樽とは違う。
焼印も、板の合わせ方も、鉄輪の締め方も違う。
それでも葡萄酒樽を見ると、故郷を思い出す。
葡萄畑。
乾いた風。
セリーヌの手。
子どもたちの声。
そして、アルマンの店で働く道を選べなかった自分。
マルタンは目を伏せた。
帝都を燃やすわけにはいかない。
公爵家の者を殺させるわけにはいかない。
灰鷹隊で受けた役目を投げ出すわけにはいかない。
どれも本当だった。
だが、本当の言葉がいくつも並ぶ時、その下に別の本音が隠れることがある。
彼は、それをまだ見ないふりをした。
◇
夕刻、リオンから呼び出しがあった。
場所は隊舎ではなかった。
公爵家の館でもなかった。
半地下の酒場だった。
マルタンが着いた時、表の扉には準備中の札が掛かっていた。
通りには人が流れている。
誰も、その扉の向こうで何が話されるのか知らない。
マルタンは、二度軽く叩いた。
少し間があって、扉が開いた。
ミレーヌが顔を出す。
「あら、マルタンさん」
「こんばんは」
「今日は、あまり賑やかではありませんよ」
「その方が助かります」
ミレーヌは、いつものように笑おうとした。
だが、完全には笑えなかった。
店の奥から、低い声が聞こえたからだ。
リオンの声ではない。
レイバーの声でもない。
もっと大きな、厚みのある声だった。
ミレーヌは小声で言った。
「奥です」
「ありがとうございます」
「……何か、まずいことですか」
マルタンは答えなかった。
答えられなかった。
代わりに、軽く頭を下げる。
「すみません」
「それ、便利な言葉ですね」
「よく言われます」
ミレーヌは少しだけ眉を寄せた。
「アルトベルク様も、今日は顔が怖いです」
「いつもでは」
「今日は、いつもよりです」
マルタンは、そこでようやく小さく笑った。
だが、その笑みもすぐに消えた。
奥の卓に、リオンがいた。
レイバーがいた。
そして、見慣れないほど大きな男が座っていた。
椅子が小さく見える。
半地下の低い天井が、その男のためだけに低くなったように思えた。
灰色混じりの髪。
太い首。
剣を持たずとも武人だと分かる肩。
その目は、笑っていなかった。
オスカー・フォン・ヴァルト。
フォンヴァルト公爵家の騎士隊長。
公爵の兄。
エレオノーラの叔父。
灰鷹隊を見出した大人の一人。
その男が、公爵家の館ではなく、半地下の酒場にいた。
マルタンは足を止めた。
オスカーが顔を上げる。
「来たか」
声は低かった。
リオンが言った。
「座れ、ルクレール」
マルタンは一礼した。
「失礼いたします」
腰を下ろす前に、彼はもう分かっていた。
これは、隊舎で聞く話ではない。
公爵家の表の会議室で話すことでもない。
だから、ここなのだ。
オスカーは、卓の上に置かれた地図を指で押さえた。
「本来なら、こんな場所で話すことではない」
リオンが静かに答えた。
「だから、ここで話されるのでしょう」
ミレーヌが、奥へ酒ではなく茶を運んできた。
その手が、ほんの少しだけ止まった。
マルタンは、それを見てしまった。
オスカーは茶には手をつけず、地図を見たまま言った。
「公爵家の中にも、知らぬ方がよい者がいる」
半地下の酒場は、いつもより静かだった。
マルタンは、自分がまた一段、暗い階段を降りたのだと感じた。




