第27話 馬小屋の内通者
男は、馬小屋の裏口から逃げようとしていた。
公爵家館の西側、馬車方の詰め所のさらに奥に、小さな馬小屋がある。
式典用ではない。
荷運びや急使に使う馬を繋ぐ場所で、床には藁が散り、壁には古い鞍と壊れた車輪が立てかけられていた。
そこを、男は息を切らして走っていた。
上着の裾が藁に引っかかる。
手には小さな革袋。
中身は、銀貨ではない。
紙だ。
燃やすには間に合わず、捨てるには惜しく、持って逃げるには重すぎる紙。
「くそ、くそ、くそ……!」
男は裏口の掛け金に手をかけた。
開かない。
外から押さえられている。
「開け、開けよ……!」
男は肩で扉を押した。
びくともしない。
その背後で、低い声がした。
「ちょっと待て」
男の動きが止まった。
「話がある」
振り返る。
オスカー・フォン・ヴァルトが立っていた。
鎧は着ていない。
剣も抜いていない。
だが、馬小屋の中が急に狭くなったように見えた。
男は口を開いた。
「オスカー様、これは、その、私は――」
「名は」
「え」
「名を言え」
「テオドール・マイゼル、です」
声が震えていた。
マルタン・ルクレールは、馬小屋の柱の陰に立っていた。
リオン・フォン・アルトベルクは、入口側にいる。
公爵家騎士が二人、藁の山の後ろに控えていた。
逃げ道はない。
テオドール・マイゼル。
公爵家の馬小屋で働く下級係員。
元は大学に通っていた平民だという。
文官を志していたが、公爵家へ入ってからは上役と衝突し、書類仕事から馬車方へ回された。
そう聞いている。
本人がどう考えていたかは、まだ分からない。
「貴様が情報を流したな」
オスカーが言った。
「違います」
早かった。
「違います、私は、ただ、話をしただけで、あんなことになるとは――」
「何の話だ」
男は口を閉じた。
言いすぎたと気づいた顔だった。
リオンが静かに近づく。
「その革袋を」
「これは、私物です」
「なら、見せてみろ」
「いえ、これは」
テオドールは後ずさった。
背中が扉に当たる。
オスカーは動かない。
リオンも剣を抜かない。
ただ、そこにいる。
それだけで、男の膝は震え始めた。
「マルタン」
リオンが言った。
「はい」
「袋を」
マルタンは一歩進んだ。
テオドールが革袋を抱え込む。
「やめろ!」
「失礼します」
マルタンはそう言って、男の手首を押さえた。
強くはない。
ただ、外せない角度だった。
テオドールは悲鳴を上げた。
「痛い、痛い!」
「まだ痛くしておりませんが」
マルタンは困ったように言った。
「本当に痛くする前に、離したほうが賢明ですよ?」
テオドールの手から力が抜けた。
革袋が落ちる。
リオンが拾った。
中から紙が出てくる。
馬車方の控え。
勤務割。
替え馬車の手入れ記録。
外郭へ出る予定の写し。
それから、大学の読書会の案内状が一枚。
リオンの目が、その紙で止まった。
オスカーが低く言う。
「誰に渡した?」
テオドールは唇を震わせた。
「私は、私は!……ただ……あの人たちは、話を聞いてくれたんです」
「誰に渡した!」
「私は、本当は文官として――」
「誰に渡したッ!!!」
オスカーの声は大きくなかった。
だが、テオドールは泣き出した。
「私を馬小屋へ回したのは、あいつらです! 私は大学で法を学んだ! 公爵家の帳簿だって、式典の費用だって、私ならもっと正しく直せた! なのに、馬の餌だの車輪だの、そんな仕事ばかり――」
「誰に、渡した?それだけ言え!!」
四度目だった。
テオドールは、肩を震わせた。
そして、名前を言った。
マルタンは聞いた。
リオンも聞いた。
オスカーは、表情を変えなかった。
ただ、公爵家騎士の一人が、息を呑んだ。
テオドールは、さらに喋り始めた。
誰に会ったか。
どこで会ったか。
どの集まりに顔を出したか。
誰が自分を分かってくれたと言ったか。
誰が、公爵家は古い才能を潰すと言ったか。
誰が、帝国の身分制は終わるべきだと言ったか。
マルタンは、それ以上聞きたくなかった。
だが、耳は塞げなかった。
リオンは、紙を畳んだ。
「大学か」
それだけ言った。
オスカーは頷いた。
「連れていけ」
公爵家騎士がテオドールの腕を掴む。
テオドールは泣きながら叫んだ。
「私は殺していない! 私は誰も刺していない! 情報を渡しただけだ! あんなことになるとは知らなかった!」
オスカーは、男を見下ろした。
「死んだ者にも、そう言ってやれよ」
テオドールは黙った。
連れていかれる足音が、馬小屋の外へ消える。
藁の匂いが残った。
馬の息遣いが戻ってくる。
リオンが、読書会の案内状を懐に入れた。
「吐きましたね」
マルタンが言った。
「ああ」
「動くのですか」
「すぐには動かない」
リオンは扉の方を見た。
「だが、次はそこだ」
何を吐いたのか。
どこへ行くのか。
リオンはそれ以上言わなかった。
マルタンも聞かなかった。
今は、聞かなくても分かることがあった。
公爵家の怒りは、まだ行き場を探している。
◇
その日の夕方、マルタンは帝都南区の商館街にいた。
灰鷹隊の短外套は着ていない。
腰の長剣も、外套の下に隠している。
ただし、完全に隠れるわけではない。
剣を持つ者は、剣を隠しても剣を持つ者に見える。
リオンにそう言われたことがある。
腹立たしいが、たぶん正しい。
商館の扉を開けると、帳簿と紙と乾燥果実の匂いがした。
「遅い」
奥から声が飛んでくる。
アルマンだった。
机の上には帳簿があり、砂時計があり、小さな封筒が三通置かれている。
「お久しぶりです」
マルタンは頭を下げた。
「久しぶりだな、妹を待たせている男」
「……すみません」
「その謝罪は聞き飽きた」
「すみません」
「だから、それだ」
アルマンは額に手を当てた。
このやり取りをすると、少しだけ昔に戻る。
ラ・ヴィーニュ村で、マルタンが道場の窓を割った時。
アルマンの店の荷車を借りて、泥道にはめた時。
セリーヌに会いに行く口実を作るため、しょうもない嘘をついた時。
いつも、マルタンが謝る。
アルマンが怒る。
セリーヌが笑う。
今ここに、セリーヌはいない。
そのことに気づくと、胸の奥が静かに痛んだ。
マルタンは懐から布袋を出した。
「今月分です」
アルマンは受け取る前に、袋を見た。
「多いな」
「手当が出ました」
「何の手当だ」
「危険な仕事です」
「お前の仕事で危険でないものがあるのか」
マルタンは答えられなかった。
アルマンは舌打ちし、袋を受け取った。
中身を数える。
商人の指は速い。
「多すぎる」
「屋根の修理と、子どもたちの靴と、エミールの薬代に」
「薬が必要だと誰が言った」
「前の手紙で、咳をしていると」
「あれはもう治った」
「そうですか」
マルタンは息を吐いた。
「よかった」
アルマンは、少しだけ顔をそむけた。
「……治ったと聞いて、まず安心する顔をするなら、帰ればいいだろうが」
マルタンは黙った。
アルマンはそれ以上言わず、封筒の一つを押し出した。
「セリーヌからだ」
マルタンは、両手で受け取った。
封は簡素だった。
紙も上等ではない。
それでも、そこにはセリーヌの筆跡があった。
開ける指が、やはり少し震えた。
手紙には、短いことが書かれていた。
エミールの咳が治ったこと。
リュカが木の枝で剣の真似をして、近所の鶏に怒られたこと。
ミレーヌが父へ手紙を書く練習を始めたこと。
畑の端の葡萄が今年はよく実りそうなこと。
そして、最後にこうあった。
”あなたが何をしているのか、私は全部は知りません。
知らない方がいいこともあるのでしょう。
でも、あなたが無事でいることだけは、知っていたいです。
お金より先に、返事を書いてください。”
マルタンは、手紙を閉じた。
「返事を書け」
アルマンが言った。
「今ですか」
「今だ」
「あとで隊舎で」
「隊舎で書いた手紙など、どうせ『元気です、仕事です、すみません』で終わる」
「……否定できません」
「だから、ここで書け」
アルマンは紙とインクを出した。
マルタンは椅子に座る。
剣の鞘が椅子に当たった。
音がした。
アルマンがその音を聞く。
「剣を置け」
マルタンは一瞬、顔を上げた。
「商館の床に、だ」
アルマンは続けた。
「手紙を書くのに剣はいらん」
「……はい」
マルタンは長剣を外し、椅子の横に置いた。
妙に心細かった。
紙の上に、筆を置く。
何を書けばよいのか、すぐには分からなかった。
敵を斬ったことは書けない。
公爵家の内通者を捕らえたことも書けない。
帝都で人が殺され、また次の場所へ向かうことも書けない。
書けることは、少ない。
”セリーヌへ。
手紙を受け取りました。
エミールの咳が治ったと聞いて、安心しました。”
そこで筆が止まる。
リュカが枝で剣の真似をした。
マルタンは、その一文を何度も読んだ。
嬉しい。
恐ろしい。
どちらも本当だった。
”リュカには、鶏を相手に剣を振らないよう言ってください。
鶏は強いです。
父さんも昔、鶏に負けました。”
アルマンが横から覗き込んだ。
「負けたな」
「覚えていましたか」
「村中覚えているぞ」
「それは困りました」
少しだけ、空気が緩んだ。
マルタンは続きを書いた。
”ミレーヌへ。
字の練習をしていると聞きました。
父さんは、あなたの手紙を楽しみにしています。
エミールへ。
まだ読めないと思いますが、早く声を聞きたいです。”
そして、最後に。
”私は、今も帝都にいます。
仕事は続いています。
どうか、皆でよく食べてください。
私も、無事でいるよう努めます。”
帰ります、とは書けなかった。
いつ帰るとも書けなかった。
マルタンは筆を置いた。
アルマンは、乾く前の文字を見ていた。
「努めます、か」
「はい」
「商人なら、そんな約束は信用しない」
「剣士なら」
「なおさら信用しない」
マルタンは苦笑した。
アルマンは手紙を畳んだ。
「届ける」
「お願いします」
「頼まれなくても届ける。妹への手紙だ」
「ありがとうございます」
「礼はいらん」
アルマンは袋の銀貨を帳簿に記した。
「ちゃんと生きてろ」
それは、ほとんど独り言のようだった。
マルタンは頭を下げた。
「はい」
その返事が、どれほど頼りないものか、自分でも分かっていた。
◇
夜、半地下の酒場は久しぶりに賑やかだった。
表向きは、南運河から続いた一連の任務が一段落した祝いである。
実際には、誰も終わったとは思っていない。
それでも、人は飲む。
飲まなければ、血の匂いが鼻に残る。
フリッツ・ハイネは、腕に包帯を巻いていた。
大げさに見せているのではなく、本当に斬られている。
それでも、若い隊士たちに囲まれていた。
「それで、フリッツが飛び込んだんですよ」
「飛び込んだというより、転んだように見えましたが」
マルタンが言うと、周囲が笑った。
「班長!」
フリッツが抗議する。
「事実です」
「助けたんです!」
「助けようとして転んだのです」
「結果として助けました!」
「それは認めます」
また笑いが起きた。
ミレーヌが酒を運んでくる。
「はいはい、怪我人は薄めた酒です」
「ええっ」
「ええっ、じゃありません。血を流した人は薄めた酒」
「そんな決まりが」
「今作りました」
フリッツは不満そうに杯を受け取った。
ミレーヌは笑っている。
明るい笑顔だった。
少なくとも、そう見せようとしていた。
店の隅に、リオンがいた。
珍しいことだった。
リオンは普段、この店を連絡場所として使う。
だが、隊士たちの打ち上げに混じることはほとんどない。
来ても、用件だけ済ませて帰る。
今日は帰らない。
壁際の席で、杯を前に置き、飲んでいるのか見張っているのか分からない顔をしている。
ミレーヌが、そちらへ近づいた。
「アルトベルク様」
「何だ」
「おかわりですか?」
「いらない」
「では、何か食べますか?」
「いらない」
「では、何をしに来たんですか?」
リオンは沈黙した。
近くにいた隊士が、聞こえないふりをする。
いや、聞こえているけども。
ミレーヌは盆を抱え、少しだけ首を傾げた。
「皆さん、今日は少しだけ笑ってます」
「そうだな」
「アルトベルク様も、少しだけでも笑えばいいのに」
「必要ない」
「必要かどうかで笑うものではありません」
リオンは杯を見た。
「難しいことを言う」
「簡単なことです」
ミレーヌは、彼の前に小皿を置いた。
「食べてください」
「いらないと言った」
「私が置きました」
「命令か」
「お願いです」
リオンは小皿を見た。
薄く切った黒パンと、塩漬け肉が少し。
やがて、彼は黒パンを一切れ取った。
ミレーヌの顔が、ほんの少し明るくなった。
マルタンは、その様子を見ていた。
見てしまった、という方が正しい。
リオンは気づいているのかいないのか、黒パンを噛んでいる。
ミレーヌは他の卓へ戻る。
マルタンの隣で、フリッツが小声で言った。
「班長」
「何です」
「アルトベルク殿、来るんですね。こういう時」
「来る時もあるのでしょう」
「今日、初めて見ました」
「では、珍しい日です」
フリッツは少し笑った。
「勝ったからですか」
マルタンは、答えに困った。
勝った。
ブルーノを討った。
襲撃犯を捕らえた。
内通者も捕まえた。
それは勝利なのだろう。
だが、ヨナス・クラインは戻らない。
負傷した者の痛みも消えない。
テオドールが吐いた名前の先には、まだ別の場所がある。
「一段落したからでしょう」
マルタンは言った。
「終わったんじゃないんですか」
「たぶん、終わっていません」
フリッツの笑顔が少し消えた。
マルタンは慌てて言い足す。
「ですが、今夜は飲んでよいと思います。……薄い酒ですが」
「班長までそれを言うんですか」
「血を流した方は薄めた酒だそうです」
「ミレーヌさんの決まりでしょう」
「この店では、ミレーヌさんの決まりは絶対なのですよ」
フリッツは笑った。
その笑いは、少しだけ救いだった。
マルタンは杯を持った。
酒は薄い。
それでも、喉を通ると温かかった。
アルマンの商館で書いた手紙のことを思い出す。
リュカ。
ミレーヌ。
エミール。
セリーヌ。
ここにも、ミレーヌがいる。
帝都の半地下で笑っている娘。
ラ・ヴィーニュ村で父の手紙を待つ娘。
同じ名だ。
偶然だ。
ただの偶然である。
マルタンはそう思おうとした。
店の隅で、リオンが二切れ目の黒パンを取った。
ミレーヌが、それに気づいて笑った。
半地下の酒場には、久しぶりに笑い声があった。
それが、いつまで続くのか。
その夜のマルタンには、まだ分からなかった。




