第26話 囮の馬車
ディート・ハーゲンは、朝から落ち着かなかった。
公爵家騎士団に入って七年になる。
槍を持って門に立つこともあれば、式典の馬車に随行することもある。
戦場へ出た経験はまだ少ない。
それでも、剣の握り方、馬車の横につく歩幅、群衆の中で見るべき手の動きは叩き込まれている。
だから、今朝の招集が普通でないことくらいは分かった。
鎧を着るな。
紋章入りの外套も着るな。
ただし剣は持て。
盾は馬車の中に隠せ。
人数は少なく。
道順は出発直前まで聞くな。
そう命じられた。
おかしな話だった。
もっとおかしなことに、命じたのはオスカー・フォン・ヴァルト本人である。
「公爵閣下が帝都を出るらしい」
隣の若い騎士が、小声で言った。
ディートは眉をひそめる。
「誰に聞いた」
「馬車方だ」
「馬車方はよく喋る」
「だが、今日は本当だろう」
若い騎士は、館の中庭を見た。
そこには、飾りの少ない馬車が一台置かれていた。
公爵家の紋章は小さく、遠目には裕福な商家の馬車にも見える。
だが、車輪はよく整えられ、馬もよい。
隠そうとしても、隠しきれない品があった。
「最近のことを思えば、逃げたくもなる」
若い騎士は続けた。
ディートは答えなかった。
逃げる。
その言葉は、公爵家の者に向けて使うには重すぎる。
だが、四人死んだ。
三人が負傷し、二人が消えた。
ヨナス・クラインという若い書記は、朝、家を出て、そのまま戻らなかった。
ディートは彼と親しかったわけではない。
それでも、顔は知っている。
式典の帳簿を抱えて、いつも小走りに廊下を歩いていた男だ。
ああいう男が、石畳の上で死んだ。
逃げるという言葉を、笑えなかった。
中庭の奥から、オスカーが出てきた。
鎧は着ていない。
厚手の外套だけである。
それでも、周囲の騎士たちの背筋が伸びた。
「無駄口はそこまでだ」
声は低い。
「今日は、公爵家の名を背負っていると思うな。商家の護衛だと思え。目立つな。だが、遅れるな」
「はっ」
「馬車が止まっても、勝手に散るな。俺の声を聞け」
ディートは、その言葉に引っかかった。
馬車が止まっても。
止まることを、最初から考えている。
だが、質問は許されなかった。
馬車の扉が開く。
中から、フードを深く被った人物が乗り込んだ。
背格好は、公爵アルブレヒトに似ている。
少なくとも、遠目にはそう見える。
オスカーも馬車に近づいた。
彼は乗らない。
馬車の横に立つ。
「出せ」
御者が手綱を鳴らした。
馬車は静かに動き出した。
◇
帝都の通りは、いつもより空いていた。
公爵家の者が殺された後、人々は用心深くなっている。
窓から覗く者はいる。
だが、近づいてくる者は少ない。
馬車は大通りを避けた。
職人街の端を抜け、古い礼拝堂の裏手へ向かう。
ディートは馬車の左後ろについて歩いた。
手は外套の下の剣に近い。
目は通りの左右を見る。
洗濯物。
閉じた窓。
荷車。
子どもを抱いて奥へ引っ込む女。
屋根の上の鳩。
何もない。
何もない時ほど、嫌なものだ。
前方で、荷馬車が止まっていた。
道を塞いでいる。
御者が声を上げた。
「どけ!」
荷馬車の男は慌てたように手を振る。
「車輪が外れた! 少し待ってくれ!」
ディートは剣の柄に手をかけた。
オスカーが、馬車の横で低く言った。
「曲がる」
御者が手綱を引く。
馬車は右へ入った。
狭い道だった。
礼拝堂の古い壁が片側を塞ぎ、反対側には二階建ての古い家が並ぶ。
入った瞬間、背後で音がした。
別の荷車が倒された。
道が塞がる。
「来るぞ!」
ディートが叫んだ時、上から乾いた音がした。
屋根の縁から火花が散る。
前を歩いていた騎士の肩が跳ねた。
銃撃。
「盾!」
誰かが叫ぶ。
馬車の中から隠していた盾が引き出される。
だが、遅い。
窓が開いた。
戸口が開いた。
路地の影から、男たちが出てくる。
棍棒。
短剣。
斧。
古い火薬筒。
ディートは剣を抜いた。
目の前の男が突っ込んでくる。
顔に布を巻いている。
帝国人か、共和国人か、分からない。
分からなくても、刃は来る。
ディートは受けた。
重い。
押し返す。
隣で若い騎士が倒れる。
馬がいなないた。
オスカーの声が響く。
「下がるな! 馬車を守れ!」
その声は、戦場の声だった。
だが、敵は多い。
上から撃たれる。
横から出てくる。
背後は塞がれている。
ディートは、ようやく理解した。
これは、逃げ場を潰された。
◇
ブルーノ・ザイデルは、勝ったと思った。
荷馬車は予定通り道を塞いだ。
曲がらせた先で背後も塞いだ。
屋根の者たちは撃った。
下の者たちは出た。
馬車は止まった。
オスカー・フォン・ヴァルトは見える。
そして、馬車の中にはフードの男がいる。
公爵アルブレヒト。
本物かどうかは、まだ分からない。
だが、本物でなくてもいい。
本物を守る者が、本物のように扱っているなら、斬る価値はある。
「押せ!」
ブルーノは叫んだ。
手斧を握る。
この狭い道では、長槍より斧がいい。
盾を叩き割り、腕を折り、馬車の扉をこじ開ける。
革命は、演説だけでは進まない。
扉を壊す腕がいる。
その腕が、自分だ。
「オスカーを逃がすな!」
男たちが応じる。
公爵家の護衛は粘っている。
さすがに弱くはない。
だが、少ない。
少なすぎる。
ブルーノは笑った。
罠を疑っていたヴァンサンの顔を思い出す。
疑いすぎる男は、好機を逃す。
目の前で、オスカーが馬車の扉を開けた。
中のフードの男を引きずり出すようにして、路地の奥へ走る。
「逃げるぞ!」
ブルーノは吠えた。
護衛の数人が追おうとする革命派を止める。
だが、全部は止められない。
ブルーノは自ら前に出た。
オスカーとフードの男は、古い家と礼拝堂の間の細い路地へ入る。
その先は、袋小路だ。
知っている。
帝都で生まれた者なら知っている。
逃げ込めば、終わりだ。
◇
オスカーは、袋小路の奥で止まった。
息は乱れていない。
フードの男は、肩で息をしている。
顔はまだ見えない。
ブルーノは手斧を肩に担いだ。
「終わりだ、騎士隊長」
オスカーは答えなかった。
「公爵を渡せ。そうすれば、少しは楽に死なせてやる」
オスカーは、そこでようやく口を開いた。
「おまえがブルーノか」
ブルーノは眉を上げた。
「知っているのか」
「知っているとも」
オスカーは、少しだけ首を傾けた。
「今日、ここへ来る男の名だからな」
その言葉の意味を、ブルーノは一瞬理解できなかった。
次の瞬間、隣の建物の窓が内側から開いた。
細い隙間から、槍が突き出された。
革命派の一人が喉を押さえて倒れる。
反対側の戸が開いた。
灰青色の布を巻いた男たちが出てくる。
背後の路地にも、足音。
リオン・フォン・アルトベルクがいた。
「遅い」
オスカーが言う。
「早すぎると逃げられます」
リオンは淡々と答えた。
その横に、マルタン・ルクレールが立っていた。
長剣を抜いている。
いつもの腰の低い男ではなかった。
いや、姿勢は変わらない。
だが、目が違う。
ブルーノは舌打ちした。
「クラドスめ」
その名が出た瞬間、リオンの目が少しだけ細くなった。
マルタンは何も言わない。
オスカーがフードの男の肩を叩いた。
フードが外れる。
そこにいたのは、アルブレヒトではなかった。
公爵家の下級騎士である。
背格好だけを似せた影武者だった。
ブルーノは歯を剥いた。
「やりやがったな」
「そちらが先にやった」
リオンが言った。
路地の外では、戦闘の音が変わっていた。
叫び声。
剣戟。
公爵家騎士団の号令。
包囲していたつもりの襲撃者たちが、包囲されている。
「降伏しろ」
オスカーが言った。
ブルーノは笑った。
「貴族の犬に首輪をつけられる趣味はない」
「では、死ぬか」
「そっちがな」
ブルーノは手斧を構え、マルタンを見た。
「おまえが西国の剣士か」
マルタンは、静かに答えた。
「マルタン・ルクレールと申します」
「名乗る余裕があるのか」
「礼儀ですので」
ブルーノが踏み込んだ。
速い。
見た目よりずっと速かった。
手斧が横から来る。
マルタンは長剣で受け流した。
刃と斧が擦れ、火花が散る。
重い。
マルタンの腕に衝撃が走る。
ブルーノは力だけの男ではなかった。
斧を振り切らない。
途中で止め、戻し、膝を狙い、肩を狙う。
狭い路地で、長剣の間合いを潰す動きだった。
「上品な剣だな!」
ブルーノが吠える。
「道場の床なら強そうだ!」
マルタンは退いた。
一歩。
二歩。
背後に壁。
ブルーノが笑う。
「終わりだ」
「いいえ」
マルタンの声は低かった。
「ここからです」
斧が振り下ろされる。
マルタンは受けなかった。
半身になる。
斧が壁を叩く。
石片が散る。
その瞬間、マルタンの長剣が、ブルーノの手首ではなく、肘の内側を打った。
斬るというより、潰す一撃だった。
ブルーノの腕がわずかに落ちる。
マルタンは踏み込んだ。
腰を低く。
肩を入れず。
剣先を短く使う。
西国の長剣は、広い道場だけの剣ではない。
城の廊下でも、階段でも、酒場でも、人を止めるために使われてきた剣だった。
ブルーノが頭突きを狙う。
マルタンは額を逸らし、柄頭で顎を打った。
ブルーノがよろめく。
それでも倒れない。
「くそが!」
手斧が再び来る。
今度は低い。
膝を刈る軌道。
マルタンは跳ばない。
下がらない。
剣の腹で斧の柄を押さえ、足でブルーノの前足を踏んだ。
ブルーノの体が止まる。
ほんの一瞬。
それで十分だった。
マルタンの長剣が、ブルーノの脇腹へ入った。
深く。
ブルーノの口から、空気が漏れた。
彼はマルタンの肩を掴もうとした。
マルタンは剣を抜かず、さらに半歩入る。
「申し訳ありません」
そう言った。
そして、剣を捻った。
ブルーノの膝が折れた。
手斧が石畳に落ちる。
音は、思ったより軽かった。
ブルーノ・ザイデルは、マルタンを見上げた。
「クラドス……」
血の混じった声だった。
「……あいつ……」
言葉は最後まで続かなかった。
マルタンは、剣を抜いた。
ブルーノは前のめりに倒れた。
路地の向こうで、戦闘の音が小さくなっていく。
革命派の男たちが取り押さえられ、何人かは動かなくなっていた。
公爵家の騎士にも負傷者がいる。
リオン班の若い隊士が、腕を押さえて座り込んでいた。
勝った。
そう言うには、血の匂いが濃すぎた。
◇
ディート・ハーゲンは、生きていた。
左腕に切り傷を負い、額から血が流れている。
それでも立っていた。
荷馬車は取り除かれ、襲撃者たちは縛られている。
死体には布がかけられた。
馬車の中の影武者は、フードを脱いで水を飲んでいた。
顔色は悪い。
無理もない。
オスカーは、路地の中央に立っていた。
マルタンが長剣の血を拭っている。
リオンは捕縛者の顔を一人ずつ確かめていた。
「ブルーノは」
オスカーが問う。
マルタンは短く答えた。
「討ち取りました」
「そうか」
オスカーはそれだけ言った。
喜びはなかった。
リオンが戻ってくる。
「生きている者から聞けることは聞きます」
「聞け」
オスカーが言う。
「だが、急げ。騒ぎが広がる」
「分かっています」
リオンは、倒れた荷馬車の方を見た。
「まだ終わりじゃない」
マルタンは顔を上げた。
リオンの視線は、襲撃者ではなく、公爵家館の方角へ向いていた。
「情報を流した者がいる」
風が路地を抜けた。
血と煙と馬の汗の匂いが、少しだけ動く。
オスカーは、静かに頷いた。
「捕まえるぞ」
その声は、低かった。
戦いは終わった。
だが、怒りは終わっていなかった。




