第29話 返す言葉
マルタン・ルクレールが灰鷹隊の隊舎へ戻った時、リオン・フォン・アルトベルクはまだ起きていた。
奥の部屋に、灯火は一つだけだった。
机の上には、公爵家馬車道の写し、押収した伝票、荷馬車の出入りを記した帳簿の断片、そして大学関係者らしき名が書かれた紙片が並んでいる。
リオンは椅子に座っていなかった。
立ったまま、紙を見下ろしている。
「遅かったな」
「申し訳ございません」
「謝ることではない。来たか」
「はい」
マルタンは外套の内側から、小さな紙包みを出した。
紙屑にしか見えない。
だが、その軽さに似合わない重さがあった。
リオンはそれを受け取り、机の上で広げた。
短い文だった。
リオンの目が、一行ずつ動く。
ブルーノの死。
檄文。
大学読書会。
共和政史研究会。
市民委員会。
学生を盾にする動き。
ルネの裏切り者探し。
クラドスへの疑い。
最後の一行で、リオンの指が止まった。
長くは持たぬかもしれない。
マルタンは、その一行を横から読んだ。
リオンは何も言わなかった。
ただ、紙を折り直した。
「大学だ」
リオンは言った。
「読書会と史学の研究会。そこに連絡網がある。公爵家の内通者が吐いた先とも繋がる」
「踏み込みますか」
「公爵家はそうする」
「灰鷹隊は」
「前に出すぎない」
リオンは机の上の地図を指で押さえた。
「公爵家騎士団が主語になる。治安部隊も使う。灰鷹隊が先頭に立てば、連中に言葉を与える」
「貴族の犬、ですか」
「そうだ」
リオンは淡々と言った。
「犬が吠える前に、騎士団が扉を蹴る。その方がまだ形になる」
マルタンは黙った。
形になる。
それは、穏やかな言い方だった。
けれど、その形の中で誰が踏まれるのかまでは言っていない。
「クラウスさんは」
マルタンは尋ねた。
「戻しますか」
リオンは即答しなかった。
それが答えだった。
「今引かせれば疑われる」
「しかし」
「疑われている者が急に姿を消せば、答え合わせになりかねない」
リオンは紙片を燭火に近づけた。
燃やすのかと思ったが、燃やさなかった。
「まだ中にいる必要がある」
「長くは持たない、と書いています」
「だから急ぐ」
「急ぐ、とは」
「次の会合。学生側の連絡役。市民委員会と読書会を繋ぐ者。その名を拾わせる」
マルタンは、思わずリオンを見た。
「さらに奥へ行かせるのですか」
「そうだ」
「危険です」
「分かっている」
「クラウスさんも、分かっているでしょう」
「だから書いた」
リオンの声は冷たかった。
冷たい。
けれど、何も感じていない声ではなかった。
マルタンには、それが分かってしまった。
「アルトベルク様」
「何だ」
「人は、情報ではございません」
リオンの目が、マルタンへ向いた。
しばらく、二人は黙っていた。
先に視線を外したのは、マルタンだった。
「すみません」
「謝るな」
「はい」
「君の言う通りだ」
リオンは、机の上の紙を指で押さえた。
「人は情報ではない。だが、情報がなければ人が死ぬ」
マルタンは返せなかった。
それもまた、正しかった。
ヨナス・クラインは戻らない。
公爵家の若い家臣たちは戻らない。
囮馬車の護衛も、負傷した者たちも、誰かが先に知っていれば違ったかもしれない。
そして、クラウスがまだ中にいれば、次に死ぬ者を減らせるかもしれない。
そういう理屈だった。
正しい理屈だった。
正しい理屈ほど、人を逃がさない。
「返答は」
マルタンが言った。
「短くする」
リオンは別の紙を取った。
そこへ、ごく短い文を書いた。
マルタンは読まなかった。
読まない方がよい気がした。
リオンは紙を折り、封じもせずに渡した。
「ミレーヌに」
「はい」
「クラウスが来たら渡せ」
「承知しました」
マルタンは受け取った。
それから、少し迷って言った。
「ミレーヌさんから、伝言を預かっております」
リオンの手が止まった。
「何だ」
「お気をつけて、と」
リオンは答えなかった。
机の灯火が、小さく揺れた。
「それだけか」
「はい」
本当は、違う。
顔を出してください。
ミレーヌは、そう言いかけていた。
けれど、言わなかった。
マルタンは、その言わなかった言葉まで運ぶべきか迷った。
迷って、結局運んだ。
「アルトベルク様」
「まだあるのか」
「たまには、お顔を出されては」
「仕事だ」
「はい。ですが、仕事でも、来てくだされば嬉しい方もおります」
リオンの表情は変わらない。
「君は余計なことを見るな」
「妻帯者は、そういうところに目が行くものでございます」
「なら、目を閉じていろ」
「それは難しゅうございます」
リオンは短く息を吐いた。
怒ったわけではなさそうだった。
笑ったわけでもない。
「今夜は行けない」
「はい」
「明日も分からない」
「……はい」
「それでいい」
よくはない。
マルタンはそう思った。
だが、口には出さなかった。
◇
酒場へ戻る道で、マルタンは何度か懐に手を当てた。
リオンの返答は薄い紙一枚だ。
持っているのかどうか、触れなければ分からない。
けれど、落としてはならない。
濡らしてはならない。
誰にも見せてはならない。
そんな紙を、ミレーヌはさっきまで盆の下に乗せて歩いていた。
水差しを運び、酒を注ぎ、酔った客を笑ってあしらいながら。
マルタンは、自分の娘の名を思い出した。
ミレーヌ。
ラ・ヴィーニュ村で、父の手紙を待っているはずの娘。
帝都の半地下で、紙包みを預かっている娘。
同じ名だ。
偶然だ。
何度思っても、うまく切り離せなかった。
酒場の灯りが見えた。
扉を開けると、温い空気と酒の匂いが押し寄せてきた。
客の声がある。
笑い声もある。
ミレーヌは奥の卓で、酔った荷運びの言い訳を聞いていた。
「だからな、俺は杯を倒したんじゃない。卓が勝手に傾いたんだ」
「では、卓に代金を払っていただきます」
「卓は金を持ってねえ」
「なら、あなたですね」
客たちが笑った。
ミレーヌも笑った。
その笑いが、マルタンに気づいた瞬間、ほんの少しだけ形を変えた。
「いらっしゃいませ、マルタンさん」
「戻りました」
「お早いですね」
「用件だけでしたので」
ミレーヌは盆を持ち直した。
「アルトベルク様は」
問いは短かった。
短いからこそ、隠しようがなかった。
「お仕事です」
「そうですか」
ミレーヌは笑った。
「お忙しい方ですものね」
「伝言は、お渡ししました」
「何かおっしゃっていましたか」
マルタンは答えに迷った。
今夜は行けない。
明日も分からない。
それでいい。
そのまま伝えるには、あまりに固かった。
「お気をつけるそうです」
ミレーヌは目を細めた。
「本当に、そうおっしゃいました?」
「……正確には、私がそう受け取りました」
「便利ですね、マルタンさんの受け取り方」
「すみません」
「またそれです」
ミレーヌは小さく笑った。
笑って、それから少し声を落とした。
「返すものは」
「ございます」
マルタンは、卓の陰で紙を渡した。
ミレーヌは、それを受け取る。
手が触れた。
やはり冷えていた。
「クラウスさんが来たら、これを」
「はい」
「ただし、他の方には渡さないでください」
「分かっています」
「もし、来た方の様子が少しでもおかしければ」
「渡さない」
「はい」
「見ていない」
「はい」
「知らない」
「はい」
「ただの紙屑」
「はい」
ミレーヌは先に言った。
それは、さっきクラウスから言われた言葉なのだろう。
マルタンは胸の奥が少し痛んだ。
「ミレーヌさん」
「はい」
「怖ければ、断ってよいのです」
ミレーヌは、すぐには答えなかった。
店の奥で客が笑った。
誰かが歌い始めた。
ひどく調子の外れた歌だった。
「断ったら」
ミレーヌは言った。
「クラウスさんは、どこへ持っていくんですか」
マルタンは答えられなかった。
「別の人に頼むんですか」
「おそらくは」
「その人は、怖くないんですか」
「怖いと思います」
「では、同じです」
ミレーヌは盆を抱え直した。
「私は、この店にいます。ここなら、皆さんが来られる。クラウスさんも、マルタンさんも、アルトベルク様も」
最後の名だけ、ほんの少し柔らかかった。
「私が断れば、誰か別の人が危ない橋を渡ります。それなら、私がやっても同じです」
「同じではございません」
「どう違うんですか」
ミレーヌの目は、思ったより真っ直ぐだった。
マルタンは、また答えられなかった。
自分の娘なら、絶対に断らせる。
危ない橋など渡らせない。
だが、目の前の娘には、断ってよいと言うだけだ。
それ以上、何もできない。
「すみません」
「本当に便利ですね」
「はい」
ミレーヌは少しだけ笑った。
「でも、ありがとうございます」
「お礼を言われることでは」
「それも、こちらの台詞です」
マルタンは黙った。
ミレーヌは紙を胸元に隠した。
「クラウスさんが来たら、渡します」
「お願いします」
「マルタンさんは」
「はい」
「今日は飲んでいかないんですか」
「今夜は戻ります」
「皆さん、戻ってばかりですね」
「仕事が」
「はいはい。仕事ですものね」
ミレーヌは、明るく言った。
明るく言いすぎていた。
◇
クラウスが来たのは、夜がさらに深くなってからだった。
客は減っていた。
酔いつぶれた者が一人、壁際で眠っている。
店主は奥で帳簿をつけていた。
ミレーヌは床を拭いていた。
扉が開く音がした。
顔を上げる。
クラウスだった。
外套の襟を立てている。
顔色は、さっきよりも悪い。
「閉店か」
「まだです」
「水を」
「また水ですか」
「安い客で悪い」
「本当に悪いと思っている人は、少しは払います」
ミレーヌは水を注いだ。
クラウスは端の卓につく。
ミレーヌは水差しを置き、声を落とした。
「返すものがあります」
クラウスの目が、一瞬だけ鋭くなった。
「誰から」
「知りません」
「何を」
「紙屑です」
クラウスは薄く笑った。
「覚えがいい」
「看板娘ですから」
ミレーヌは、布巾の下に隠していた紙を卓に置いた。
クラウスはそれを取らない。
まず周囲を見た。
眠っている客。
奥の店主。
開け放たれていない窓。
扉。
それから、ようやく紙を取った。
彼は開かなかった。
「読まないんですか」
「ここでは読まない」
「大事なことですか」
「大事じゃない紙を、こんなふうには渡さない」
「それもそうですね」
ミレーヌは笑おうとした。
あまりうまくいかなかった。
クラウスは水を少し飲んだ。
「ミレーヌ」
「はい」
「次から、俺が来るとは限らない」
ミレーヌの手が止まった。
「どういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
「他の人が来るんですか」
「来るかもしれない」
「その人に渡せばいいんですか」
「合図が違えば渡すな」
「合図なんて、私は」
「アルトベルクに聞け」
「アルトベルク様は来ません」
言ってから、思ったより強い声になったことに気づいた。
クラウスは、少しだけ目を上げた。
「そうか」
「……仕事ですから」
「そうだな」
「皆さん、そればかりです」
「便利だからな」
「すみません、と同じですね」
「マルタンのか」
「はい」
クラウスは少し笑った。
その笑いは、すぐ消えた。
「もし俺が来なければ、しばらく何も預かるな」
「しばらく、とは」
「分からない」
「分からないことばかりですね」
「分かっていることもある」
「何ですか」
「俺は疑われている」
ミレーヌは息を呑んだ。
クラウスは淡々と言った。
「まだ首は繋がっている。だが、細い」
「なら、逃げれば」
「逃げたら、首が落ちる」
「そんな」
「そういう場所にいる」
クラウスは水を飲み干した。
「怖いか」
ミレーヌは答えられなかった。
怖い。
そう言えば、全部が崩れる気がした。
怖くない。
そう言えば、嘘になる。
「怖いです」
結局、そう言った。
クラウスは少しだけ意外そうな顔をした。
「でも、預かります」
「なぜ」
「私がここにいるからです」
「理由になっていない」
「でも、それしかありません」
ミレーヌは布巾を握った。
「クラウスさんは、中にいるんでしょう。マルタンさんは、運ぶんでしょう。アルトベルク様は、決めるんでしょう」
そこで一度、声が詰まった。
「なら、私はここで預かります」
クラウスは黙った。
長い沈黙ではなかった。
けれど、ミレーヌには長く感じた。
「そういうところだぞ」
クラウスは言った。
「何がですか」
「危ないって言ってるんだ」
「またそれです」
「皆が言うなら、本当だ」
「それ、前にも聞きました」
「俺も前に言った気がする」
クラウスは立ち上がった。
「もう行くんですか」
「ああ」
「水だけで?」
「安い客だからな」
「次はお酒を頼んでください」
「次があればな」
「あります」
ミレーヌは、すぐに言った。
「次はあります」
クラウスは扉の前で止まった。
振り返りはしなかった。
「そう言われると、来にくいな」
「では、来てください」
「逆だろう」
「看板娘の命令です」
クラウスは小さく笑った。
「ロビン隊長より怖いな」
扉が開く。
冷たい空気が入った。
「気をつけて」
ミレーヌは言った。
クラウスは、今度は振り返った。
顔色の悪い男が、少しだけ笑っていた。
「気をつける」
そう言って、彼は出ていった。
扉が閉まる。
ミレーヌは扉に手をかけた。
掛け金を下ろす。
そのまま、手を離せなかった。
指先が震えている。
寒さのせいではなかった。
奥で店主が何かを言った。
客が寝言を言った。
酒場は、まだ酒場の音を立てていた。
ミレーヌは扉に額を近づけた。
アルトベルク様。
声には出さなかった。
仕事ですものね。
そう思って、笑おうとした。
笑えなかった。
手の震えだけが、なかなか止まらなかった。




