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第31話 講堂の奥


「……クレールさん」


 マルタンが共和国語で言った瞬間、暗がりの奥で灯りが止まった。


 排水路の中は狭い。

 水音が石に反響している。

 息を殺していても、互いの呼吸が分かるほど近かった。


 小さな灯りの向こうで、短剣の刃が少しだけ光った。


「その声」


 女の声が言った。


「マルク?」


 マルタンは答える前に、わずかに目を伏せた。


 その名を聞くと、喉の奥が少し重くなる。


「マルタン・ルクレールです」


 彼は言った。


「灰鷹隊、リオン班所属。現在は本名でございます」


 沈黙が落ちた。


 次の瞬間、灯りが少し近づいた。


 クレール・モローがそこにいた。


 濡れた外套を着ている。

 髪は布でまとめ、腰には短剣。

 背後には、共和国人街自警団の者たちが数名いた。


 ガストンらしき大柄な影。

 マノンらしき細い影。

 他にも二人。


 全員、顔に泥と水をつけている。


「本名でございます、ですって」


 クレールは低く言った。


「便利ですね。名前を変えれば、嘘も変わるんですか」


 フリッツが一歩動きかけた。


 ヘルマンが腕で止める。


 リオンは黙っていた。

 剣の柄に手をかけたまま、クレールたちの人数と足場を見ている。


「変わりません」


 マルタンは言った。


「嘘は嘘です」


「なら、どうしてここにいるんです」


「任務です」


「でしょうね」


 クレールの声に刺があった。


「帝国の任務。公爵家の任務。灰鷹隊の任務」


「はい」


「私たちは違います」


 クレールは灯りを少し下げた。


「中に取り残された留学生を出しに来ました。共和国人学生だけじゃありません。巻き込まれただけの学生もいる」


「分かっています」


「分かっている?」


 クレールが笑った。


 笑いではなかった。


「門の外に並んでいる槍も、そう言うんでしょうね。分かっている。けれど命令だから踏み込む。分かっている。けれど邪魔なら縛る。分かっている。けれど――」


 言葉が切れた。


 排水路の奥、大学の内側に近い方から、かすかな叫び声が聞こえた。


 女の声。

 続いて、何かが倒れる音。


 全員が黙った。


 クレールの顔つきが変わる。


 リオンが短く言った。


「場所は」


 クレールは彼を睨んだ。


「あなたには関係ありません」


「ある。こちらも中に入る」


「首魁を捕まえるためですか」


「配置を見るためだ」


「同じことです」


 また叫び声がした。


 今度は若い男の声だった。


 マルタンは共和国語で言った。


「クレールさん。今ここで言い争っている間に、誰かが怪我をします」


「あなたに言われたくありません」


「その通りです」


 マルタンは頷いた。


「ですが、言います。私たちは喧嘩を後回しにできるはずです」


 クレールは歯を食いしばった。


 灯りが揺れる。


 水の匂いと、石の冷たさと、遠くの怒号。


 やがて彼女は、短く言った。


「ついてきて」


   ◇


 排水路は講堂裏の石段近くに繋がっていた。


 出口の格子は内側から半ば外されている。

 クレールたちが使ったのだろう。


 そこから一人ずつ這い出ると、古い倉庫の陰に出た。


 夜気が冷たい。


 外から見た大学とは違い、構内は思ったより広かった。

 石畳の中庭。

 雨に濡れた芝生。

 列柱のある回廊。

 その奥に、大きな講堂が黒い塊のように立っている。


 講堂の窓のいくつかには灯りがあった。

 人影もある。


 正門側からは怒号が聞こえる。

 時々、盾を叩く音もした。


「講堂前に大きなバリケード」


 クレールが低い声で言った。


「椅子と机を積んでいます。中に学生と市民が多い。全員が武器を持っているわけじゃない」


「首魁は」


 リオンが問う。


「知りません」


「嘘だな」


 クレールの目が鋭くなる。


 リオンは平然としていた。


「全部を知っているとは言わない。だが、何かは見た顔だ」


「あなたに話す義理はありません」


「では、一般学生を巻き込む義理はあるのか」


 クレールが一歩詰めた。


 マルタンが間に入った。


「後でお願いします」


「どちらに言っているんですか」


「お二人にです」


 ヘルマンがぼそりと言った。


「こいつは仲裁だけは上手いよな」


「ありがとうございます」


「褒めてない」


 フリッツは笑いかけて、すぐに表情を引き締めた。


 回廊の奥から、足音が近づいていた。


 学生が三人、走ってくる。


 一人は腕を押さえている。

 一人は泣いている。

 もう一人は、肩に血が滲んでいた。


 追ってくる者はいない。


 だが、三人は完全に怯えていた。


 クレールがすぐに駆け寄った。


「こっち。静かに」


 学生の一人が共和国語で何かを言った。


 早口で、泣き声が混じっている。


 クレールが聞き取ろうとする。


 マルタンは反射的に同じ言葉で返した。


「落ち着いてください。どこの寮ですか」


 学生がマルタンを見た。


 灰鷹隊の外套。

 腰の長剣。

 帝国側の男。


 その顔が、さらに強ばる。


 マルタンは両手を少し上げた。


「剣は抜きません。私はヴァレーヌのラ・ヴィーニュ村の者です。あなたは?」


「リュシアン……」


 学生は震えながら答えた。


「リュシアンですか」


 マルタンの声が、ほんの少し柔らかくなった。


「では、大学の中庭に葡萄棚があるのをご存じでしょう」


 クレールが目を見開いた。


 この状況で何を言い出すのか、という顔だった。


 マルタンは続けた。


「講義の後に、薄い葡萄酒を飲みながら、誰が一番偉そうなことを言えるか競う学生たちがいる。私はあれが少し苦手でした」


 泣いていた学生が、少しだけ瞬きをした。


「リュシアンでは、今もそうですか」


「……あります」


「でしょう。あの葡萄棚は、帝国の講堂なんかより立派です」


「今それを話す場面ですか」


 クレールが小声で言った。


「すみません」


 マルタンは同じく小声で返した。


「怖がっている子には、故郷の話が良いと思いまして」


 クレールは言い返そうとして、やめた。


 学生の呼吸が、少しだけ整っていたからだ。


 マルタンは共和国語で続ける。


「今から、この方たちと一緒に裏へ出ます。走れますか」


 学生は頷いた。


「走れない方は」


 肩を負傷した学生が首を横に振った。


 ヘルマンが無言で近づき、その学生の腕を自分の肩に回した。


「軽い」


 彼は帝国語で言った。


「歩け」


 学生は言葉を理解していなかったが、意味は分かったらしい。


 小さく頷いた。


 クレールはマルタンを見ていた。


「……今のが、本当のあなたですか」


 マルタンは少し困った顔をした。


「たぶん、こちらの方が古い私です」


「腹が立ちます」


「はい」


「嫌いになりきれないところを見せないでください」


 マルタンは言葉を失った。


 クレールはすぐに目を逸らした。


「勘違いしないで。許したわけじゃありません」


「分かっております」


「分かっていない顔です」


「すみません」


「それも嫌です」


 ヘルマンが低く言った。


「痴話喧嘩なら後にしろ」


「違います」


 クレールとマルタンが同時に言った。


 フリッツがまた笑いかけた。


 その瞬間、講堂側から大きな音がした。


 全員の顔が戻る。


 笑いは消えた。


   ◇


 自警団は、講堂裏の古い通用路を知っていた。


 正確には、共和国人留学生の一人が知っていたらしい。

 食堂へ物資を運ぶ下働きと仲が良く、そこから聞いていた道だという。


 クレールたちは、その道を使って逃げ遅れた留学生を外へ出すつもりだった。


 リオン班にとっては、構内の位置を知る貴重な案内になる。


 リオンは短く判断した。


「一時的に協力する」


「命令しないでください」


 クレールが言った。


「提案だ」


「同じ意味に聞こえます」


「なら、事実を言う。君たちは学生を出したい。我々は中の配置を知りたい。道は同じだ」


 クレールは黙った。


 マノンが小声で言った。


「クレール、今は」


「分かってる」


 クレールは短く答えた。


「ただし、学生に剣を向けたら終わりです」


「武器を持たない者には向けない」


 リオンが言った。


「武器を持つ者には」


「状況次第だ」


「便利な言葉」


 クレールはマルタンを見た。


「あなたたちは皆、便利な言葉を持っている」


 マルタンは何も返せなかった。


 彼らは回廊の陰を進んだ。


 講堂に近づくにつれて、声がはっきりしてくる。


 演説の声。

 歌。

 泣き声。

 怒号。


 講堂の扉前には、机と椅子が積まれていた。

 その周囲に若者たちがいる。


 腕章を巻いた者。

 ただ立ち尽くしている者。

 包帯を巻いている者。

 檄文を抱えている者。


 その奥、講堂の壇上らしき場所から、男の声が響いていた。


「死者は、正しく名づけねばならない!」


 マティアス・グリムの声だった。


 マルタンは、ミレーヌの酒場から運んだ密書に記されていた名を思い出した。


 インクの指の男。

 ブルーノを殉教者に変えようとする男。


 講堂の中から、拍手が起こる。


 その拍手は大きい。

 だが、一枚ではなかった。


 熱のこもった拍手。

 合わせているだけの拍手。

 怯えて、拍手しなければならない者の手。


 音だけで、違いがある。


 リオンが講堂の位置を確認する。


 ユルゲンが小さな板片に印をつけた。


「講堂にグリム」


 リオンが囁いた。


「ハーンは」


 クレールが、奥の回廊を顎で示した。


「昼間、そちらへ行くのを見ました。学生代表だの、市民委員会だのが集まっている部屋があります」


「なぜ知っている」


「留学生を出すために見ていたからです」


「そうか」


 リオンはそれ以上問わなかった。


 マルタンは少し意外に思った。


 リオンは、クレールを完全には信用していない。

 だが、今は必要な情報として受け取った。


 人は情報ではない。


 だが、情報がなければ人が死ぬ。


 また、その言葉が胸をよぎる。


 その時、回廊の反対側から、別の学生たちが走ってきた。


 今度は四人。


 一人が叫ぶ。


「外へ出たいだけだ! 通してくれ!」


 追ってきた腕章の男が怒鳴った。


「裏切り者! 今出れば、公爵家に証言を売る気だろう!」


 腕章の男は棍棒を持っていた。


 学生の一人を殴ろうとする。


 クレールが飛び出した。


 短剣ではなく、肩からぶつかる。


 男がよろめいた。


 マルタンは一歩で間合いに入った。


「すみません」


 そう言って、男の手首を掴み、棍棒を落とさせる。


 膝を払う。


 男は石畳に倒れた。


 ヘルマンがすぐに押さえる。


「縛るか」


「声を出されないように」


 リオンが言った。


 フリッツが布を出す。


 腕章の男は暴れた。


「貴族の犬め!」


 その声が回廊に響く。


 講堂側で、何人かが振り返った。


 リオンの目が細くなる。


「長居はできない」


 マルタンは学生たちを見た。


「走れますか」


 帝国語で言う。


 通じた者が頷く。


 クレールが共和国語で言い直す。


 学生たちは自警団に導かれ、排水路側へ向かった。


 マルタンとヘルマンが後ろにつく。


 リオンは最後に講堂を見た。


 壇上の声は、まだ続いていた。


「公爵家は恐れている! だから門を囲む! だから剣を向ける! だが、我々は覚えている。ブルーノ・ザイデルの名を――」


 拍手が起きる。


 その拍手の中に、泣き声が混じっていた。


   ◇


 排水路の入口まで学生たちを戻す頃には、外の夜はさらに深くなっていた。


 クレールたちの一部が学生を外へ送る。

 残りは、まだ構内へ戻るつもりだった。


「まだいるのか」


 ヘルマンが言った。


「留学生だけで十人以上。一般学生もいます」


 クレールが答えた。


「全員は無理だ」


「無理でも、やります」


「死ぬぞ」


「死なせないために来ました」


 ヘルマンは黙った。


 その顔には、苛立ちではなく、苦い理解があった。


 リオンはユルゲンから板片を受け取った。


 講堂。

 奥の会議室。

 中庭バリケード。

 逃げ遅れた学生の集まり。

 排水路。


 必要な情報は揃いつつある。


「一度出る」


 リオンが言った。


「報告が必要だ」


「戻るんですか」


 クレールが問う。


「戻る」


「学生を助けるために?」


「首魁を逃がさないために」


「正直ですね」


「嘘を言う時間が惜しい」


 クレールはリオンを睨んだ。


 それから、マルタンを見た。


「あなたも戻るんですか」


「はい」


「命令だから?」


「それもあります」


「他には」


 マルタンは、少しだけ講堂の方を見た。


 リュシアンの学生。

 震えていた声。

 葡萄棚。


 帝国の大学の中庭。


「まだ、怖がっている子がいます」


 クレールは何も言わなかった。


 ただ、目の奥の刺が、ほんの少しだけ鈍った。


「あなたは、本当に腹が立つ人ですね」


「すみません」


「その謝り方も」


「はい」


 クレールは背を向けた。


「排水路の曲がり角で合流できます。外へ出るなら案内します」


「助かります」


「助けるのは、学生です」


「はい」


「あなたたちではありません」


「はい」


 マルタンは頷いた。


 それでよかった。


 排水路へ戻る直前、講堂側から再び声が上がった。


 今度は歌ではない。


 叫びだった。


 外の門で、何かが起きたのだ。


 リオンの顔が変わる。


「急ぐ」


 リオン班と自警団は、狭い排水路へ再び身を滑り込ませた。


 水音が足元で跳ねる。

 背後では、講堂の奥から怒号が膨らんでいた。


 大学の夜は、まだ終わらない。


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