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第34話 公爵の犬


 ルネ・バローは、短銃を捨てた。


 床を滑った短銃が、古い教室の扉に当たって止まる。


 廊下には、硝子の破片が散っていた。

 割れた窓の向こうは、まだ薄暗い。

 ヘルマンの姿は見えない。


 落ちた。


 マルタンは、その事実だけを理解した。


 生きているか。

 どこに落ちたのか。

 動けるのか。


 確かめる時間はない。


 目の前に、ルネがいる。


 若い共和国人は短剣を抜いた。

 顔は青白い。

 だが、目だけが燃えていた。


「どいてください」


 ルネが言った。


 丁寧な帝国語だった。


「嫌です」


 マルタンは答えた。


「こちらには、通さなければならない人がいる」


「こちらには、通してはならない人がいます」


 マルタンは長剣を構えた。


 フリッツが窓へ向かおうとする。


「動くな!」


 マルタンは叫んだ。


 自分でも驚くほど強い声だった。


 フリッツが止まる。


「ですが、ヘルマンさんが」


「見に行けば、あなたも撃たれます」


「もう撃てません!」


「短銃だけとは限りません!」


 ルネは黙っていた。


 その沈黙が、答えだった。


 マルタンはルネから目を離さない。


「フリッツさん。マティアスを離さないでください。ユルゲンさん、縛りを確認。ヘルマンさんは後です」


「後って」


「後です」


 言葉が、自分の胸を斬った。


 後。


 仲間が窓から落ちたのに、後。


 だが、今ここで隊列を崩せば、捕らえたマティアスも逃げる。

 レオポルトも逃げる。

 ルネも、ヴァンサンも、すべて逃げる。


 ヘルマンなら、どう言うか。


 黙って追え、と言うだろう。


「あなたたちは、いつもそうですね」


 ルネが言った。


「人を後にする」


「撃った方が言うことではございません」


「必要でした」


「便利な言葉です」


「あなた方の方が、よほど使い慣れている」


 ルネが踏み込んだ。


 短剣の突きは速かった。


 若い。

 軽い。

 迷いがない。


 マルタンは長剣の根元で受けた。


 金属音。


 ルネはすぐに身を沈め、左へ回る。

 短剣が脇腹を狙う。


 マルタンは半歩下がり、柄頭でルネの手首を打った。


 ルネは痛みに顔を歪めたが、短剣を落とさない。


「正義のためです」


「人を撃っておいて」


「彼は私を止めようとした」


「だから撃った」


「はい」


「では、私もあなたを止めます」


「止まりません」


 ルネはまた踏み込んだ。


 マルタンは剣を振り下ろさない。


 殺すためなら、振り下ろせた。


 だが、廊下は狭い。

 背後にはフリッツとユルゲン、捕縛したマティアスがいる。

 横には教室の扉。

 窓の下にはヘルマンがいるかもしれない。


 大きく振れば、誰かを巻き込む。


 ルネはそれを分かっている。


 短剣で懐へ入り、長剣の間合いを殺してくる。


 若いのに、嫌な戦い方をする。


 共和国の訓練か。

 ヴァンサンの仕込みか。

 それとも、生まれつきの度胸か。


 マルタンは、三度目の突きを受け流した。


「あなたは」


 ルネが息を吐きながら言った。


「共和国人なのに、どうしてそちらにいるんです」


「先日から、よく聞かれる質問でございます」


「答えは」


「長くなります」


「では短く」


「食うためです」


 ルネの目が一瞬揺れた。


「それで、学生を売る?」


「売っていません」


「灰鷹隊が持ち帰った配置で、突入が始まる」


「逃げ遅れた子を避けるためでもあります」


「詭弁です」


「そうかもしれません」


 マルタンは前へ出た。


 長剣の切っ先が、ルネの肩をかすめる。


 布が裂れ、血が飛んだ。


 ルネは下がらない。


「正しい社会のためなら、痛みは必要です」


「その痛みを、いつも他人に払わせるのですか」


 ルネの顔が歪んだ。


 怒りだった。


 そこへ、遠くから低い音が響いた。


 門だ。


 外で、突入の合図が鳴った。


 夜明けだった。


   ◇


 大学の外で、盾が動いた。


 公爵家騎士団と治安部隊が、最後の突入を始めた。


 正門、東門、講堂裏。

 三方から、同時に押す。


 講堂の中では、まだ多くの者が眠れていなかった。

 疲れた学生たちが床に座り込み、市民委員会の者が水を配り、腕章の男たちが扉を押さえていた。


 そこへ、突入が来た。


 盾の列が机の壁を押す。

 槍の柄が扉を叩く。

 誰かが悲鳴を上げる。


 最初に崩れたのは、バリケードではなかった。


 声だった。


 マティアスの声がない。

 レオポルトの姿も見えない。


 誰が命令するのか。

 誰が学生をどちらへ逃がすのか。

 誰が残れと言うのか。

 誰が投降しろと言うのか。


 分からない。


 頭を失った群れは、すぐに割れた。


 戦おうとする者。

 逃げようとする者。

 隠れようとする者。

 怪我人を抱える者。

 腕章を外して学生の中へ紛れようとする者。


 そのすべてが、同じ扉へ殺到した。


 講堂奥の扉が開く。


 人の波が旧校舎へ流れ込んだ。


   ◇


 廊下に、叫び声がなだれ込んだ。


 ルネが一瞬だけそちらを見る。


 マルタンは踏み込んだ。


 長剣の腹で、ルネの短剣を弾く。


 ルネの手が開いた。


 短剣が床に落ちる。


 マルタンは柄頭をルネの胸へ突き込もうとした。


 その瞬間、旧校舎の渡り廊下側から、学生と市民が流れ込んできた。


 泣きながら走る学生。

 腕章を外した男。

 血を流した女。

 怒鳴る治安部隊。


 廊下が埋まる。


 ルネの姿が、人の波に飲まれた。


「ルネ!」


 マルタンは叫んだ。


 返事はない。


 ただ、群衆の向こうで、レオポルトの上着が一瞬見えた。


 その肩を、誰かが押している。


 ヴァンサンだった。


 リオンはどうした。


 マルタンはそちらへ行こうとした。


 だが、足元で誰かが倒れた。


 学生だった。


 踏まれかけている。


 マルタンは反射的にその襟を掴み、壁際へ引きずった。


 その一瞬で、レオポルトの姿は消えた。


   ◇


 リオンは教室の床に膝をついた。


 肩で息をしている。


 ヴァンサンの剣は軽かった。

 だが、しつこい。

 斬り結ぶたびに、こちらの足を止め、追跡の時間を削っていく。


 突入の音が響いた時、ヴァンサンは微笑んだ。


「始まりましたね」


「君が逃げる時間もな」


「ええ」


 ヴァンサンは否定しなかった。


 リオンは銀糸で相手の肩を拾う。


 次は右。


 そう読んだ瞬間、ヴァンサンは剣ではなく、机を蹴った。


 倒れた机がリオンの足元を塞ぐ。


 リオンは飛び越えた。


 その間に、ヴァンサンは窓枠へ向かっていた。


「逃がすと思うか」


「逃がしていただきます」


「なぜ」


「あなたは、助けを呼ぶ声を聞くからです」


 教室の外で、悲鳴が上がった。


 リオンは一瞬だけ、そちらへ意識を取られた。


 それで十分だった。


 ヴァンサンは割れた窓から外へ身を滑らせた。


 リオンが追う。


 だが、外の中庭には、すでに人が溢れていた。


 学生、市民、治安部隊。

 誰が誰か分からない。


 ヴァンサンの姿は、人の間に消えた。


   ◇


 大学制圧は、昼前に終わった。


 終わった、ということになった。


 講堂は押さえられた。

 バリケードは解体された。

 マティアス・グリムは捕縛された。

 檄文の束も押収された。


 公爵家側は、首謀者の一人を捕らえたと発表できる。


 だが、レオポルト・ハーンは逃げた。

 ヴァンサン・ルノワールも逃げた。

 ルネ・バローも逃げた。


 負傷者は多かった。


 公爵家騎士団にも、治安部隊にも、学生にも、市民にも。


 誰も、自分たちが悪かったとは言わなかった。


 公爵家側は、大学が革命派の拠点になっていたと言った。

 革命派側は、学生への弾圧だと言った。

 市民は、どちらの言葉を信じるかで争った。


 大学の石畳には、血と泥と紙片が残った。


 マルタンは、割れた窓の下にいた。


 ヘルマンは生きていた。


 中庭の植え込みが、落下の勢いを少し殺していた。

 だが、肩と脇腹を強く打ち、短銃の弾も右肩の下を裂いていた。


 軍医は顔をしかめた。


「生きているのが不思議だ」


 ヘルマンは目を開け、かすれた声で言った。


「不思議なら、ありがたがれ」


「喋るな」


 軍医が怒鳴る。


 マルタンは膝をついた。


「ヘルマンさん」


「捕まえたか」


「マティアスは」


「もう一人は」


 マルタンは答えられなかった。


 ヘルマンは目を閉じた。


「そうか」


「すみません」


「謝るな」


 ヘルマンは短く言った。


「お前の悪い癖だ」


 マルタンは黙った。


 軍医が傷を押さえる。

 ヘルマンの顔が歪む。


「任務には」


 マルタンは言いかけて、やめた。


 だが、ヘルマンは察したらしい。


「出られんか」


 軍医は答えなかった。


 その沈黙が答えだった。


 ヘルマンは、ほんの少し笑った。


「厄介払いには、ちょうどいい」


「何をおっしゃいますか」


「帝都に残れということだろう」


 ヘルマンは天井のない空を見た。


「下町の警邏なら、片腕でも少しはできる」


 マルタンは拳を握った。


「負傷手当は出ます」


 ヘルマンが目だけを動かした。


「今それか」


「今です」


 マルタンは真面目に言った。


「治療費、負傷手当、後方勤務への給与差額。全部、確認します。出ないなら、私は公爵家の帳簿係の前で倒れます」


 ヘルマンは、痛みに顔を歪めたまま、少しだけ笑った。


「お前は本当に、金の話だけは頼りになる」


「ありがとうございます」


「褒めてない」


「分かっております」


 ヘルマンは目を閉じた。


 今度は、眠ったようだった。


   ◇


 灰鷹隊本隊が隊舎へ戻ったのは、その日の夜だった。


 大学制圧に参加していないはずの隊士たちも、疲れ切っていた。


 市場。

 西門。

 倉庫街。

 職人街。

 貴族街外縁。


 治安部隊が大学へ吸われた穴を、灰鷹隊は数日間埋め続けた。


 小さな喧嘩。

 便乗した略奪。

 噂に煽られた群衆。

 大学へ向かおうとする学生の家族。

 公爵家へ石を投げようとする若者。

 革命派ではないが、帝国に怒っている市民。


 どれも戦ではない。


 だが、戦より休めなかった。


 ロビンは泥のついた外套のまま、隊士たちを見て回った。

 リッカは負傷者を手伝い、レイバーは報告書を積み上げ、ローレンスは黙って水を配っていた。


 誰も、大学の中で何があったかを詳しく知らない。


 リオン班が何をしたかも、知らない。


 ただ、街の声だけは聞いていた。


 公爵の犬。


 灰鷹隊が学生を売った。


 夜に人を狩る私兵。


 貴族の猟犬。


 守り手ではなく、鎖付きの犬。


 隊士の一人が、井戸端で水を浴びながら呟いた。


「俺たちは大学になんか入ってねえ」


 誰も答えなかった。


「入ってねえのに、何で俺たちが言われる」


 それにも、誰も答えなかった。


 別の若い隊士が、拳で壁を叩いた。


「市場で婆さんに唾を吐かれた」


「俺は子どもに石を投げられた」


「こっちは三日寝てねえんだぞ」


「公爵の犬だとよ」


「誰のために走ってると思ってんだ」


 声は低かった。


 低いから、危なかった。


 怒鳴っているうちは、まだ外へ出ている。

 低く沈んだ怒りは、内側に溜まる。


 マルタンは、その声を聞いていた。


 ヘルマンは医務室に運ばれた。

 フリッツは壁際で膝を抱えている。

 ユルゲンは報告書を書きながら、何度も筆を止めていた。


 リオンは姿を見せない。


 ロビンが隊士たちに休めと言った。


 だが、休める顔をしている者は少なかった。


 大学制圧は終わった。


 終わったはずだった。


 それなのに、灰鷹隊の中には、何かが残った。


 疲れ。

 怒り。

 疑い。


 自分たちは何を守っているのか。

 誰に犬と呼ばれているのか。

 それでも、明日も同じ街を走るのか。


 その問いは、声にならなかった。


 声にならないものほど、後で裂ける。


 マルタンは、それをまだ知らなかった。


 ただ、隊舎の空気がいつもより重いことだけは分かった。


 灰鷹の旗は、中庭の隅で夜風に揺れていた。


 その布は、いつもより少し暗く見えた。


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