第23話 半地下の客
オスカー・フォン・ヴァルトは、茶に手をつけなかった。
半地下の酒場の奥、いつもはリオンが書付を広げる卓の上に、公爵家馬車道の地図が置かれている。
葡萄酒の染みが残る卓に、公爵家の道筋が広げられているのは、どこか悪い冗談のようだった。
だが、誰も笑わない。
オスカーは太い指で地図の一点を押さえていた。
外郭へ向かう大通りから、馬車が一度脇道へ入る場所である。
その先には、古い礼拝堂の壁と、荷下ろし用の狭い広場がある。
「ここは、馬車が詰まる」
オスカーが言った。
声は低い。
怒鳴ってはいない。
むしろ、いつもの豪快さを押し殺しているようだった。
「道幅が足りぬ。前を塞がれれば、後ろは詰まる。横へ逃げようにも、礼拝堂の壁だ」
リオン・フォン・アルトベルクは、地図の反対側に立っている。
「倉庫で見つかった地図にも、その広場に印がありました」
「分かりやすい場所だ」
「はい」
「分かりやすすぎる」
リオンは返事をしなかった。
マルタン・ルクレールは、少し離れた場所に控えていた。
腰の長剣が、椅子の脚に当たらないよう気をつける。
店の天井は低い。
オスカーの肩があるせいで、さらに低く見える。
レイバーは卓の端で、押収した伝票の写しを並べていた。
いつものように淡々としているが、指先の動きは速い。
「狙いやすい場所を、あえて分かりやすく示している可能性があります」
レイバーが言った。
「誘いか」
オスカーが問う。
「あるいは、複数候補の一つです」
「面倒な話だな」
「はい」
レイバーは素直に頷いた。
オスカーの口元が、わずかに動いた。
笑ったようにも見えたが、目は笑っていない。
「おまえは正直だな」
「事実ですので」
「そういうところを、アルブレヒトは気に入っている」
アルブレヒト。
その名が出た瞬間、空気が少し重くなった。
フォンヴァルト公爵。
オスカーの弟。
帝国の北部を預かる大貴族。
エレオノーラの父。
そして、今、誰かに狙われているかもしれない男。
ミレーヌが、静かに新しい茶を持ってきた。
足音を立てないようにしている。
いつもの明るい声はない。
「こちらへ」
マルタンは小さく言い、盆を受け取ろうとした。
「大丈夫です」
ミレーヌは囁く。
だが、盆を置く手はほんの少しだけ固かった。
彼女は地図を見ないようにしている。
見ないようにしているからこそ、気づいているのだと分かった。
公爵家。
道を変える。
知る者を減らす。
襲撃。
断片だけなら、何のことか分からない。
けれど、断片が多すぎれば、人は形を想像する。
リオンが短く言った。
「ミレーヌ」
「はい」
「奥には近づくな」
ミレーヌは一瞬、リオンを見た。
「……はい」
返事は素直だった。
だが、いつもの軽口は返ってこなかった。
マルタンは、胸の奥が少し重くなるのを感じた。
この店は、最初から安全な場所ではなかった。
密書が来る。
密偵が来る。
リオンが来る。
マルタンも来る。
それでも、酒場には酒場の顔があった。
仕事帰りの隊士が来て、安い酒を飲み、ミレーヌが笑い、リオンが隅で苦い顔をしている。
その顔が、少しずつ剥がれていく。
ミレーヌが下がると、オスカーはようやく口を開いた。
「本来なら、公爵家の中で詰める話だ」
リオンが言う。
「公爵家の中にも、知らぬ方がよい者がいる、とおっしゃいました」
「ああ」
「それは、家中に内通者がいるとお考えですか」
オスカーは、すぐには答えなかった。
太い指が、地図の上をゆっくり滑る。
「考えたくはない」
その声は静かだった。
「だが、考えぬわけにはいかん」
レイバーが伝票の一枚を押した。
「この地図は、市中に出るものではありません」
「知っている」
「馬車道の大筋だけなら、見て覚える者もいるでしょう。けれど、退避路、馬車溜まり、護衛の入れ替え場所まで書かれています」
「公爵家の者か、公爵家に出入りする者か」
「少なくとも、その近くです」
オスカーは息を吐いた。
深い息だった。
「弟は、予定を変える」
マルタンは顔を上げた。
オスカーは続ける。
「外郭の式典、礼拝、宮廷の使者との会見。いくつか道を変える。馬車も替える。だが、それを知る者を増やすわけにはいかん」
「護衛は」
リオンが尋ねた。
「増やせば目立つ」
「予定そのものを取りやめることは」
「できん」
オスカーは即答した。
「公爵家が怯えたと見られる。宮廷の連中も、他家も、商人も、皆見る。弟が館に籠もれば、それだけで噂になる」
「では、通常通り動くしかない」
「通常通りに見せるしかない、だ」
オスカーは地図を叩いた。
音は小さかった。
だが、卓の上の茶が少し揺れた。
「道を変える。馬車を替える。だが、見た目は変えん。護衛も増やしすぎん。だが、見えぬところは押さえる」
リオンは頷いた。
「その見えぬところを、我々に見ろと」
「そうだ」
マルタンは、背筋が冷えるのを感じた。
公爵家の騎士隊長が、灰鷹隊の一班に、見えないところを押さえろと言っている。
それは信頼ではない。
少なくとも、温かい信頼ではない。
使わざるを得ない、という判断だった。
リオンはそれを理解している顔だった。
レイバーも理解している。
マルタンも、理解した。
「灰鷹隊の者にも、伏せるのですね」
マルタンは言った。
オスカーがこちらを見る。
大きな目だった。
戦場で馬を止めるような目だった。
「当然だ」
短い答えだった。
「知らぬ者は、漏らせぬ」
リオンと同じことを言う。
だが、オスカーが言うと、意味が少し違って聞こえた。
リオンの言葉は、刃物のように冷たい。
オスカーの言葉は、扉を閉める音のようだった。
「若い隊士たちが悪いと言っているのではない」
オスカーは続けた。
「だが、人は、知らずに漏らす。酒の席で漏らす。家族へ漏らす。恋人へ漏らす。顔に出す。動きに出す。道を変えるなら、変えたことを知られぬようにせねば意味がない」
マルタンは、セリーヌの顔を思い出した。
もし自分が家にいて、何か重いものを抱えていたら、顔に出さずにいられるだろうか。
子どもたちに問われ、妻に見られて、何も漏らさずにいられるだろうか。
できない。
そう思った。
だから、家族のいない場所で剣を持っている。
いや。
そう言うのは、都合がよすぎる。
マルタンは、胸の中でその考えを押し込めた。
「弟の道を変える」
オスカーが言った。
「だが、変えたことを知られれば、変えた意味がない」
リオンが答える。
「では、知っている者を減らすしかありません」
「そうだ。だから、おまえたちを呼んだ」
そこで、しばらく誰も喋らなかった。
半地下の酒場の上を、馬車が通った。
天井の板が、かすかに鳴る。
マルタンは、その音を聞いた。
帝都の地上では、いつも通り人が歩き、馬車が走り、商人が声を張り上げている。
その下で、公爵家の道が変えられようとしている。
「ルクレール」
リオンが言った。
「はい」
「共和国人街、南運河、鉄物商、葡萄酒商。おまえは顔を出している」
「はい」
「しばらく、同じ顔では動くな」
「承知しました」
オスカーがマルタンを見た。
「おまえが、西方の長剣師範か」
「はい。マルタン・ルクレールと申します」
「エレオノーラを守った男だな」
マルタンは頭を下げた。
「結果として、そうなりました」
「謙遜か」
「事実です」
オスカーは、今度こそわずかに口元を動かした。
「レイバーが二人いるような返事をするな」
レイバーが無言で顔を上げた。
リオンが淡々と言う。
「迷惑です」
「どちらに対してだ」
「両方に」
ほんの一瞬だけ、空気が緩んだ。
だが、オスカーはすぐに地図へ目を戻した。
「笑っていられる話ではない」
「はい」
リオンが答える。
オスカーは茶を一口だけ飲んだ。
もう冷めているはずだった。
「こちらからも人を出す。だが、表には出さん。おまえたちは、おまえたちで動け。何か見つけたら、俺に直接上げろ」
「公爵閣下ではなく、オスカー卿に」
「弟に上げる前に、俺が見る」
リオンは頷いた。
「承知しました」
マルタンは、そのやり取りを聞きながら、ようやく理解した。
この場にいるのは、灰鷹隊の隊士と、公爵家の騎士隊長ではない。
表に出せない道を歩く者たちだった。
◇
会合が終わる頃には、外の通りの灯もまばらになっていた。
オスカーは、表の扉から出なかった。
酒場の裏口から出る。
外には、公爵家の騎士が二人だけ待っていた。
鎧は着ていない。
ただの大柄な男に見える。
オスカーが出る前、ミレーヌが裏口近くに立っていた。
「お気をつけて」
彼女はそう言った。
オスカーは一瞬だけ彼女を見た。
「店を閉めておけ」
「え」
「今夜は客を入れるな」
ミレーヌは、リオンを見た。
リオンは短く頷いた。
「閉めろ」
「……はい」
ミレーヌは、いつものように冗談を返さなかった。
オスカーが出ていく。
裏口が閉まる。
酒場の中に、しばらく沈黙が残った。
レイバーは伝票をまとめ、外套の内側へ入れた。
「僕は隊舎へ戻る」
「一人でか」
リオンが問う。
「途中までマルタンに送らせればいい」
「私ですか」
マルタンは目を瞬かせた。
「不満か」
「いえ。ただ、レイバー殿に私の護衛が必要とは思えませんが」
レイバーは真顔で言った。
「必要だ。僕は足が速くない」
「そこですか」
「そこだ」
リオンが言う。
「行け。今日は、誰が見ているか分からない」
マルタンは頷いた。
「承知しました」
出る前に、ミレーヌが小さく声をかけた。
「マルタンさん」
「はい」
「本当に、まずいことなんですね」
マルタンは、今度も答えに詰まった。
すみません、と言いかける。
だが、その言葉は少し違う気がした。
「店を閉めてください」
代わりに、そう言った。
「アルトベルク様が言ったからですか」
「私も、そう思います」
ミレーヌはしばらくマルタンを見ていた。
それから、小さく頷いた。
「分かりました」
その声は、いつもの看板娘の声ではなかった。
◇
ヨナス・クラインは、朝のパンを半分残した。
「また残すの」
妻のリーネが、少し呆れた顔をした。
「昼に食べる」
「昨日もそう言って、持って帰ってきたわ」
「昨日は忙しかった」
「今日も忙しいんでしょう」
「たぶん」
ヨナスは笑った。
笑ってから、椅子の横に置いた革鞄を確かめる。
書付、筆記具、封蝋、昨日まとめた式典費用の控え。
全部ある。
リーネは、残ったパンを布に包んだ。
「ほら」
「ありがとう」
「昼に食べるのよ」
「食べる」
「本当に?」
「本当に」
小さな足音がした。
寝室から、娘のエマが出てくる。
髪が片方だけ跳ねていた。
「父さん、もう行くの」
「行くよ」
「今日は早い」
「公爵家の人は、朝が早いんだ」
「父さんも公爵家の人?」
「父さんは、公爵家で働く人」
エマは少し考えた。
「じゃあ、公爵家の人じゃないの」
「難しいところだな」
ヨナスが笑うと、リーネも笑った。
こういう朝は、悪くない。
家賃は安くない。
給金も十分とは言えない。
上役は細かい。
書類は多い。
式典の予定が一つ変わるだけで、典礼係も馬車方も厨房も怒鳴り合う。
それでも、仕事がある。
公爵家の文官見習いとして拾われ、ようやく正式な書記になった。
父は鍛冶職人だった。
母は、ヨナスが文字を覚えた時、近所中に自慢した。
だから、ヨナスは遅刻しない。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
リーネが言う。
エマが手を振る。
「パン食べてね」
「食べるよ」
ヨナスは革鞄を肩に掛け、家を出た。
朝の帝都は、もう動き始めていた。
パン屋の煙突から煙が上がり、牛乳売りの荷車が通り、石畳には夜露が残っている。
通りの角では、新聞売りが声を張っていた。
物価。
徴税。
西部国境。
共和政。
公爵家。
最近の新聞売りは、そういう言葉を好んで叫ぶ。
ヨナスは足を速めた。
公爵家の館までは、歩いて半刻ほどである。
大通りを抜け、職人街の端を通り、馬車通りへ出る。
いつもの道だ。
途中、花売りの老婆がいた。
「若旦那、今日はどうだい」
「今日はいい」
「奥さんに買ってやんな」
「給金日の後にする」
「毎回それだ」
「毎回、本当です」
老婆が笑う。
ヨナスも笑った。
角を曲がる。
そこで、後ろから肩がぶつかった。
「失礼」
ヨナスは反射的に言った。
次の瞬間、背中が熱くなった。
何かが入った。
いや。
抜けた。
そう思った。
足がもつれる。
革鞄が手から落ちる。
石畳に、書付が散った。
誰かが叫んだ。
「おい!」
別の誰かが走り出す。
花売りの老婆の声がした。
「人殺し!」
ヨナスは膝をついた。
息を吸おうとした。
吸えなかった。
背中が熱い。
胸が冷たい。
石畳が近い。
封蝋が転がっている。
昨日まとめた式典費用の控えが、泥の上に落ちている。
汚れる。
そう思った。
汚れたら、上役に叱られる。
書き直しだ。
今日は忙しいのに。
リーネが包んだパンを、昼に食べなければならない。
エマに言われた。
食べると言った。
ヨナスは、手を伸ばそうとした。
指が動かなかった。
人の足が見えた。
叫び声が遠くなる。
リーネ。
エマ。
パン。
花を、買えばよかった。
そう思ったところで、朝の帝都の音が消えた。




