第30話 大学の門
大学の門は、閉じられていた。
閉じられているだけではない。
内側から机、椅子、講義用の長卓、書架の板、壊した荷車の車輪まで積み上げられ、そこに濡らした布と砂袋が重ねられていた。
門の上には、赤い布が結ばれている。
帝都大学。
貴族の子弟も、市民の子も、地方から出てきた秀才も、外国から来た留学生も、同じ石畳を踏む場所だった。
少なくとも、そういうことになっていた。
今、その門の前には、公爵家騎士団の槍が並んでいる。
その後ろに、隷下の治安部隊がいる。
さらに外側には、見物人と、怒号と、噂が集まっていた。
「出てこい!」
誰かが叫んだ。
門の内側から石が飛んだ。
盾に当たり、乾いた音が響く。
公爵家騎士が一歩も動かずに受けた。
別の石が、治安部隊の若い兵の肩を打った。
兵が膝をつく。
周囲の者が引きずって下げた。
門の内側から歓声が上がる。
その歓声に、外側の兵たちの顔が硬くなる。
大学の塀は高い。
正門のほか、東西に小門がある。
職員用の裏口、納品用の通用口、古い庭園へ続く鉄扉もある。
そのすべてに、兵が置かれていた。
だが、置かれていることと、入れることは違う。
大学の中には、革命派の学生と市民が集まっている。
読書会、共和政史研究会、市民委員会の者たち。
ブルーノ・ザイデルの死を殉教として語る者たち。
公爵家を糾弾する檄文を持つ者たち。
そして、逃げ遅れた者たち。
ただ講義を受けに来ていた学生。
寮へ戻れなかった留学生。
教授。
書記。
食堂の女中。
用務員。
門の外から見えるのは、赤い布と、石を投げる腕だけだった。
その奥にいる者の顔までは見えない。
◇
灰鷹隊の隊舎では、朝から命令が飛んでいた。
大学へ行く命令ではなかった。
「市場南側、二個組。西門前、三個組。倉庫街は巡回を増やす。大学へ治安部隊が抜けている分、空き巣と便乗騒ぎが増える」
ロビンの声が、隊舎の中庭に響いていた。
「大学へ近づきすぎるな。あちらは公爵家騎士団の管轄だ。灰鷹隊は、街を空にしない」
隊士たちは返事をする。
誰も不満を口にはしない。
だが、顔には出ていた。
大学で何かが起きている。
公爵家騎士団と治安部隊が動いている。
それなのに、自分たちは市場、門、倉庫、職人街へ散らされる。
派手な戦場ではない。
だが、必要な仕事だった。
治安部隊が大学へ引き抜かれた途端、街の隙間は広がる。
噂が人を動かし、怒りが人を押し、空いた路地には盗人も紛れ込む。
灰鷹隊は、その穴を埋める。
今日だけではない。
包囲が続けば、明日も、明後日も。
それを聞いた時、隊士たちの肩に、見えない重さが乗った。
マルタン・ルクレールも、中庭の端に立っていた。
ただし、彼の名は通常警備の割り振りには呼ばれなかった。
リオン・フォン・アルトベルクが、目で呼んだからである。
◇
奥の部屋には、リオン班だけが集められていた。
リオン。
マルタン。
ヘルマン・ヴァイス。
フリッツ・ハイネ。
ユルゲン・クーン。
ほか数名。
机の上には、大学の粗い見取り図が広げられていた。
正門、東門、西門、講堂、図書館、寮、古い中庭、そして講堂裏へ続く細い水路。
リオンは、その水路の線を指で押さえた。
「表からは入れない」
誰も驚かなかった。
「公爵家騎士団は門と塀を押さえている。治安部隊も外周に回っている。だが、内側の配置が分からない。どこに首魁がいるか、どこに逃げ遅れた学生が固まっているか、どこに武器を集めているかも不明だ」
ヘルマンが低く言った。
「突っ込めば、学生ごと斬ることになる」
「そうだ」
リオンは頷いた。
「だから入る」
フリッツが見取り図を覗き込んだ。
「この水路からですか」
「古い排水路だ。今は半分塞がっている。だが、人一人なら通れる」
ユルゲンが顔をしかめた。
「臭そうですね」
「臭いだろう」
「狭そうですね」
「狭いだろう」
「暗そうですね」
「暗いだろう」
リオンは淡々と答えた。
マルタンは見取り図を見た。
大学。
石造りの講堂。
中庭。
図書館。
ヴァレーヌにも、大学はあった。
リュシアンの古い大学には、中庭に葡萄棚があり、講義の後に学生たちが薄い葡萄酒を飲みながら議論していた。
革命の前も、後も、ああいう者たちは声が大きかった。
マルタンは、そこまで思い出して、言葉を飲み込んだ。
今は葡萄酒の話をする場ではない。
「任務は偵察だ」
リオンが言った。
「革命派の配置、バリケードの位置、一般学生と留学生の所在、マティアス・グリムとレオポルト・ハーンの位置。分かるだけ拾う。戦闘は避ける」
「避けられない場合は」
ヘルマンが問う。
「短く片づける。騒ぎを大きくするな」
「承知」
マルタンは手を上げた。
全員が彼を見た。
「何だ」
リオンが言った。
「確認でございます」
「言え」
「これは、記録に残らない任務でしょうか」
「残らない」
「では、危険手当はどこに残りますか」
部屋が一瞬、静かになった。
フリッツが目を瞬かせた。
ユルゲンが口を押さえた。
ヘルマンが、ほんの少しだけ眉を動かした。
リオンは、マルタンを見た。
「君はこういう時だけ勇敢だな」
「すみません。命に関わることですので」
「任務がか」
「手当がです」
ユルゲンが吹き出しかけた。
ヘルマンが肘で黙らせる。
マルタンは真面目だった。
「極秘ということは、手当まで極秘に消える、という意味ではございませんよね」
「出る」
「靴が駄目になった場合は」
「補填する」
「外套は」
「程度による」
「排水路でございます。ある程度はひどくなると思われます」
リオンは短く息を吐いた。
「補填する」
「ありがとうございます」
マルタンは丁寧に頭を下げた。
「これで安心して臭い場所へ入れます」
フリッツがとうとう小さく笑った。
その笑いは、すぐに消えた。
任務の重さが消えたわけではない。
ただ、少しだけ肩から力が抜けた。
ヘルマンがぼそりと言った。
「お前は本当に、金の話だけは声が通る」
「家族に送るものですので」
マルタンはさらりと答えた。
ヘルマンはそれ以上言わなかった。
フリッツは、その言葉を聞いて、少しだけマルタンを見た。
妻子がいる。
知ってはいる。
だが、こういう時に聞くと、また違って響いた。
「出るのは日没後だ」
リオンが話を戻した。
「外周の交代時、門前の騒ぎが一番大きくなる。そこに合わせる」
「入った後は」
「講堂裏へ出る。そこで二手に分かれる。マルタン、ヘルマン、フリッツは中庭側。私はユルゲンたちと講堂外周を見る」
「合流地点は」
「古い井戸跡」
リオンは地図の一点を叩いた。
「ただし、状況次第で捨てる。無理に合流しようとするな。情報を持って出ることを優先しろ」
その言い方は、いつも通り冷たかった。
マルタンは、クラウスの紙片を思い出した。
長くは持たぬかもしれない。
人は情報ではない。
だが、情報がなければ人が死ぬ。
その言葉は、まだ胸の奥に残っている。
◇
包囲は、一日で終わらなかった。
正午には、門の前で投石があった。
午後には、東門で押し合いが起きた。
夕方には、外に出ようとした学生が内側の過激派に殴られ、塀の上から治安部隊へ助けを求めた。
治安部隊が梯子をかけようとすると、別の学生たちが石を落とした。
誰が革命派で、誰が逃げたいだけなのか。
外からは分からない。
日が沈む頃、大学の門前には松明が並んだ。
公爵家騎士団は交代で食事を取った。
治安部隊は座り込んで靴を脱ぎ、足を揉んだ。
見物人は減ったが、完全には消えない。
夜になっても、門の内側から歌が聞こえた。
共和政の歌だった。
何人もの声が重なり、時々調子が外れる。
そのたびに笑い声が起きる。
外側の兵たちは黙って聞いていた。
マルタンは、少し離れた路地の影から大学の塀を見ていた。
歌はヴァレーヌ語ではなかった。
だが、節回しのいくつかに、共和国の歌に似たものがあった。
懐かしいと思いかけて、やめた。
今、懐かしがるものではない。
「行くぞ」
リオンが言った。
全員が外套の前を締めた。
金具には布を巻いている。
剣は抜きやすいが、鳴らないようにしてある。
ヘルマンが先頭に立つ。
古い街路や下水の入口に詳しいのは、彼だった。
「こっちだ」
彼は短く言い、路地の奥へ入った。
大学の南側には、古い石塀が続いている。
そのさらに下、雨水を逃がすための低い排水口があった。
格子は外されていた。
外したのは、公爵家側の者だ。
音を立てずに外すため、昼のうちに職人が作業したらしい。
ユルゲンが中を覗き、すぐに顔をしかめた。
「臭いですね」
「確認しなくても分かることを言うな」
ヘルマンが言った。
「狭いですね」
「それも分かる」
「暗いですね」
「黙れ」
フリッツが小さく笑った。
マルタンは、入口の石に手を置いた。
湿っている。
冷たい。
外套は駄目になるだろう。
靴も、たぶん駄目になる。
補填は出る。
出るはずである。
「マルタン」
リオンが呼んだ。
「はい」
「手当のことを考えるな」
「顔に出ていましたか」
「出ていた」
「すみません」
「行け」
ヘルマンが先に入った。
続いてマルタン、フリッツ、ユルゲン、リオン。
排水路の中は、腰をかがめなければ進めなかった。
石は濡れている。
足元には浅い水が流れている。
天井から水滴が落ちる。
外の歌声は、すぐに遠くなった。
代わりに、自分たちの息遣いと、水音だけが聞こえる。
しばらく進むと、道は二つに分かれた。
ヘルマンが手を上げた。
全員が止まる。
右の水路から、かすかな音がした。
水音ではない。
布が石に擦れる音。
誰かが、息を殺して動く音。
リオンが剣の柄に手をかけた。
マルタンも長剣に手を伸ばす。
暗闇の奥に、小さな灯りが揺れた。
それから、低い声がした。
帝国語ではなかった。
共和国語だった。
「止まって」
女の声である。
マルタンは、息を止めた。
その声を、知っていた。
暗がりの向こうで、誰かが短剣を構える気配がした。
ヘルマンが低く唸る。
フリッツが固まる。
マルタンは、剣から手を離さなかった。
だが、抜かなかった。
「……クレールさん」
彼は共和国語で言った。
灯りの向こうで、沈黙が落ちた。




