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第25話 疑わしい好機


 ヴァンサン・ルノワールは、成功した作戦の後が嫌いだった。


 失敗の後、人は慎重になる。

 仲間を疑い、道具を数え、逃走路を確かめる。

 己の弱さを認めた者ほど、次には用心する。


 成功の後は違う。


 人は声を大きくする。

 自分の運を実力と呼び、敵の沈黙を恐怖と呼ぶ。

 そして、次はもっと大きなことができると考える。


 今、目の前にいる者たちは、その熱を帯びていた。


 帝都西区の古い染物工房。

 表向きは数年前に廃業した場所である。

 だが、奥の作業場には灯が入り、染料桶の跡が残る床の上に、粗末な卓が置かれていた。


 卓の上には、帝都の地図がある。

 公爵家館から北門へ抜ける道、外郭へ向かう道、古い馬車道、職人街の裏道。

 赤い印が、いくつもつけられている。


 ブルーノ・ザイデルは、その地図の前に立っていた。


 大柄な男だった。

 肩幅が広く、腕は太い。

 元は荷役か、鍛冶か、石工か。

 少なくとも机に向かって文字を書くための体ではない。


 だが、彼はただの乱暴者ではなかった。

 どの路地が狭いか、どこで荷車を横倒しにすれば馬車が止まるか、どの市場で人混みを作れるか、よく知っていた。


 帝都の腹の中を、彼は身体で覚えている。


「奴らは道を変えた」


 ブルーノが言った。


「だが、変えたせいで下の連中が露出した。文官、馬車方、伝令、馬丁。公爵家は、頭だけで歩いているわけじゃない。足を斬れば、頭も動けなくなる」


 彼の言葉に、数人が頷いた。


 ヴァンサンは頷かなかった。


 隣で、ルネ・バローが身を乗り出している。


「帝都の市民も見ました。公爵家の者も血を流す。貴族は無敵ではないと」


 若い声だった。

 熱がある。


 熱は、人を動かす。

 同時に、人を見えなくする。


「ルネ」


 ヴァンサンは静かに言った。


「見たのは、市民だけではない。公爵家も見た」


「だからこそ、今です」


 ルネは即座に返した。


「彼らは怒っている。怒れば、判断を誤る。護衛を増やすか、道を変えるか、式典を取りやめるか。いずれにしても、これまでのようには動けない」


「怒りで慎重になる者もいる」


「貴族がですか」


 ルネの口元に、若い笑みが浮かんだ。


「彼らは誇りで生きている。誇りを傷つければ、前へ出てくる」


 ヴァンサンは、その笑みを見た。


 ルネは悪人ではない。

 少なくとも、自分を悪人だとは思っていない。

 彼は、本気で信じている。


 貴族を打つことは正義だと。

 公爵家の血を流せば、帝国に踏まれてきた者たちが救われると。

 その途中で死ぬ者は、必要な犠牲なのだと。


 危うい。


 ヴァンサンはそう思った。


 だが、その危うさは、今の革命派に必要な刃でもあった。


 刃は、鞘に収めている間は役に立たない。

 抜けば、持ち主の手も切る。


「それで」


 ヴァンサンは卓の端に立つ男を見た。


「情報は、確かか」


 男は、灰色の外套を着ていた。

 背は高くない。

 顔は痩せ、目の下に薄い隈がある。

 右手の指に、古い傷があった。


 名は、クラドス。


 元灰鷹隊士、という触れ込みである。

 少なくともブルーノはそう信じている。


 クラドスは、少し掠れた声で答えた。


「公爵家館の馬車方から出た話です。アルブレヒト公爵は、数日のうちに帝都を離れる。表向きは北部領からの急使に対応するため。実際は、一時的な避難だと」


「誰がそう言った」


「馬車方の下働きです。最近、夜番が増えた。替え馬車の手入れも命じられた。荷も少ない。護衛は少数。大仰にできない理由がある、と」


 ブルーノが鼻を鳴らした。


「筋は通る」


 ヴァンサンは、ブルーノを見た。


「通りすぎている」


「疑いすぎだ」


「疑うために私はいる」


「俺は斬るためにいる」


 ブルーノは笑った。


 周囲の数人も笑う。


 クラドスは笑わなかった。


 それを、ヴァンサンは見ていた。


「クラドス」


「はい」


「君は、その下働きを信じているのか」


 クラドスは一瞬だけ黙った。


「信じるほど、深くは知りません」


「では、なぜ持ってきた」


「捨てるには大きすぎる話だからです」


 答えは正しい。


 正しすぎる。


 ヴァンサンは指先で地図の端を叩いた。


「君は元灰鷹だったな」


「はい」


「なら、彼らがこういう餌を置く可能性も分かるはずだ」


「分かります」


「それでも持ってきた」


「はい」


「なぜ」


 クラドスは、今度は少し長く沈黙した。


 ブルーノが苛立ったように腕を組む。


「ヴァンサン、こいつは使える。前にも言ったろう。灰鷹の動き方を知っている。酒場の連絡役も、隊舎の裏口も、奴らの夜の癖も知っている」


「だから疑っている」


「疑うなら俺を疑え」


「必要ならそうする」


 ブルーノは口を閉じた。


 重い沈黙が落ちる。


 ヴァンサンは、クラドスから目を離さない。


「答えなさい」


 クラドスは言った。


「もし本物なら、ここで逃せば二度と機会はありません」


「罠なら」


「罠なら、踏ませた者を疑えばよい」


 ブルーノが笑った。


「ほらな。腹が据わっている」


 ヴァンサンは笑わなかった。


 腹が据わっている。

 それは、死ぬ覚悟がある者にも、死なせる覚悟がある者にも、死ぬしかない者にも使える言葉だった。


 クラドスがどれなのか、ヴァンサンにはまだ分からない。


「公爵家は怒っている」


 ルネが言った。


「怒りで守りを固める前に、こちらが踏み込むべきです。アルブレヒトを討てば、帝都の空気は変わる。公爵家は揺らぎ、灰鷹隊も動揺する」


「灰鷹隊を過大評価するな」


 ブルーノが言う。


「あいつらは強い」


 ルネが即座に返す。


「だからこそ、揺らす意味がある」


 ブルーノは肩をすくめた。


「俺は貴族を斬れればそれでいい。公爵でも、公爵の兄でも、灰鷹でもな」


「オスカー・フォン・ヴァルトが出る可能性があります」


 クラドスが言った。


 その名で、何人かが顔を上げた。


 オスカー。


 公爵家の武闘派騎士隊長。

 妾腹の兄。

 だが、弟公爵を支える剣。


「出るだろうな」


 ブルーノの目が光った。


「弟が逃げるとなれば、兄が守る。そういう男だ」


「二人を同時に狙える可能性があります」


 クラドスが続けた。


「アルブレヒト公爵と、オスカー卿を」


 卓の周りに、熱が走った。


 ヴァンサンは、それを肌で感じた。


 この熱が危険なのだ。


 人は、二つの大きな獲物を同時に見せられると、足元を見なくなる。


「帝都出身者を中心に組む」


 ヴァンサンは言った。


 ブルーノが眉を上げる。


「やるのか」


「まだ決めていない」


「今、組むと言った」


「組む準備をする、と言った」


「同じだ」


「違う」


 ヴァンサンは地図を指した。


「帝都の路地を知らない者は使わない。共和国語しか喋れない者も前には出さない。外の者を混ぜれば、捕まった時に共和国の影が濃くなりすぎる」


「もう十分濃い」


 ルネが言った。


「濃くしすぎると、燃えるのは共和国人街だ」


 ヴァンサンは静かに返した。


 ルネは口を閉じた。


 クレールたちの顔が、一瞬だけ脳裏をよぎったのかもしれない。


 それでも、ルネの目の熱は消えなかった。


「必要なら、燃える前に勝てばいい」


 若い。


 ヴァンサンはそう思った。


 若さは、時に美徳である。

 時に、火種である。


「ブルーノ」


「何だ」


「少人数だ」


「分かっている」


「本当に?」


 ブルーノは歯を見せた。


「大人数で行けば目立つ。荷馬車、屋根、曲がり角。いつも通りだ。止めて、塞いで、上から撃って、下から叩く」


「殺す相手を間違えるな」


「貴族の馬車に乗っている奴だ」


「それが替え玉なら」


「なら、替え玉を殺して本物を引きずり出す」


 ヴァンサンは目を細めた。


 ブルーノは強い。

 現場を知っている。

 人を動かす力もある。


 だが、彼は勝っている時ほど、敵が自分より一手先を読む可能性を軽く見る。


「君はどう思う」


 ヴァンサンはクラドスに尋ねた。


 クラドスは、地図を見ていた。


「灰鷹なら、道を塞がれた時の逃げ道を用意します」


「公爵家なら」


「護衛を見せすぎません」


「オスカーなら」


「自分で出ます」


 ブルーノが満足げに頷いた。


「ほらな」


 ヴァンサンは、満足しなかった。


「リオン・フォン・アルトベルクなら」


 クラドスの目が、ほんの少しだけ動いた。


 その変化は、周囲の者には分からなかっただろう。

 ヴァンサンには見えた。


「裏を見ます」


「どういう意味だ」


「正面の襲撃だけでは終わらないと考える。逃走路、見物人、屋根、隣家、荷馬車の持ち主。そういうものを見ます」


「なら、どうする」


「こちらも、逃げる道を一つにしない」


 クラドスは言った。


「成功した時の道。失敗した時の道。仲間を見捨てる時の道。それぞれ別にする」


 ブルーノが笑った。


「いいな。見捨てる時の道か」


 ルネが少し顔をしかめた。


「仲間を見捨てる前提ですか」


 クラドスはルネを見た。


「捕まれば、もっと多くが死にます」


 ルネは黙った。


 自分が言いそうな理屈を、別の男の口から聞かされた顔だった。


 ヴァンサンは、クラドスを見続けた。


 この男は、危ない。


 灰鷹の癖を知っている。

 革命派の中で生きるための言葉も覚えつつある。

 そして、必要な時には冷たい理屈を口にできる。


 裏切り者なのか。

 潜入者なのか。

 それとも、どちらでもない何かなのか。


 まだ分からない。


 分からないまま、使わなければならない。


 それが気に入らなかった。


「準備だけ進める」


 ヴァンサンは言った。


「決行の合図は、私が出す」


 ブルーノが不満げに鼻を鳴らす。


「遅れるなよ」


「早まるな」


「俺は早まらん」


「早まるやつは大抵そう言う」


 ブルーノは笑った。


 笑い声が、古い染物工房の梁に響く。


 ヴァンサンは、その笑いを聞きながら、地図を見た。


 帝都の線。

 馬車道。

 曲がり角。

 屋根。

 袋小路。


 好機に見える。


 あまりに、好機に見える。


 それが一番気に入らなかった。


   ◇


 会合が終わり、男たちが一人ずつ出ていった。


 最後に残ったのは、ヴァンサンとクラドスだった。


 灯は一つだけ残してある。

 染料桶の影が、床に黒く伸びていた。


「君は、灰鷹隊を恨んでいるのか」


 ヴァンサンは尋ねた。


 クラドスは、すぐには答えなかった。


「恨んでいなければ、ここにいてはいけませんか」


「質問に質問で返す者は、たいてい嘘を用意している」


「では、恨んでいます」


「今の答えは嘘だな」


 クラドスは黙った。


 ヴァンサンは微笑んだ。


「安心しなさい。今、君を疑って殺す気はない」


「今は、ですか」


「そう。今は」


 クラドスの喉が、わずかに動いた。


 恐怖はある。

 それは本物だ。


 恐怖を持たない密偵はいない。

 恐怖を隠しすぎる密偵も、長くは生きない。


「ブルーノは君を気に入っている」


 ヴァンサンは言った。


「ありがたいことです」


「ありがたいかどうかは、場合による」


 クラドスは、目だけでこちらを見る。


「彼は、信じた者を近くに置く。近くに置いた者が裏切れば、誰よりも怒る」


「覚えておきます」


「覚えておくだけで済めばいいが」


 ヴァンサンは地図を畳んだ。


「下がりなさい」


 クラドスは頭を下げた。


 灰鷹隊式ではない。

 革命派の礼でもない。

 どちらにも見える、中途半端な礼だった。


 彼が出ていく。


 扉が閉まる。


 ヴァンサンは、しばらくその扉を見ていた。


 疑わしい。


 しかし、使える。


 疑わしく、使える者ほど厄介なものはない。


 彼は灯を消した。


 暗くなった工房の中で、帝都の地図だけが、まだ目の奥に残っていた。


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