第35話 消えた灰鷹
大学制圧の後、帝都は静かにならなかった。
門の前で石を投げる者はいなくなった。
講堂に赤い布を掲げる者もいなくなった。
大学の中庭から、歌は消えた。
だが、声は街に移った。
市場の隅で。
井戸端で。
職人街の路地で。
酒場の卓で。
公爵の犬。
学生を売った灰鷹。
夜に人を狩る私兵。
貴族の鎖につながれた猟犬。
そういう言葉は、石より遠くへ飛んだ。
石なら盾で受けられる。
言葉は、耳に入る。
灰鷹隊士たちは、それを聞きながら街を歩いた。
大学制圧の主力ではなかった。
門を破ったのは公爵家騎士団と治安部隊だった。
講堂へ押し入ったのも、彼らだった。
だが、街の者にとっては同じだった。
公爵家に従う者。
剣を持つ者。
制服を着る者。
それらはまとめて、灰鷹と呼ばれた。
◇
マルタン・ルクレールは、その日も市場南側を歩いていた。
大学制圧から数日が経っている。
治安部隊はまだ通常配置へ完全には戻っていない。
負傷者の補充、大学の後処理、捕縛者の護送、押収物の整理。
穴はまだ残っている。
灰鷹隊は、その穴を埋め続けていた。
マルタンの外套は乾いていたが、靴の縫い目にはまだ大学の泥が残っている。
補填の申請は出した。
返事はまだない。
そのことを考えかけて、やめた。
今は、金のことを考えると少し楽になる。
楽になる自分が、少し嫌だった。
「灰鷹だ」
露店の裏から声がした。
若い男の声だった。
「犬が来たぞ」
フリッツが肩を強ばらせる。
マルタンは、そちらを見ないようにした。
「歩幅を変えないでください」
小声で言う。
「ですが」
「止まると、言葉が増えます」
フリッツは唇を噛んだ。
別の声が飛ぶ。
「学生殴って出世か!」
「違う」
フリッツが言いかける。
マルタンは袖を掴んだ。
「違っても、今は違うと言わない方がよろしい」
「なぜですか」
「相手は、答えが欲しいのではありません」
フリッツは悔しそうに黙った。
マルタンにも、その悔しさは分かった。
大学の中で、フリッツは学生を助けた。
逃げ遅れた者を通し、負傷者を担ぎ、マティアスを捕らえる時も震えながら前へ出た。
それでも、街の声は知らない。
知らないものは、簡単に人を犬と呼ぶ。
◇
最初に姿を消したのは、ニコラウス・ヴェーバーだった。
若い隊士である。
大学制圧の間は西門近くの警備に回っていた。
市場の騒ぎを止め、学生の家族を大学へ近づけないよう押し返していた。
その時、母親らしき女に頬を打たれたらしい。
お前たちが息子を殺すのか、と。
彼は何も言い返さなかった。
その翌々日、点呼に出なかった。
最初は寝坊だと思われた。
次に、酒場で潰れているのではないかと言われた。
宿舎の寝台は空だった。
外套はない。
剣もない。
荷物の半分だけが残っていた。
次に消えたのは、エルンスト・バウアーだった。
真面目な男だった。
返事が大きく、靴をよく磨き、命令を二度聞き返さない。
大学制圧後、彼はよく黙るようになっていた。
井戸端で誰かに「公爵の犬」と言われた時、彼は笑っていたという。
笑って、それから何も言わなくなった。
三日後、彼も消えた。
最後に、カスパル・ミュラー。
こちらは、消えたと聞いても驚く者は少なかった。
損得に敏い男だった。
危ない勤務を嫌がり、楽な配置を探し、給金の遅れには誰より早く気づく。
だが、それでも隊務はこなしていた。
大学制圧後は、何度も言っていた。
残っても犬、辞めても裏切り者なら、どちらが得か分からない、と。
それを冗談だと思っていた者もいた。
冗談ではなかった。
◇
隊舎の空気は、悪くなった。
三人だけではない。
無断で外泊した者。
勤務中に口答えした者。
酒場で市民と殴り合いになった者。
報告書を出さずに寝込んだ者。
すべてが、同じ根から伸びているように見えた。
疲れ。
怒り。
疑い。
灰鷹隊は勝っているはずだった。
大学制圧は終わった。
マティアス・グリムは捕らえられた。
檄文は押収された。
公爵家要人襲撃も防いだ。
それなのに、隊士たちは少しずつ削れていた。
ロビンは点呼のたびに、消えた者の名を聞いた。
リッカは黙って隊士の顔色を見ていた。
レイバーは名簿と勤務記録を照らし合わせた。
ローレンスは、酒場で揉めた若い隊士の肩を叩き、何も言わずに水を渡した。
誰も、簡単に脱走者と呼ばなかった。
呼べば、戻れなくなるからだ。
◇
クラウスからの密報が届いたのは、雨の夜だった。
酒場ではない。
ミレーヌの酒場を使うには、少し目が多くなりすぎていた。
大学制圧後、革命派も公爵家側も、酒場をよく見るようになっている。
密報は、古い革紐に結ばれた紙片として届いた。
受け取ったのはユルゲンだった。
届けたのは、顔見知りの荷運びではない。
雨具を深く被った子どもだったという。
子どもは、駄賃だけ受け取って逃げた。
紙片はすぐにリオンへ渡された。
リオンは読んだ。
顔色を変えなかった。
だが、紙を持つ指だけが、ほんの少し動いた。
「マルタン」
「はい」
「ロビンを呼べ。レイバーもだ」
「重大なものですか」
「重大だ」
リオンは紙を折った。
「消えた三人は、革命派へ接触している」
マルタンは息を止めた。
ニコラウス。
エルンスト。
カスパル。
名前が、胸の中で順に鳴った。
◇
奥の会議室に、灰鷹隊の主だった者が集められた。
ロビン。
リッカ。
レイバー。
ローレンス。
リオン。
マルタン。
机の上に紙片が置かれている。
レイバーはそれを読み、眼鏡を外した。
「三名とも、革命派の連絡役と接触。まだ完全に受け入れられたわけではない。向こうも疑っている」
ロビンの顔は硬かった。
「間違いないのか」
リオンが答える。
「クラウスの報告だ」
「クラウスは今、どの位置にいる」
「深い」
「危険か」
「常に」
ロビンは拳を握った。
机の上に置かれた拳は、震えてはいなかった。
「戻せるか」
誰のことかは、全員分かった。
消えた三人。
レイバーは少しだけ黙った。
「可能性はあります。向こうに完全に入る前なら」
リオンは何も言わない。
ローレンスが低く言った。
「だが、こちらが動けば、革命派の中にいるクラウスも危ない」
「そうだ」
リオンが言った。
「こちらが焦れば、クラウスも、三人も、まとめて消える」
リッカが口を開いた。
「でも、放っておけば本当に向こうへ行く」
「もう半分行っている」
リオンの声は冷たかった。
ロビンが彼を見る。
「決めつけるな」
「決めつけてはいない。可能性を見ている」
「なら、戻る可能性も見ろ」
部屋の空気が硬くなった。
マルタンは、二人の間で視線を下げた。
ロビンは隊を信じたい。
リオンは、信じたいという気持ちが敵に使われることを知っている。
どちらも間違っていない。
だから、嫌だった。
レイバーが静かに言った。
「証拠を待ちましょう」
「レイバー」
リオンが短く言った。
「今動けば、こちらの手も、クラウスの位置も割れます。消えた三名がどこまで踏み込んでいるか、誰と接触しているか、もう少し見たい」
「その間に、何か起きたら」
「備えはします」
レイバーは紙片を指で押さえた。
「しかし、今すぐ斬る判断は早い」
リオンは黙った。
ロビンは息を吐いた。
「分かった。様子を見る。ただし、三人の家、行きつけの酒場、古い知人は洗う。表立って追うな。騒ぎにするな」
「承知」
リオンは答えた。
その声は、従っている声だった。
だが、マルタンには分かった。
納得していない。
◇
会議の後、リオンは廊下で足を止めた。
マルタンも止まる。
「アルトベルク様」
「甘い」
リオンは短く言った。
「ロビン様が、ですか」
「全員だ。僕も含めてな」
意外な言葉だった。
マルタンは少しだけ目を上げた。
「僕らはまだ、戻れる者がいると思っている」
「実際、いるのではありませんか」
「いる」
リオンは否定しなかった。
「だから厄介だ」
廊下の窓に、雨が当たっている。
「戻れる者と、戻れない者は、外からは同じ顔をしている」
マルタンは何も言えなかった。
クレールの言葉を思い出した。
奥さんと子どもに、帰るって言いなさい。
戻れる者。
戻れない者。
その境目は、どこにあるのだろう。
◇
追加の密報は、その二日後に届いた。
今度は、定例の経路ではなかった。
紙片は、ミレーヌの酒場へ届いた。
しかも、閉店間際だった。
ミレーヌは紙包みを受け取った時、相手の手が震えていることに気づいたという。
相手はクラウス本人ではない。
だが、クラウスが急いで出したものだと、リオンはすぐに分かった。
紙片には、短く書かれていた。
灰鷹出身者、信用されず。
疑いはこちらにも向く。
禊ぎを求められる。
標的、レイバー。
最後の一行は、さらに短かった。
時間がない。
リオンは紙を握り潰さなかった。
丁寧に折った。
その丁寧さが、かえって怖かった。
「マルタン」
「はい」
「今度は、様子を見る時間はない」
マルタンは、返事をした。
「はい」
雨は、まだ降っていた。
大学の石畳に残った血を洗った雨が、今度は灰鷹隊の屋根を叩いていた。




