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第28話 密書の酒場


 ブルーノ・ザイデルの名は、死んでから大きくなった。


 クラウス・ベックは、そのことを革命派の集会所で知った。


 そこでは、死んだ者の名が、生きていた時よりも大きな声で呼ばれる。

 失敗は削られ、迷いは消され、乱暴な言葉は勇気に変えられる。

 血の匂いは、インクの匂いに塗り替えられる。


 帝都東区、古い製本工房の二階。

 表向きは、閉じたままの貸部屋だった。

 しかし今夜、そこには十数人が集まっている。


 机の上には、紙束が積まれていた。

 灯火は少ない。

 窓は布で塞がれている。


 クラウスは壁際に立っていた。


 今の名はクラドスである。

 元灰鷹隊士。

 灰鷹隊に見捨てられ、今は革命派に協力している男。


 そういうことになっている。


 ブルーノは、それを信じていた。


 そのブルーノは、もういない。


 だから、今夜の部屋の視線は、少しだけ違っていた。


 疑い。

 怒り。

 探り。

 そして、まだ使えるかどうかを測る目。


 クラウスは、どれにも気づかないふりをした。


 気づかないふりは、潜入の仕事の半分である。


「死者は、正しく名づけねばならない」


 机の前で、マティアス・グリムが言った。


 痩せた男だった。

 眼鏡の奥の目は落ち着いている。

 指先にはインクが染みていた。

 黒くなった爪で、彼は紙の端を押さえている。


「ブルーノは、ただの襲撃者ではない。公爵家が恐れた市民の腕だ。民衆の怒りを体で示した男だ。彼を、罠にかかって死んだ粗暴な男として終わらせてはならない」


 誰かが頷いた。


 クラウスは頷かなかった。


 ブルーノは粗暴だった。

 強かった。

 仲間に飯を奢ることもあった。

 気に入った者の肩を叩く手は痛かった。

 笑い声は大きかった。


 そして、死ぬ間際に、クラドスの名を呼んだ。


 その事実は、檄文には書かれないだろう。


 マティアスは続ける。


「公爵家は、市民の腕を罠で殺した。灰鷹隊は、もはや街の守り手ではない。貴族が夜に放つ猟犬だ」


 その言葉に、何人かが熱を帯びる。


 灰鷹隊。


 クラウスは、その名を聞いても顔を動かさなかった。


 昔、自分がその一員だったことを、この部屋の者たちは知っている。

 知っているからこそ、こちらを見る者がいる。


 ルネ・バローも、その一人だった。


 若い共和国人は、部屋の中央近くに立っている。

 顔は青白い。

 怒りで眠れていない顔だった。


「言葉だけで終わらせるつもりですか」


 ルネが言った。


 マティアスはペンを止めた。


「言葉は、終わりではない。始まりだ」


「ブルーノは死んだ」


「だから、彼の死を動かす」


「動かす?」


 ルネの声に刺が混じった。


「死んだ者を、また使うのですか」


 部屋の空気が少し硬くなる。


 マティアスは怒らなかった。


「死者を無言のままにしておく方が、よほど残酷だ」


「彼は喋れない」


「だから我々が言葉を与える」


 クラウスは、指の先が冷えるのを感じた。


 言葉を与える。


 それは美しい言い方だった。

 同時に、死者の口を奪う言い方でもあった。


「怒りは、ただ燃やしてはなりません」


 別の男が言った。


 レオポルト・ハーンである。


 きちんとした上着を着ていた。

 場違いなほど整っている。

 声も荒げない。

 手も震えない。


 彼は商人にも、下級官吏にも、市民委員会の書記にも見えた。

 実際、そのどれでもあるのだろう。


「形を与えねば」


 レオポルトは続けた。


「ブルーノの死は、公爵家の暴力を示す証になります。市民委員会で取り上げる。大学の読書会にも知らせる。共和政史研究会の学生たちも、これで公爵家の本性を知るでしょう」


「学生に何ができる」


 ブルーノ派の男が吐き捨てた。


「石を投げるくらいか」


「石を投げる者も必要です」


 レオポルトは平然と答えた。


「しかし、それだけでは足りない。証言する者、書く者、朗読する者、署名を集める者、負傷者の母親を連れてくる者。怒りには、顔と文章と場所が必要です」


 ルネがレオポルトを見る。


「あなたは、学生を前に出すつもりですか」


「彼らは兵士ではありません」


「では」


「ですが、時代を読む目は持っている」


 レオポルトは、そこでわずかに微笑んだ。


「公爵家が剣を抜くなら、こちらは言葉で彼らの剣を裁く」


 きれいな言葉だった。


 クラウスは、そのきれいさに寒気を覚えた。


 学生たち。

 読書会。

 共和政史研究会。

 市民委員会。


 どれも、剣ではない。

 だが、剣の前に置かれれば、盾になる。


 そして、盾は割れる。


 ヴァンサン・ルノワールは、部屋の隅でそれを聞いていた。


 彼はしばらく何も言わなかった。

 柔らかい顔で、全員を見ている。


 怒るルネ。

 書くマティアス。

 整えるレオポルト。

 歯ぎしりするブルーノ派。


 そして、壁際のクラドス。


 ヴァンサンの視線が、こちらで止まった。


「クラドス」


 呼ばれた。


 クラウスは一歩前へ出た。


「はい」


「君は、ブルーノの近くにいた」


 部屋の中の視線が集まる。


 予想していた。


 それでも、喉の奥がわずかに乾いた。


「はい」


「彼は最期に、何か言ったか」


 クラウスは、少しだけ目を伏せた。


 言った。


 クラドス、と。


 だが、それをここで言えば終わる。


「聞いていません」


 クラウスは答えた。


「私は、現場にはいませんでした」


「そうだったな」


 ヴァンサンは微笑んだ。


「だが、君が持ってきた情報で、彼は動いた」


 ルネの目が、さらに鋭くなった。


 マティアスはペンを止めている。

 レオポルトは表情を変えない。


 クラウスは、呼吸を乱さないようにした。


「情報を判断したのは、皆さんです」


 言ってから、失敗したかと思った。


 強すぎる。


 だが、弱すぎても疑われる。


 ヴァンサンの笑みは変わらない。


「その通りだ」


 彼は言った。


「だから、責任は皆にある」


 その言葉で、部屋の空気が少しだけ緩んだ。


 助けられた。


 いや。

 今は生かされた。


 クラウスはそう思った。


「クラドス」


 ヴァンサンが続ける。


「灰鷹隊は、次にどう動くと思う」


 来た。


 クラウスは、少し考えるふりをした。


「公爵家は怒っています」


「誰でも分かる」


 ルネが吐き捨てる。


「怒っている時ほど、彼らは正規の手続きを使うでしょう」


 クラウスは言った。


「公爵家騎士団を動かす。治安部隊へ話を通す。灰鷹隊は、表には出すぎない」


「なぜ」


 レオポルトが尋ねる。


「灰鷹隊は目立つからです。彼らが全面に出れば、貴族の私兵が市民を狩っているという言葉を与える」


 マティアスの目が、わずかに光った。


 言葉を与える。


 自分で言ってしまったことに、クラウスは内心舌打ちした。


「面白い」


 マティアスが呟く。


「貴族の私兵が市民を狩る。使える」


 クラウスは顔を変えない。


 潜入とは、時々、自分の言葉が敵の刃になるのを見る仕事だった。


「では、こちらは」


 レオポルトが言った。


「学生を守る準備も必要ですね」


「学生を?」


 ルネが問う。


「大学読書会や共和政史研究会が疑われるでしょう。公爵家は、そこへ踏み込む口実を探しているはずです」


「実際、何人かは関わっている」


 ブルーノ派の男が言った。


 レオポルトは彼を見た。


「だからこそ、守るのです」


「関わっている者をか」


「学生全体をです」


 レオポルトの声は穏やかだった。


「彼らを一括りに弾圧させれば、公爵家は敵を増やす。逆に、我々が彼らを守る顔をすれば、市民委員会は力を持つ」


 クラウスは、その言葉を頭の中に刻んだ。


 学生全体を守る顔。

 大学読書会。

 共和政史研究会。

 公爵家が踏み込む口実。


 これは届けなければならない。


 ルネが低く言った。


「裏切り者も、そこにいるかもしれません」


 クラウスの背中に、冷たいものが走る。


 ルネは誰を見ているわけでもなかった。

 だが、その言葉は部屋全体に向けられていた。


「ブルーノは、ただ罠にかかったのではない。誰かが、こちらの動きを読ませた」


「ルネ」


 ヴァンサンが静かに言った。


「怒りで目を狭くするな」


「兄さん」


「私は、君の兄ではない」


 ルネは口を閉じた。


 だが、目の熱は消えない。


 クラウスは、その熱が自分へ向く日が近いことを感じた。


   ◇


 会合が終わった後、クラウスは一人で裏階段を降りた。


 外へ出る前に、古い製本工房の物置へ入る。

 そこには、破れた表紙、紐、糊、使われなくなった活字箱が積まれていた。


 クラウスは、懐から小さな紙片を出した。


 書くことは少ない。

 少なくしなければならない。


 多く書けば、見つかった時に多く死ぬ。

 少なく書けば、伝わらない。


 その間を選ぶ。


 彼は短い文を書いた。


 ブルーノ死亡後、檄文準備。

 グリム、殉教化。

 ハーン、大学読書会保護を名目に市民委員会を動かす気配。

 共和政史研究会、連絡拠点の疑い。

 学生全体を盾にする可能性。

 ルネ、裏切り者探索に傾く。

 クラドスへの疑い、弱くない。


 最後の一行を書くか迷った。


 書くべきではない。

 自分の危険など、情報ではない。


 だが、リオンなら知るべきだ。


 クラウスは、短く付け足した。


 長くは持たぬかもしれない。


 書いた瞬間、手が止まった。


 弱音だ。


 弱音は、密偵の紙に書くものではない。


 それでも、消さなかった。


 紙片を折る。

 小さく、小さく。


 表紙の切れ端に挟み、さらに糊の乾いた紙で包む。

 ただの古い紙屑に見えるようにする。


 それ以上の細工はしない。

 細工が凝りすぎると、かえって目立つ。


 クラウスは物置を出た。


 外の通りは暗い。


 彼は、クラドスの歩き方で歩いた。

 灰鷹隊士の歩き方ではなく、革命派に拾われた元隊士の歩き方で。


 それがどんな歩き方なのか、自分でも分からなくなりつつあった。


   ◇


 ミレーヌは、その夜、客の笑い声を数えていた。


 酒場は賑わっていた。

 公爵家の騒ぎが少し落ち着いたせいか、客は戻り始めている。

 職人、荷運び、灰鷹隊士、商人の下働き。

 安い酒と温かい煮込みを求める者たち。


 笑い声はある。


 だが、笑い声の下に、まだ別の音がある。


 噂話。

 死んだ文官の話。

 公爵家騎士団の話。

 革命派の話。

 ブルーノという男の話。


 ミレーヌは、盆を持つ手に力を入れた。


 怖くない。


 そう思うことにしている。


 怖くないわけではない。

 ただ、怖いと言えば、もう何もできなくなる。


 この店には、色々なものが来る。

 酒。

 噂。

 喧嘩。

 灰鷹隊。

 リオン・フォン・アルトベルク。


 そして、紙片。


 リオンは、仕事だと言う。

 マルタンも、たぶん仕事だと思っている。

 クラウスは、笑いながら死にそうな顔をする。


 ミレーヌは、その全部を見ている。


 ただの看板娘なら、見ないふりをすればよかった。


 でも、リオンが最初にこの店へ来た夜、彼は言った。


 この店には耳がある、と。


 その時、ミレーヌは少し誇らしかった。


 酒を注ぐだけではない。

 笑うだけではない。

 自分の耳が、誰かの役に立つ。


 リオンの役に立つ。


 それが嬉しかった。


 嬉しかったことを、今さら怖いと言って捨てるのは、何か違う気がした。


 扉が開いた。


 冷たい空気が入る。


 クラウスが立っていた。


 顔色が悪い。

 それはいつものことだった。

 だが、今夜はさらに悪い。


「いらっしゃい」


 ミレーヌは、いつもの声を出した。


「空いてる席は?」


「奥はだめ。今日は酔っ払いが寝てます」


「じゃあ、端で」


「安い酒?」


「水でいい」


「お金を落とさない客は嫌われますよ」


「つけておいてくれ」


「出世払い?」


「出世する予定はない」


 クラウスは薄く笑った。


 ミレーヌも笑った。


 盆を持って近づく。

 水差しを置く。


 その時、クラウスの指が、盆の縁に触れた。


 何かが、盆の下へ滑り込む。


 ほんの小さな紙包み。


 ミレーヌは見ない。


 見ないまま、盆を持ち上げる。


 心臓が、少しだけ速くなった。


「今日は、顔色が悪いですね」


 ミレーヌは言った。


「いつもだ」


「今日は、いつもより」


「皆、それを言う」


「皆が言うなら、本当ですよ?」


 クラウスは水を飲んだ。


 手が、わずかに震えている。


「ミレーヌ」


「はい」


「もし、俺がしばらく来なくなったら」


「そういう話は嫌いです」


「聞け」


 声が低かった。


 ミレーヌは、盆を胸に抱えた。


「はい」


「俺のことは、知らないと言え」


「知っています」


「知らないと言え」


「……はい」


「アルトベルクにも、余計なことをするなと言え」


 ミレーヌは、少しだけ眉を寄せた。


「それは、ご自分で言ってください」


「言えたらな」


 クラウスは笑った。


 笑いになっていなかった。


「マルタンさんが来るまで、預かればいいんですね」


「見ていない」


「はい」


「知らない」


「はい」


「ただの紙屑だ」


「はい」


 ミレーヌは、盆を持つ手に力を入れた。


「でも、なくしません」


 クラウスは、ほんの少し目を細めた。


「そういうところだぞ」


「何がですか」


「危ないって言ってるんだ」


「皆さん、同じことばかり言います」


「皆が言うなら、本当だ」


 今度は、ミレーヌが黙った。


 クラウスは水を飲み干し、立ち上がった。


「酒は飲まないんですか」


「酔うと、余計なことを言ってしまう」


「今でも十分言っています」


「なら、もう行く」


 クラウスは扉へ向かった。


 ミレーヌは、声をかけた。


「気をつけて」


 クラウスは振り返らなかった。


「気をつけて済むなら、そうする」


 扉が閉まる。


 ミレーヌは、しばらくその扉を見ていた。


 盆の下に、小さな紙包みがある。


 重さなど、ほとんどない。


 それなのに、腕が少し重かった。


   ◇


 マルタン・ルクレールが酒場に来たのは、それから半刻ほど後だった。


 灰鷹隊の短外套は着ていない。

 いつものように、腰の長剣を外套の下に隠している。

 隠れてはいない。

 だが、隠そうとしていることは分かる。


「こんばんは」


 マルタンは丁寧に頭を下げた。


「こんばんは、マルタンさん」


 ミレーヌは、いつもの声を出した。


「今日は、お一人ですか」


「はい」


「アルトベルク様は?」


「本部です」


「そうですか」


 自分でも分かるくらい、声が少し落ちた。


 マルタンは、それに気づいた顔をした。


 気づかないでほしかった。


「お忙しいようです」


「でしょうね」


 ミレーヌは笑った。


「皆さん、お忙しい。公爵家も、灰鷹隊も、革命派も。酒場だけが暇です」


「今夜は賑わっているようですが」


「賑わいと暇は別です」


「難しいことをおっしゃる」


「アルトベルク様にも言われました」


 マルタンは少し笑った。


 その笑みが、すぐに消える。


「預かりものは」


 声が小さくなった。


 ミレーヌは頷いた。


「あります」


 盆を持ったまま、奥へ向かう。

 棚の下、空の麦酒樽の陰。

 そこに、盆の下から移しておいた紙包みがある。


 ミレーヌは、それを取った。


 小さい。

 ただの紙屑に見える。


 けれど、中身を知っているわけではないのに、怖かった。


 戻ると、マルタンは卓の陰に立っていた。


 ミレーヌは紙包みを渡した。


 手が触れた。


「冷えていますね」


 マルタンが言った。


「水仕事です」


「そうですか」


「そうです」


 マルタンは、紙包みを懐に入れた。


「ありがとうございます」


「お礼を言われることではありません」


「いいえ」


 彼は真面目な顔で言った。


「これは、お礼を言うことです」


 ミレーヌは返事に困った。


 お礼を言われると、自分が危ないことをしていると分かってしまう。

 分からないふりをしていたいのに。


「マルタンさん」


「はい」


「クラウスさん、顔色が悪かったです」


 マルタンの表情が変わった。


 ほんの少し。


「何か言っていましたか」


「しばらく来なくなったら、俺のことは知らないと言え、と」


 マルタンは黙った。


「そういうことを言う人は、本当に来なくなるんですか?」


 聞いてから、聞かなければよかったと思った。


 マルタンは、すぐには答えなかった。


「来るように、努めます」


「マルタンさんも、そればかりですね」


「すみません」


「便利な言葉」


「はい」


 ミレーヌは、小さく息を吐いた。


「アルトベルク様に、伝えてください」


「何をでしょう」


「……いいえ」


 言いかけて、やめた。


 顔を出してください。

 そう言うつもりだった。


 でも、それは仕事と関係がない。


 仕事と関係がないことを、自分が言う資格があるのか分からなかった。


「お気をつけて、と」


 結局、そう言った。


 マルタンは静かに頷いた。


「必ず」


 彼は一礼し、店を出ていった。


 扉が閉まる。


 ミレーヌは、空になった手を見た。


 紙包みはもうない。


 けれど、重さだけが残っている気がした。


 店の奥で、客が笑った。

 誰かが杯を倒し、酒がこぼれた。

 いつもの酒場の音だった。


 ミレーヌは深く息を吸い、盆を持ち直した。


「はい、ただいま!」


 声は、いつもの看板娘の声に戻っていた。


 戻した。


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