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第32話 火のない戦場


 排水路の外へ出た時、夜はまだ深かった。


 だが、大学の門前だけは眠っていなかった。


 松明の火が揺れている。

 門の内側からは歌と怒号が交互に聞こえた。

 外側では、公爵家騎士団と治安部隊が交代で盾を構え、負傷者を後ろへ下げている。


 リオン班と共和国人街自警団は、大学南側の古い石塀の陰で身を低くした。


 泥と水の匂いが、外套から立っている。

 フリッツは膝に手をつき、肩で息をしていた。

 ユルゲンは懐の板片を何度も確かめている。

 ヘルマンは黙って周囲を見ていた。


 クレールたちの方も同じだった。


 救い出せた学生は、十人に満たない。

 共和国人留学生が四人。

 帝国人学生が三人。

 肩を負傷した学生が一人。

 食堂の下働きの女が一人。


 それだけだった。


 大学の中には、まだ多くが残っている。


 分かっている。


 分かっているから、誰も勝った顔をしていなかった。


「もう一度入ります」


 クレールが言った。


 マルタンは、すぐに首を横に振った。


「いけません」


「まだ残っています」


「分かっています」


「なら、退いてください。私たちは戻ります」


「いけません」


 二度目の言葉は、一度目より強かった。


 クレールの目が細くなる。


「あなたに止める権利がありますか」


「ありません」


「では」


「ありませんが、止めます」


 クレールが一歩近づいた。


「また命令ですか」


「お願いです」


「灰鷹隊のお願いは、命令と同じ顔をしています」


「では、忠告です」


「それも似ています」


 マルタンは口を閉じた。


 リオンは少し離れた場所で、ユルゲンから受け取った印を確認している。

 講堂、奥の会議室、中庭バリケード、逃げ遅れた学生の集まり、排水路。


 その情報があれば、朝には公爵家側が動く。


 だから、もう大学の中は今夜より危険になる。


「明日、突入があります」


 マルタンは言った。


 クレールの顔が変わった。


「明日?」


「はい。今夜見た配置を、公爵家側へ報告します。門と講堂裏、中庭側。どこが薄く、どこに人が固まっているかも」


「それを使って、踏み込むんですね」


「はい」


「あなたたちが案内した道で」


「……はい」


 クレールは息を呑んだ。


 怒りより先に、理解が来た顔だった。


 自分たちが使った排水路。

 学生を逃がした道。

 その道を、明日からは兵が見るかもしれない。


「だから、もう入ってはいけません」


 マルタンは言った。


「今夜は、あなた方が学生を外へ出せました。ですが、明日からは違います。内側も外側も、疑いが強くなる。排水路も見張られる。革命派も逃げる者を疑う。公爵家側も、紛れ込む者を疑う」


「それでも」


「死にます」


 クレールは黙った。


 マルタンは続けた。


「あなた方が死ねば、共和国人街で次に誰が子どもを守るんですか」


「綺麗事を言わないでください」


「綺麗事ではありません」


 マルタンは低く言った。


「人手の話です」


 クレールが顔を上げた。


「人手?」


「はい。守る人が減れば、守れない場所が増えます。大学の中にも人がいる。共和国人街にも人がいる。全部を守れる人はいません」


「だから見捨てろと」


「違います」


「同じです」


「違います」


 マルタンの声が、珍しく硬くなった。


 ヘルマンが少しだけこちらを見た。


 クレールも、言葉を止めた。


「限られた時間で、できるだけのことはしました」


 マルタンは言った。


「できなかったことは残ります。残ったものは、消えません。ですが、それを全部拾いに戻れば、今度はあなた方が戻れなくなる」


「あなたは戻れるんですか」


 クレールの声は低かった。


「いつもそうです。マルクでも、マルタンでも、灰鷹隊でも。あなたは、どこへでも入って、どこからでも戻る顔をしている」


「戻れていません」


 マルタンは、思わず答えていた。


 クレールが眉を寄せる。


「何ですか」


「私は、戻れていません」


「どこへ」


 マルタンは答えようとして、言葉を飲み込んだ。


 だが、飲み込むには遅かった。


 クレールは見逃さなかった。


「どこへ戻るつもりなんです」


 マルタンは、少しだけ目を伏せた。


 ラ・ヴィーニュ村。

 葡萄畑。

 古い道場。

 セリーヌ。

 リュカ。

 ミレーヌ。

 エミール。


 名を思い出すだけで、胸の奥が痛んだ。


「故郷です」


「共和国へ?」


「はい」


「戻れると思っているんですか。灰鷹隊で、こんなことをして」


「思っていません」


「では、どうして」


 クレールの声に、怒りが戻った。


「どうしてまだ灰鷹隊にいるんです」


 マルタンは答えなかった。


 答えなければ、次に進めない。


 だが、答えれば何かが壊れる気がした。


 クレールはさらに詰める。


「共和国人を騙して、学生を兵に売るような真似をして、それでも帰りたい場所があるんですか」


「あります」


「何があるんです」


 マルタンは、息を吸った。


「妻と子どもを食わせなければならないんです」


 クレールの表情が止まった。


 排水路の入口で、水音がした。

 遠くで、門の方から罵声が上がった。


 それでも、その場だけは音が薄くなったように感じた。


「……妻?」


「はい」


「子ども?」


「三人おります」


 クレールは、何かを言おうとして、言えなかった。


 彼女の後ろで、マノンが目を伏せる。

 ガストンは黙っていた。


「リュカ、ミレーヌ、エミール」


 マルタンは、なぜか名まで言ってしまった。


「一番下の子は、私が帝国へ来た後に生まれました。まだ抱いたことがありません」


 クレールは唇を開いた。


 何も出なかった。


 マルタンは小さく笑おうとして、失敗した。


「ですから、お金に細かいのです。すみません」


「謝らないで」


 クレールが言った。


 その声は鋭かった。


「今、それで謝らないでください」


「……はい」


「それは、あなたが私たちを騙した理由にはなりません」


「はい」


「共和国人街で、マルクの顔をしていた理由にもなりません」


「はい」


「灰鷹隊が明日、学生を殴る理由にもなりません」


「はい」


 クレールは、そこで声を落とした。


「でも」


 続きは、しばらく出なかった。


「でも、そういうことは、先に言ってください」


 マルタンは顔を上げた。


 クレールは怒っていた。


 怒っているのに、目の奥が少し揺れていた。


「先に言われても、許しませんけど」


「はい」


「許しませんけど、知らないまま嫌うのと、知っていて嫌うのは違います」


 マルタンは、何も返せなかった。


 クレールは背を向けた。


「戻ります。共和国人街へ」


 マノンがほっと息を吐いた。

 ガストンが頷いた。


「もう大学には入らない」


 クレールは言った。


「少なくとも、今夜は」


「ありがとうございます」


「あなたのためじゃありません」


「はい」


「学生のためです」


「はい」


「それと」


 クレールは振り返らないまま言った。


「奥さんと子どもに、帰るって言いなさい」


 マルタンは、すぐに答えられなかった。


 クレールは待たなかった。


 自警団は、救い出した学生たちを連れて、闇の中へ消えていった。


   ◇


 リオン班が公爵家側の臨時本部へ戻った時、夜明けが近かった。


 空の端が、ほんの少し白み始めている。


 公爵家騎士団の幕舎には、灯りがまだ残っていた。

 眠っている者はいない。


 リオンは、濡れた外套のまま、机の上へ板片を並べた。


「講堂前に大きなバリケード。中にグリム。奥の会議室側にハーンがいる可能性が高い。中庭側にも小さなバリケード。逃げ遅れた学生は講堂裏と食堂側に分散。排水路は使えるが、こちらだけの道ではない」


 公爵家の実務官が、地図に印をつけていく。


 オスカー・フォン・ヴァルトは腕を組んで聞いていた。


 目の下に疲れがある。

 だが、声は落ちていない。


「一般学生はどの程度いる」


「多い」


 リオンは答えた。


「革命派と一般学生が混ざっています。腕章を巻いていない者も、巻かされている者もいる」


「区別は」


「突入時には難しい」


 幕舎の空気が重くなる。


 オスカーは目を閉じた。


「それでも、やるしかない」


「はい」


「講堂を押さえる。グリムを捕らえる。ハーンも可能なら押さえる。学生はできる限り殺すな」


 できる限り。


 その言葉が、机の上に落ちた。


 誰も拾わなかった。


「リオン班は休め」


 オスカーが言った。


「夜を徹して働いた者を、朝の突入に出しても鈍るだけだ」


 リオンは少しだけ眉を動かした。


「我々も」


「休め」


 オスカーの声が強くなった。


「昼に倒れられては困る。次に使う」


 次。


 マルタンはその言葉を聞いた。


 次がある。


 朝の突入で終わらないと、オスカーはもう見ている。


   ◇


 翌朝、大学の門が破られた。


 正門ではない。


 東側の小門だった。


 夜の偵察で、そこに積まれた机と砂袋の数が少ないことが分かっていた。

 治安部隊が盾を並べ、公爵家騎士団がその後ろから押した。


 内側から石が飛ぶ。

 椅子が投げられる。

 棒を持った学生が叫ぶ。


 盾に当たる音。

 怒号。

 悲鳴。


 門が少しずつ押し開かれた。


 兵たちが中へ流れ込む。


 外から見れば、兵力差は明らかだった。


 公爵家騎士団は訓練されている。

 治安部隊は数がある。

 革命派の多くは学生や市民だ。


 だが、大学の中に入ると、広さは味方ではなくなった。


 回廊は狭い。

 講堂への通路は曲がっている。

 椅子と机で作られた即席の壁が、進むたびに現れる。


 盾を並べても、横に広がれない。

 槍を構えても、前へ出せない。

 剣を振れば、隣の兵に当たる。


 そして、目の前にいる者が革命派なのか、逃げ遅れた学生なのか、一瞬では分からない。


 その一瞬で、石が飛ぶ。

 棒が来る。

 誰かが転ぶ。

 後ろから押される。


 講堂の一部は押さえた。


 だが、壇上と奥の控室、図書館側の回廊、中庭へ続く扉はまだ残った。


 昼過ぎには、制圧は再び止まっていた。


 火のない戦場だった。


 燃えてはいない。

 大砲もない。

 騎馬突撃もない。


 ただ、石と棒と盾と息が、狭い屋内でぶつかり続けていた。


   ◇


 マルタンは、昼の間、眠れなかった。


 休息を命じられていた。


 リオン班は、臨時本部の裏手にある空き倉庫に押し込まれ、外套を干し、靴を脱ぎ、交代で横になるよう命じられた。


 フリッツはすぐ眠った。

 ユルゲンも壁にもたれて目を閉じた。

 ヘルマンは腕を組んだまま、眠っているのか起きているのか分からない顔をしていた。


 リオンは地図を見ていた。


 休んでいない。


 マルタンも眠れなかった。


 クレールの言葉が残っている。


 奥さんと子どもに、帰るって言いなさい。


 言えるなら、とっくに言っている。


 そう思った。


 だが、その言い訳が、自分でも少し嫌だった。


 倉庫の外では、大学の方角から時々歓声が上がる。

 どちらの歓声かは分からない。


 夕方、オスカーが来た。


 その顔で、朝の突入が終わっていないことは分かった。


「講堂の半分までは取った」


 オスカーは言った。


「だが、奥で止まっている。グリムはまだ中だ。ハーンも、おそらく残っている。夜のうちに逃げ道を探すだろう」


 リオンが立ち上がった。


「我々ですか」


「夜明け前だ」


 オスカーは地図を広げた。


「明朝、最後の突入をかける。その前に、お前たちが入る。講堂奥の控室、図書館側の回廊、古い会議室。首魁を押さえろ」


「グリムとハーン」


「可能なら両方」


「ヴァンサンとルネは」


 オスカーの目がリオンへ向いた。


「いると思うか」


「います」


 リオンは即答した。


「逃がす価値のある者が残っています。あの二人が動かない理由がない」


 オスカーは小さく頷いた。


「なら、なおさらだ」


 マルタンは立ち上がった。


 靴はまだ湿っている。

 外套も、完全には乾いていない。


 補填は出る。


 そう思おうとして、やめた。


 今はその冗談を言う気になれなかった。


 リオンがこちらを見る。


「眠れたか」


「少しも」


「なら、目は冴えているな」


「そういうことにしておきます」


 ヘルマンが腰を上げた。


「今度は臭くない道だといいが」


 ユルゲンが顔をしかめる。


「また排水路ですか」


 リオンは地図を指で叩いた。


「排水路ではない」


 ユルゲンが少しだけ安心した顔をする。


「古い暖房用の地下通路だ」


「それは臭くないんですか」


「埃っぽい」


「どちらも嫌です」


 フリッツが目をこすりながら起き上がった。


「行くんですね」


「夜明け前に入る」


 リオンは言った。


「首魁を捕らえる。逃げ道を潰す。明朝の突入までに、できる限り終わらせる」


 できる限り。


 また、その言葉だった。


 マルタンは黙って長剣を確かめた。


 大学の夜は、まだ終わっていない。


 そして、次の夜明けは、今夜より悪いものになる。


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