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幕間 ラ・ヴィーニュ村の朝


 ラ・ヴィーニュ村の朝は、鶏の声よりも先に冷える。


 葡萄畑の葉には白い露がつき、石垣の隙間には夜の湿り気が残っている。

 遠くの丘は、まだ薄い青の中に沈んでいた。


 セリーヌ・ルクレールは、戸口の前で桶を持ち替えた。


 水は重い。


 産後しばらくは、近所の老婆が代わりに汲んでくれていた。

 今はもう、自分で行ける。


 そう言い張ったのは、セリーヌ自身だった。


 行ける、というより、行かなければ回らない。


 家には、リュカとミレーヌとエミールがいる。


 そして、マルタンはいない。


 その事実は、朝の水よりも重かった。


 けれど、重いからといって置いておけるものではない。


 セリーヌは桶を台所へ運び、かまどの灰を掻いた。

 小さな火を起こす。

 昨日の豆の煮込みに水を足す。

 硬くなった黒パンを薄く切り、湯気で少し柔らかくする。


 贅沢ではない。


 だが、食べられる。


 それは、マルタンが送ってくる金のおかげだった。


 セリーヌは棚の奥にある小さな布袋を見た。

 アルマンの商会を通じて届いた銀貨が、まだ少し残っている。


 多いとは言えない。

 だが、ないのとは違う。


 粉が買える。

 塩が買える。

 エミールのための布も買えた。


 剣で稼いだ金だ。


 そう思うたび、セリーヌの胸には二つのものが同時に来る。


 ありがたさ。


 そして、腹立たしさ。


 マルタンは家族のために行った。


 それは分かっている。


 だが、家族のために行った男が家にいないという事実は、時々、とても理不尽だった。


「母さん」


 寝台の方から声がした。


 リュカだった。


 髪が跳ねている。

 父親に似て、寝起きは少し困った犬のような顔になる。


「おはよう。顔を洗っておいで」


「寒い…冷たい…」


「水はいつも冷たいわ」


「父さんなら、冷たくないって言う」


「お父さんは、そういう時だけ我慢強い顔をするの」


 リュカは少し笑った。


 それから、壁に掛けてある木剣を見た。


 子ども用の、軽い木剣だった。

 マルタンが村を出る前に、余った木で削ったものだ。


「今日も振っていい?」


「朝ご飯の後」


「畑の前?」


「鶏に餌をやった後」


「じゃあ、少しだけ」


「少しだけ、の少しを守れたことがある?」


 リュカは黙った。


 セリーヌは笑った。


「鶏の後。十回だけ」


「二十回」


「十回」


「父さんなら百回って言う」


「お母さんは十回と言います」


 リュカは不満そうに頬を膨らませた。


 その顔も、どこかマルタンに似ている。


 困ったものだ、とセリーヌは思った。


 似ているところばかり見つけてしまう。


   ◇


 ミレーヌは、エミールが泣く前に起きた。


 小さな妹ではない。

 もう姉である。


 そう自分で決めている顔だった。


「母さん、エミール起きるよ」


「ありがとう。布を取って」


「これ?」


「そう。少し温めて」


 ミレーヌはかまどの近くで布を広げた。


 手つきはまだ危なっかしい。

 だが、見て覚えるのが早い。


 エミールは小さな寝台の中で、口をへの字に曲げていた。


 泣く一歩手前。


 セリーヌが抱き上げると、すぐに声を上げた。


「よしよし。起きたのね」


「お腹?」


「たぶんね」


「父さんに似てる」


 ミレーヌが言った。


「どこが?」


「お腹がすくと、困った顔するところ」


 リュカが水桶の横から口を挟んだ。


「父さんは困った顔ばっかりだ」


「リュカ」


「でも、母さんもそう言ってた」


「私は言っていません」


「顔で言ってた」


 セリーヌは返す言葉に困った。


 ミレーヌがくすくす笑う。


 エミールは泣く。


 台所に、朝の音が戻ってくる。


 火の音。

 赤子の声。

 子どもの足音。

 匙が椀に当たる音。


 マルタンの声だけがない。


 それでも、朝は進む。


 セリーヌはエミールを抱きながら、リュカに椀を渡した。


「ゆっくり食べて。今日は畑の手伝いもあるわ」


「剣の稽古は」


「父さんはいません」


 言ってから、少し強すぎたと思った。


 リュカの顔が曇る。


 セリーヌは息を吐き、言い直した。


「お父さんはいないけれど、教えてくれたことは残っています。だから、十回だけ」


「……二十回」


「十回」


「十五」


 ミレーヌが真面目な顔で言った。


「間を取るなら十五だよ」


 セリーヌは娘を見た。


「誰に似たのかしら」


「伯父さん」


 リュカが言った。


「アルマン伯父さんなら、絶対そう言う」


 セリーヌは、今度は笑った。


「そうね。では十五回」


 リュカは勝った顔をした。


 ミレーヌも少し誇らしそうだった。


 エミールだけが、何も知らずに泣いている。


   ◇


 昼前、アルマンの使いが村へ来た。


 馬ではなく、荷車だった。

 葡萄酒の空樽と、布と、少しの塩を積んでいる。


 村の者たちは、荷車を見るとすぐに分かる。


 アルマン商会の車だ。


 セリーヌはエミールを背負い、戸口へ出た。


 使いの若者は帽子を取った。


「奥様。リュシアン経由の便です」


「ありがとう」


 若者は小さな包みと封書を差し出した。


 封書はアルマンの字だった。


 マルタンの字ではない。


 それだけで、セリーヌは少し息を整える必要があった。


 マルタンの手紙は、いつも遅れる。


 仕事柄、仕方がない。

 国交のない国から届く手紙が、まっすぐ来るはずもない。


 分かっている。


 分かっていることと、寂しくないことは別だった。


 若者が声を落とした。


「旦那様からではありませんが、旦那様の送金分は入っています」


「分かりました」


「アルマン様から、無理はするなと」


「兄はいつもそれね」


「あと、何かあればすぐ知らせろと」


「それも、いつも」


 セリーヌは包みを受け取った。


 軽い。


 けれど、家を数週間支える重さがある。


 リュカとミレーヌが戸口から覗いていた。


「父さんから?」


 リュカが聞いた。


 セリーヌは一瞬だけ迷った。


 嘘はつきたくない。


「お父さんからのお金は届いたわ。手紙は、今日は伯父さんから」


 リュカの顔に、少しだけ落胆が出た。


 ミレーヌは何も言わなかった。


 その沈黙の方が、セリーヌには痛かった。


「お父さんは忙しいの?」


 ミレーヌが聞いた。


「ええ」


「剣のお仕事?」


「たぶんね」


「危ない?」


 リュカが言った。


 セリーヌは、すぐには答えなかった。


 危なくない、と言えば嘘になる。

 危ない、と言えば子どもたちの夜が眠れなくなる。


「お父さんは、危ないことを避けるのが上手よ」


 リュカは眉を寄せた。


「本当?」


「本当」


 セリーヌは、できるだけ穏やかに言った。


「それに、お父さんは謝るのも上手でしょう。きっと、危ないことにも謝りながら避けているわ」


 リュカが笑った。


 ミレーヌも笑った。


 セリーヌも笑った。


 笑えた。


 それで十分だった。


   ◇


 午後、セリーヌは畑の端で働いた。


 葡萄の枝を見て、傷んだものを切る。

 リュカは籠を持って後ろを歩く。

 ミレーヌはエミールの揺り籠を木陰に置き、時々あやした。


 村の女たちが、少し離れたところで働いている。


 誰も露骨には言わない。


 だが、視線はある。


 旧騎士剣術の師範の妻。

 市民派商家から駆け落ちした娘。

 夫は帝国へ行った。

 金は届く。

 男は戻らない。


 そういう視線だ。


 セリーヌは気づかないふりをした。


 気づかないふりは、暮らしの知恵である。


 昼過ぎ、隣の畑の老婆が近づいてきた。


「セリーヌ」


「はい」


「枝の結びが甘いよ。風で倒れる」


「すみません」


「謝るところまで旦那に似なくていい」


 老婆はそう言って、手早く枝を結び直した。


 セリーヌは少し笑った。


「ありがとうございます」


「礼もいい。あんたは子どもを見てな」


「見ています」


「見てない。顔が遠くへ行ってる」


 セリーヌは手を止めた。


 老婆は枝を結びながら続けた。


「男を待つ顔だ」


「……待っていません」


「嘘が下手だね」


 老婆は笑わなかった。


「待つのも女の仕事だよ。ただし、待つだけじゃ腹は膨れない。だから手も動かす。あんたはそれをやってる」


 セリーヌは、何も言えなかった。


「偉いとは言わないよ。やらなきゃならないだけだからね」


「はい」


「でも、やってる。それは確かだ」


 老婆は結び終えた枝を軽く叩いた。


「夕方、余った蕪を持っていきな」


「いただけません」


「余りだよ」


「でも」


「旦那が帰ったら、礼を言わせな」


 その言葉に、セリーヌは少しだけ目を伏せた。


「帰ったら」


「帰るよ」


 老婆は当たり前のように言った。


「帰る場所がある男は、迷っても足が向く」


 セリーヌは、遠くの道を見た。


 その道を、マルタンが夜に出て行った。


 あの時、止めればよかったのか。

 止めても行ったのか。

 行かせたから今、食べられているのか。

 行かせたから今、いないのか。


 答えは出ない。


 答えの出ないことを考えながらでも、枝は結ばなければならない。


 セリーヌは再び手を動かした。


   ◇


 夕方、リュカは木剣を十五回振った。


 本当は十七回振った。


 セリーヌは見ていたが、数え間違えたふりをした。


 ミレーヌはエミールに向かって言った。


「兄さんは、ずるい」


 エミールは手をばたばたさせた。


「そう思うよね」


「思ってないわ」


 セリーヌが言うと、ミレーヌは真面目に首を振った。


「エミールは分かってる」


「何を?」


「父さんが帰ってきたら、兄さんが二回多く振ったって言いつける」


 リュカが木剣を止めた。


「言うなよ」


「言う」


「父さんは怒らない」


「母さんは怒る」


「母さんはもう知ってる」


 セリーヌは咳払いをした。


 リュカは固まった。


「知ってた?」


「数えられない母親だと思った?」


「……少し」


「夕食のパンを少し減らします」


「母さん!」


 ミレーヌが笑った。


 セリーヌも笑った。


 エミールも、笑ったような声を出した。


 家の中に、笑い声があった。


 マルタンはいない。


 それでも、笑い声はあった。


 それは、薄情だからではない。


 生きているからだ。


 夜になり、子どもたちを寝かせた後、セリーヌは戸口に座った。


 アルマンからの手紙を開く。


 商会の近況。

 物価の話。

 帝国との境がさらに厳しくなっていること。

 送金の道を変えるかもしれないこと。


 そして、最後に短く書かれていた。


 マルタンからの便は遅れている。だが、前回の送金は確かに届いた。あいつはまだ働いている。無理はするな。


 セリーヌは、その一文を何度も読んだ。


 まだ働いている。


 生きている、とは書かれていない。


 だが、働いているなら、生きている。


 そう読むことにした。


 セリーヌは手紙を畳み、棚の奥へしまった。


 それから、古い木箱を開けた。


 中には、マルタンが村を出る前に使っていた革手袋が入っている。

 もう片方は、彼が持って行った。


 なぜ片方だけ残したのか、セリーヌは聞かなかった。


 聞けば、マルタンは困った顔で謝っただろう。


 彼女は手袋を手に取り、少しだけ握った。


「今日は、エミールがよく泣きました」


 誰にともなく言った。


「リュカは木剣を二回ごまかしました。ミレーヌはそれを見つけました。私は蕪をいただきました」


 夜の村は静かだった。


「あなたがいなくても、家は回っています」


 セリーヌは小さく息を吸った。


「でも、いなくていいわけではありません」


 手袋を箱へ戻す。


 蓋を閉める。


 明日も朝は来る。


 水を汲み、火を起こし、子どもを起こし、畑へ行く。


 手紙が来ない日もある。

 金が遅れる日もある。

 噂が嫌な形で届く日もあるかもしれない。


 それでも、家は開けておく。


 帰る場所は、閉じてはいけない。


 セリーヌは立ち上がり、戸口の掛け金を下ろした。


 その前に、一度だけ外の道を見た。


 誰もいない。


 それでいい。


 今夜ではないだけだ。


「おやすみなさい、マルタン」


 声は、夜に吸われた。


 ラ・ヴィーニュ村の上には、静かな星が出ていた。


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