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第33話 旧校舎の逃走路


 夜明け前の大学は、昼間よりも静かだった。


 静かであることが、かえって悪かった。


 講堂の方角からは、時々、呻き声が聞こえた。

 負傷者の声か、寝言か、祈りか、分からない。


 門の外に並ぶ公爵家騎士団の松明は、風に揺れている。

 最後の突入は夜明けとともに始まる。


 その前に、リオン班は中へ入った。


 排水路ではない。


 古い暖房用の地下通路だった。


 かつて講堂と旧校舎を温めるために使われていた石造りの狭い通路で、今は半ば忘れられている。

 埃が積もり、古い管が壁を這い、天井は低い。


 臭くはなかった。


 その代わり、息を吸うたびに喉がざらついた。


「排水路と、どちらがましですかね」


 ユルゲンが小声で言った。


「どちらも嫌だ」


 ヘルマンが答えた。


「同感でございます」


 マルタンは咳を堪えながら言った。


 リオンは前を見たまま歩いている。


 銀糸の感覚を伸ばしているのだろう。

 暗闇の中で、彼の足取りだけが迷わない。


 フリッツはマルタンの後ろにいた。

 顔は硬い。

 だが、足は止まっていない。


「この先で旧校舎の地下へ出る」


 リオンが言った。


「講堂から渡り廊下で繋がっている。突入が始まれば、講堂奥にいる者はそこへ逃げる」


「逃げますか」


 フリッツが問う。


「逃げる」


 リオンは即答した。


「マティアス・グリムは捕まれば檄文ごと公爵家に押さえられる。レオポルト・ハーンは市民委員会の顔だ。どちらも残る理由がない」


「学生は置いて?」


 ヘルマンが低く言った。


「置いてだ」


 リオンの声は冷たかった。


「言葉で残れと言った者ほど、出口を知っている」


 誰も返さなかった。


 マルタンは、講堂の壇上から響いていた声を思い出した。


 死者は、正しく名づけねばならない。


 その声の主が、自分だけ逃げる姿を学生たちに見られるわけにはいかない。


 だから、助けは呼べない。

 だから、静かに逃げる。


 そういう理屈だった。


 地下通路の終わりには、錆びた鉄扉があった。


 ユルゲンが細い道具を出しかけたが、ヘルマンが手で止めた。


「押せ」


 彼が小声で言う。


 マルタンと二人で肩を当てる。


 鉄扉は、低く軋んだ。


 全員が止まる。


 音が、壁の中を伝っていく。


 しばらく待った。


 反応はない。


 もう一度押す。


 扉はわずかに開いた。


 旧校舎の地下倉庫だった。


   ◇


 旧校舎は、人が少なかった。


 講堂側とは違う。


 こちらには歌も、演説も、怒号もない。

 使われていない教室が並び、廊下には古い掲示板と割れた石膏像が置かれている。


 長い廊下だった。


 左右に教室の扉がある。

 いくつかは開き、いくつかは閉じている。


 死角が多い。


 窓から入る夜明け前の薄い光は、廊下の半分までしか届かない。


 リオンが手を上げた。


 全員が止まる。


 廊下の先、渡り廊下に近い方から、足音が聞こえた。


 一人ではない。


 数人。


 急いでいるが、走ってはいない。

 音を抑えようとしている。


 リオンが壁際へ寄る。

 マルタンたちも続いた。


 やがて、人影が現れた。


 マティアス・グリム。


 痩せた体に古い上着。

 腕には紙束を抱えている。

 指先は、ここからでも黒く見えた。


 その後ろに、レオポルト・ハーン。


 きちんとした上着は乱れていない。

 息は上がっているが、顔は崩れていない。


 さらに、市民委員会の幹部らしき男が二人。

 腕章を外し、懐に押し込んでいた。


 自分たちだけで逃げる者の動きだった。


「止まれ」


 リオンが言った。


 声は大きくない。


 だが、廊下に鋭く通った。


 マティアスたちが振り返る。


 一瞬、全員の顔に同じものが浮かんだ。


 恐怖ではない。


 見られた、という顔だった。


「灰鷹隊」


 レオポルトが低く言った。


「夜に人を狩る犬だ」


 マティアスが言った。


 リオンは答えない。


「投降しろ」


 その一言だけだった。


 市民委員会の男の一人が、教室の方へ身を翻した。


 もう一人が逆側へ走る。


 マティアスとレオポルトも動いた。


 助けは呼ばない。


 呼べば、学生たちに自分たちだけ逃げていると知られる。


 だから、彼らは黙って逃げた。


「追え」


 リオンが言った。


 全員が走り出す。


 長い廊下に、足音が響いた。


 左右の扉が死角になる。


 中に誰かがいるかもしれない。

 待ち伏せかもしれない。


 だが、すべてを確認している時間はなかった。


 マルタンは長剣を抜いた。


 刃が薄い光を拾う。


 前方で、革命派幹部の一人が振り返り、短剣を抜いた。


「来るな!」


「すみません」


 マルタンは速度を落とさなかった。


 短剣の突きを長剣の腹で流し、肩からぶつかる。

 男が壁に叩きつけられた。


 ヘルマンがその後ろから男の腕をねじり上げる。


「縛れ」


 ユルゲンが飛びついた。


 フリッツは前へ走る。


 マティアスとレオポルトは渡り廊下へ向かっていた。


 その時だった。


 左の教室の扉が、内側から弾けるように開いた。


 黒い影が、横からリオンへ飛び込んだ。


 速かった。


 リオンは銀糸で初動を拾っていたはずだ。


 それでも、廊下の死角から距離を潰されれば、避けきれない。


 影は肩からリオンにぶつかった。


 二人はもつれ、反対側の教室へ転がり込んだ。


 机が倒れる音。

 椅子が砕ける音。


「アルトベルク様!」


 フリッツが叫びかけた。


 教室の中から、リオンの声が飛んだ。


「構うな! 追え!」


 マルタンは足を止めかけた。


 だが、止めなかった。


 リオンの声に、迷いはなかった。


「行きます!」


 マルタンは叫び、前へ出た。


 教室の中で、剣の音がした。


   ◇


 リオンは壊れた机の上を転がり、すぐに身を起こした。


 相手も立っている。


 ヴァンサン・ルノワールだった。


 柔らかい笑みは、今はない。

 濃い色の外套を着て、片手に細い剣を持っている。


「お会いできて光栄です、アルトベルク様」


「光栄なら、正面から来い」


「正面からでは、あなたは止まらない」


 ヴァンサンは剣を構えた。


 教室の窓は割れている。

 外の薄明かりが、床に四角く落ちている。


 リオンは片手剣を抜いた。


 銀糸の感覚が、相手の肩、手首、足の重心を拾う。


 ヴァンサンの剣は騎士の剣ではない。

 決闘場の剣でもない。


 短く、軽く、逃げ道を残す剣だった。


「学生を置いて逃げるのか」


 リオンが言った。


「置いていくのではありません。残る者には、残る役割がある」


「便利な言葉だ」


「あなた方もよく使うでしょう」


 ヴァンサンが踏み込んだ。


 突き。


 リオンは半歩外した。


 銀糸が、次の動きを拾う。


 手首が返る。


 斬り上げ。


 リオンは剣を合わせ、火花が散った。


「帝国の貴族が、今さら学生を憐れむのですか」


「憐れんでなどいない」


「では」


「利用している者が嫌いなだけだ」


 リオンは前へ出た。


 剣が細く走る。


 ヴァンサンは受けず、逃げた。


 机の間を滑るように下がり、椅子を蹴る。


 リオンは椅子を斬らず、踏み越えた。


 銀糸が、ヴァンサンの肩の沈みを拾う。


 次は低い。


 リオンは剣を下げた。


 刃がぶつかる。


 ヴァンサンの目が、わずかに細くなった。


「見えていますか」


「少しな」


「厄介だ」


「君ほどではない」


 二人は再び離れた。


 廊下の向こうでは、足音が遠ざかっている。


 リオンは追えない。


 ヴァンサンも、それを分かってここにいる。


   ◇


 マルタンたちは走った。


 リオンを置いて走った。


 その事実が、マルタンの胸の奥で重く鳴っている。


 だが、振り返らない。


 レオポルトは速かった。


 走り慣れているわけではない。

 だが、迷わない。


 旧校舎のどこを抜ければ外へ出られるか、知っている者の走りだった。


 マティアスは遅れた。


 紙束を抱えているからだ。


 捨てれば速くなる。

 だが、彼は捨てない。


 言葉を書く男にとって、その紙は剣より重いのだろう。


 フリッツが追いつきかけた。


 マティアスが振り返る。


「触るな!」


 彼は紙束を抱えたまま、懐から小さな短剣を出した。


 手つきは悪い。

 だが、必死だった。


 フリッツが一瞬止まる。


 その横を、マルタンが抜けた。


「失礼いたします」


 長剣の柄で、マティアスの手首を打つ。


 短剣が床を滑った。


 マティアスは紙束を抱きしめたまま後ずさる。


「私を捕らえても、言葉は消えない」


「でしょうね」


 マルタンは言った。


「ですが、今はその言葉を少し黙らせていただきます」


 ヘルマンが追いつき、マティアスの腕を取った。


 ユルゲンが紐を出す。


 マティアスは抵抗した。


「公爵家の犬どもめ! 学生を踏みつけ、市民を黙らせ、夜に――」


 ヘルマンが布を口元に押し当てた。


「うるさい」


 短い一言だった。


 マティアスの目が怒りで見開かれる。


 だが、声は途切れた。


「捕縛!」


 フリッツが小声で言った。


 喜びではない。


 確認だった。


「レオポルト!」


 マルタンは前を見た。


 レオポルトは廊下の先、階段へ向かっている。


 ヘルマンが走り出した。


 古参らしく、無駄がない。

 負傷者を担いだ時とは違う速さだった。


 あと少し。


 ヘルマンの手が、レオポルトの外套に届きかけた。


 その時、右の教室の暗がりで、火花が弾けた。


 乾いた音が廊下を裂いた。


 ヘルマンの体が、横へ弾かれた。


 マルタンは、音より先に体が動いていた。


 だが、届かなかった。


 ヘルマンは窓にぶつかった。


 古い窓枠が砕ける。

 硝子が散る。


 彼の体は、そのまま外へ消えた。


「ヘルマンさん!」


 フリッツが叫んだ。


 マルタンは窓へ走りかけた。


 だが、右の教室から、人影が出てきた。


 若い男だった。


 ルネ・バロー。


 手には、まだ煙の残る短銃。


 彼は一瞬だけ、落ちたヘルマンの方を見た。


 それから、弾の尽きた短銃を床へ捨てた。


 再び撃つ時間はない。


 マルタンは長剣を構えた。


 ヘルマンの安否を確認する時間もない。


 ルネは短剣を抜いた。


 夜明け前の薄い光が、廊下に差し始めていた。


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