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第24話 四人の死者


 帝都は、静かではなかった。


 叫び声があったわけではない。

 鐘が鳴り続けていたわけでもない。

 兵が通りを埋めていたわけでもない。


 それでも、街は静かではなかった。


 人々は声を落として話していた。

 屋台の主人は客の顔を見てから値段を言い、馬車の御者はいつもより早く角を曲がり、女たちは子どもの手を強く握って歩いていた。


 公爵家の者が殺されたらしい。

 いや、ひとりではないらしい。

 馬車が燃えたらしい。

 書記が刺されたらしい。

 狙われたのは公爵本人だったらしい。

 いや、公爵は館にいるらしい。

 灰鷹隊が動くらしい。

 公爵家騎士団が犯人を皆殺しにするらしい。


 噂は、魚市場の水のように流れていた。

 濁っていて、冷たく、どこから湧いたのか分からない。


 マルタン・ルクレールは、南区の巡回中に呼び戻された。


 伝令に来た若い隊士は、息を切らしていた。


「ルクレール班長、至急です」


「どちらへ」


「半地下の酒場へ。アルトベルク殿からです」


 その一言で、マルタンは余計な問いを飲み込んだ。


 隊舎ではない。

 公爵家の館でもない。

 半地下の酒場。


 それだけで、表に出せない話だと分かる。


「分かりました」


 マルタンは巡回を副班長に任せ、足を速めた。


 通りの角に、人だかりがあった。

 石畳に水が撒かれている。

 だが、水だけでは落ちない色が、石の目地に残っていた。


 花売りの老婆が、店を畳んでいた。

 籠の中の花は、まだ半分以上残っている。


 老婆はマルタンを見ると、顔を伏せた。


 灰鷹隊の外套は着ていない。

 それでも、腰の長剣と歩き方で分かる者には分かる。


 マルタンは足を止めなかった。


 止まれば、何かを聞かなければならない。

 聞けば、答えなければならない。

 答えられることなど、何もなかった。


 半地下の酒場の表には、準備中の札が掛かっていた。


 まだ夕刻には早い。

 普段なら、仕込みの匂いが外まで漏れている時間だった。

 今日は匂いが薄い。


 マルタンは扉を叩いた。


 すぐに開いた。


 ミレーヌがいた。


「マルタンさん」


 声が、いつもより小さかった。


「呼ばれました」


「はい。奥です」


 ミレーヌはそれだけ言って、道を開けた。


 店内に客はいない。

 椅子は卓の上に上げられている。

 床は掃かれていたが、どこか落ち着かない。


 マルタンが奥へ進もうとすると、ミレーヌが言った。


「外、ひどい噂ばかりです」


「噂です」


「本当のことは、もっとひどいんですか」


 マルタンは足を止めた。


 ミレーヌは、答えを欲しがっている顔ではなかった。

 答えてはいけないことを分かっている顔だった。


 それでも、聞かずにはいられなかったのだろう。


「分かりません」


 マルタンはそう答えた。


 嘘ではなかった。

 まだ、何も分からない。


「そうですか」


「店は、今日も閉めた方がよろしいかと」


「アルトベルク様にも言われました」


「では、そうなさってください」


 ミレーヌは、小さく息を吐いた。


「皆さん、同じ言い方をしますね」


「同じことを考えているからでしょう」


「何をですか」


 マルタンは答えなかった。


 ミレーヌは、少しだけ笑った。


「すみません、ですね」


「……はい」


「言う前から分かるようになりました」


 その笑みは、長く続かなかった。


 奥の卓には、リオン、レイバー、オスカーがいた。


 前と同じ顔ぶれだった。

 だが、空気は前より重い。


 卓の上には、地図ではなく、書付が並んでいた。

 それぞれに、名前がある。


 その隣に、血のついた封蝋が置かれていた。


 マルタンは、一礼した。


「遅くなりました」


「座れ」


 リオンが言った。


 マルタンは座った。


 オスカーは、腕を組んでいた。

 前に見た時と同じように大きい。

 だが、今日はその大きさが、怒りを押し込める器のように見えた。


 レイバーが、書付を一枚ずつ指で押さえた。


「死者四名。負傷者三名。行方不明二名」


 数字だけが、まず置かれた。


 マルタンは、息を止めた。


「死者のうち二名は公爵家文官。一名は馬車方の記録係。一名は典礼補佐。負傷者は騎士見習い、下級書記、馬丁。行方不明者は、馬車方の若い者と、伝令役の小姓」


 レイバーの声は平坦だった。


 だが、平坦でなければ読めないのだと、マルタンには分かった。


「手口は」


 リオンが問う。


「刺殺が一。狙撃が一。爆発物の投げ込みが一。馬車の転覆に見せた襲撃が一。負傷者は、逃走時の混乱に巻き込まれた者も含む」


 オスカーが低く言った。


「偶然ではない」


「はい」


 レイバーは頷く。


「時間帯が近い。場所は離れている。公爵家館へ向かう途中、または館から出た直後を狙っている。公爵閣下の予定が変わったことを知らなかった連中が、周辺の者に標的を切り替えた可能性があります」


 マルタンは、卓の上の書付を見た。


 ヨナス・クライン。


 その名前の横に、短く「死亡」と書かれている。


 血のついた封蝋は、おそらく彼のものだった。


「この方は」


 マルタンは思わず言った。


 レイバーが視線を上げる。


「ヨナス・クライン。公爵家書記。式典費用の控えを持っていた。通勤中に刺された」


「式典費用」


「襲撃者には、その書付が重要に見えたのかもしれない。あるいは、公爵家の文官なら誰でもよかったのかもしれない」


 誰でもよかった。


 その言葉が、マルタンの胃に沈んだ。


 誰でもよいのなら、誰でも殺される。

 書記でも、馬丁でも、小姓でも。

 酒場の看板娘でも。


 そこまで考えて、マルタンは視線を上げた。


 ミレーヌは奥にはいない。

 それでも、彼女が近くにいることを意識してしまった。


「アルブレヒトの道を変えた」


 オスカーが言った。


「変えたことは、まだ漏れていない。少なくとも、今日の襲撃者は知らなかった。だから、外した」


 声は低かった。


「外した腹いせに、周りを斬った」


 リオンが言う。


「腹いせだけではないでしょう」


 レイバーが書付を並べ直した。


「公爵家の実務を乱す意図もある。式典、馬車、典礼、伝令。狙われたのは、いずれも予定や移動に関わる部署です」


「弟を動けなくする気か」


「あるいは、動けばまた周りが死ぬと思わせる気です」


 オスカーの拳が、卓の下で握られた。


 音はしなかった。

 だが、マルタンには分かった。


 この男は怒っている。


 公爵家の威信を傷つけられたからではない。

 弟を狙われたからだけでもない。

 自分の家で働く者たちを、道具のように殺されたから怒っている。


「許さん」


 オスカーは言った。


 それだけだった。


 怒鳴らない。

 机を叩かない。

 だからこそ、半地下の酒場が冷えた。


 リオンは静かに尋ねた。


「捕らえた者は」


「いない」


 オスカーが答える。


「刺した者は人混みに消えた。狙撃した者も消えた。投げ込んだ者は、煙の中で見失った。馬車を襲った連中は、荷運びに紛れていた」


「訓練されています」


 マルタンは言った。


 オスカーがこちらを見る。


「続けろ」


「全員が兵士という意味ではありません。ただ、逃げ方を決めていた。殺した後にどう散るか、誰が荷を捨て、誰が騒ぎを作り、誰が道を塞ぐか。そういう段取りがあったように聞こえます」


 リオンが頷く。


「実働隊長がいる」


「名は」


 オスカーが問う。


 リオンは一枚の紙を出した。


「ブルーノ・ザイデル。まだ確証は薄い。だが、革命派の荒事をまとめている名として上がっている」


 マルタンは、その名を初めて聞いた。


 ブルーノ。


 響きは重い。

 荷役か、職人か、酒場で拳を振るう男の名に聞こえた。


「どこからの名だ」


 オスカーが尋ねる。


 リオンは答えず、レイバーを見た。


 レイバーが代わりに言う。


「内側からです」


 オスカーの目が細くなる。


「密偵か」


「はい」


「名は聞かん」


 オスカーは即座に言った。


「聞けば、俺の責任になる」


 リオンが頷いた。


「その方がよろしいかと」


 マルタンは、クラウスの名を思い出した。


 半地下の酒場に密書を預ける男。

 革命派の中へ潜り、帰ってくるたびに、顔の色が少しずつ悪くなっている男。


 ここで名を出さないことが、その男を守る。


 同時に、名を出さないことで、その男は誰からも守られなくなる。


「その内側の者は、ブルーノに近いのか」


 オスカーが問う。


 リオンは短く答えた。


「近づきつつあります」


 レイバーが補足する。


「ブルーノは、元灰鷹という触れ込みの協力者を信用し始めている。完全ではありません。ただ、荒事の相談に居合わせる程度には近い」


 オスカーは、鼻で息を吐いた。


「危ない橋だ」


「はい」


 リオンは否定しない。


 マルタンは、手袋の中で指を握った。


 ブルーノが今回の実働を指揮していたなら、今回の襲撃が失敗ではなく成功として扱われるほど、その近くにいる密偵の価値は上がる。

 だが、次に何かが狂えば、疑いは近い者から向けられる。


 信頼は、盾になる。

 同時に、首輪にもなる。


「使うのか」


 オスカーが言った。


 リオンは、すぐには答えなかった。


 半地下の酒場の外を、馬車が通った。

 天井がかすかに鳴る。


「使わなければ、次も向こうが選びます」


 リオンは言った。


「場所も、時も、殺す相手も」


「使えば、その密偵が死ぬかもしれん」


「使わなくても、死ぬかもしれません」


 オスカーは、しばらくリオンを見ていた。


「おまえは嫌な言い方をする」


「よく言われます」


「だが、間違ってはいない」


 オスカーは、書付の一枚を指で押さえた。


 ヨナス・クライン。


「これ以上、選ばせん」


 それは、誰に向けた言葉でもなかった。


 革命派へ。

 公爵家へ。

 自分自身へ。


 すべてに向けた言葉に聞こえた。


 レイバーが、静かに言った。


「向こうに、機会を与える必要があります」


 マルタンはレイバーを見た。


 その言い方は、冷たかった。

 だが、レイバーの顔は冷たくなかった。


「機会?」


 オスカーが問う。


「向こうが、選んだと思える機会です」


 リオンが、ゆっくりとレイバーを見る。


「続けろ」


「こちらがただ守れば、また別の者が殺される。なら、相手が食いつく餌を置くしかない。ただし、餌だと気づかれない形で」


 マルタンは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


 餌。


 誰を。

 何を。


 それを、ここでは誰も口にしなかった。


 口にしないことが、かえって答えに近かった。


 オスカーは茶を見た。

 冷めきっている。


「弟を餌にはせん」


 声は静かだった。


 レイバーは即座に答えた。


「本物を、ですか」


 オスカーの目が、わずかに動いた。


 リオンが言った。


「ここから先は、人をさらに絞るべきです」


 その場にいた者たちが、互いを見る。


 マルタンは、何かを聞くべきではないと感じた。


 それでも、自分がここにいる以上、聞かされるのだろう。


 半地下の酒場の奥で、誰かが椅子を引く音がした。


 ミレーヌではない。

 誰もいないはずの席が、音を立てたように感じただけだった。


 オスカーが立ち上がる。


「今夜はここまでだ」


 リオンが眉を動かす。


「よろしいのですか」


「ここで長く話せば、それだけ目立つ」


「では」


「続きは別の場所で詰める。だが、クラウスには流せ」


 マルタンは顔を上げた。


 名が出た。


 オスカーは、あえて名を出したのだろうか。

 それとも、もう聞いていたのか。


 リオンの表情は変わらなかった。


「承知しました」


「ブルーノに、疑わせるな」


「難しい注文です」


「簡単な仕事なら、ここには来ん」


 オスカーはそう言って、外套を取った。


 その背中は大きかった。


 マルタンは、ふと、ヨナス・クラインという名をもう一度見た。


 その横の文字は変わらない。


 死亡。


 人の一日は、こんな短い言葉になる。


 マルタンは、指先が冷えるのを感じた。


   ◇


 その夜、マルタンは隊舎へ戻る途中で、花売りの老婆のいた角を通った。


 老婆はいなかった。


 店も畳まれている。

 石畳は洗われていた。

 それでも、目地の奥に残った色は消えていない。


 マルタンは足を止めた。


 誰かが、ここで倒れた。

 朝、家を出て、仕事へ向かい、昼に食べるはずのパンを持って。


 マルタンは、自分の手袋を見た。


 剣を握る手だった。


 守るための手だと、何度も自分に言ってきた。


 だが、守るという言葉は、いつも遅れて来る。

 誰かが傷ついた後に、ようやく重くなる。


 通りの向こうで、子どもが母親に手を引かれて歩いていた。

 母親は、角を曲がる時、子どもを自分の体の側へ寄せた。


 マルタンは、頭を下げた。


 誰に向けたものか、自分でも分からなかった。


 そして、隊舎へ戻った。


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