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第36話 禊ぎ


 灰鷹隊の外套を脱いでも、匂いは残る。


 クラウス・ベックは、そう思った。


 革帯の跡。

 剣を吊っていた腰の重さ。

 点呼の時に自然と背筋が伸びる癖。

 人の出入りを見る時、まず退路を数える目。


 そういうものは、外套を脱いだくらいでは消えない。


 だから、革命派は灰鷹出身者を信じなかった。


 正しい。


 信じない方がいい。


 クラウス自身が、その証拠だった。


 帝都東区の古い倉庫には、灯りが三つだけあった。


 壁際に、灰鷹隊を抜けた三人が座っている。


 ニコラウス・ヴェーバー。

 若い。

 膝の上で拳を握ったり開いたりしている。


 エルンスト・バウアー。

 背筋が伸びている。

 隊舎の中にいる時と同じ座り方だった。


 カスパル・ミュラー。

 落ち着かない目で、出入口と窓と机の上の酒瓶を順に見ている。


 三人とも、灰鷹隊の外套は着ていない。


 だが、灰鷹隊士だった。


 そのことを、この部屋の全員が見ていた。


 ルネ・バローは、腕を組んで三人の前に立っていた。


 若い共和国人の顔は、大学制圧の夜よりさらに硬くなっている。

 肩に巻かれた包帯の下には、まだ傷があるはずだった。


「あなたたちは、灰鷹隊を抜けたと言う」


 ルネは言った。


「はい」


 エルンストが答えた。


「公爵家の犬ではない、と」


「違います」


「では、何ですか」


 エルンストは答えに詰まった。


 ニコラウスが代わりに言った。


「俺たちは、もうあの旗の下には戻らない」


「戻らないことと、こちらに立つことは違う」


 ルネの声は冷たい。


 カスパルが口を開いた。


「情報は渡した」


「古い巡回路と酒場の名ですね」


「役に立つ」


「立つでしょう」


 ルネは頷いた。


「ですが、灰鷹隊を裏切った証にはならない」


「何をすればいい」


 カスパルの声に苛立ちが混じる。


「本当に灰鷹隊を捨てたと、どうすれば信じる」


 その問いに、部屋の隅で座っていたヴァンサン・ルノワールが顔を上げた。


 柔らかい笑みだった。


 柔らかい笑みほど、クラウスには嫌だった。


「禊ぎが必要でしょう」


 ヴァンサンが言った。


 ニコラウスが眉を寄せる。


「禊ぎ?」


「言葉は水で流せます。ですが、血でしか流せない疑いもある」


 部屋が静かになった。


 クラウスは壁際にいた。


 クラドスとして。


 元灰鷹隊士として。


 革命派へ身を寄せた者として。


 この部屋の中で、誰よりも疑われている者として。


 ヴァンサンの視線が、こちらへ来る。


「クラドス」


「はい」


「君は、灰鷹隊の内側を知っている」


「少しは」


「少しではないでしょう」


 ヴァンサンの笑みは変わらない。


「灰鷹隊の頭脳は誰です」


 クラウスは答えなかった。


 答えなくても、この部屋にいる者の多くは知っている。


 レイバー。


 作戦を読み、書類を読み、人の癖を読み、灰鷹隊の粗野な勢いを形にする男。


 ロビンの槍を、隊として動かすための頭。


「レイバーです」


 ルネが先に言った。


 その声には憎しみがあった。


 大学の夜、逃亡を阻まれた怒り。

 ブルーノを失った怒り。

 灰鷹隊に何度も先を読まれた怒り。


 そのすべてが、レイバーという名に向いている。


「レイバーを殺せば、灰鷹隊は鈍る」


 ルネが続けた。


「ロビン・バーゼルは強い。リッカも、ローレンスも。だが、彼らを結び、先を読むのはレイバーです」


「暗殺か」


 エルンストが低く言った。


 声に、ほんの少し迷いがあった。


 ルネはそれを見逃さない。


「灰鷹隊を捨てたのでしょう」


「捨てた」


「なら、なぜ迷うのです」


「迷っていない」


 エルンストは言った。


 嘘だった。


 クラウスには分かった。


 隊士の嘘は、隊士には分かる。


 カスパルが肩をすくめた。


「殺せるなら、殺した方がいい。頭を潰せば、あの連中はしばらく混乱する」


 ニコラウスは黙っていた。


 ルネがクラウスを見る。


「クラドス。あなたがやるべきです」


 来た。


 クラウスは表情を変えなかった。


「私が?」


「あなたは元灰鷹隊士です。レイバーの動き、警備、癖を知っている」


「離れてから日が経っています」


「それでも、この中では一番近い」


 ヴァンサンが穏やかに言った。


「それに、君自身の疑いも晴れる」


 疑い。


 はっきりと言った。


 部屋の空気が、クラウスの方へ傾く。


 灰鷹脱走者たちも、クラウスを見る。


 彼らは、自分たちが疑われていると思っている。

 だが、クラウスもまた疑われていると知って、少しだけ安心した顔をした。


 人は、自分だけが疑われているより、隣も疑われている方が耐えられる。


「分かりました」


 クラウスは言った。


 言うしかなかった。


「ただし、私だけではレイバーに近づけない」


「では、誰を使う」


 ルネが問う。


 クラウスは、少しだけ間を置いた。


 長すぎてもいけない。

 短すぎても、用意していたように見える。


「マルタン・ルクレール」


 その名を出した瞬間、エルンストが眉を寄せた。


「長剣の外国人か」


「そうです」


「灰鷹隊にいるだろう」


「います」


「なら駄目だ」


 ニコラウスが言った。


 カスパルは少し考える顔をした。


「いや」


 彼は言った。


「あいつなら、金で動くかもしれない」


 クラウスはカスパルを見た。


 カスパルは続ける。


「外国人だ。共和国人だろう。灰鷹隊の生え抜きでもない。いつも手当だの補填だの言ってる。家族に送金してるって話も聞いた」


 エルンストが鼻を鳴らす。


「金でレイバーを売るか」


「分からん。だが、試す価値はある」


 カスパルはクラウスへ目を向けた。


「お前、あいつと話せるのか」


「話せます」


 クラウスは答えた。


「なら、使え」


 ルネが言った。


「ただし、失敗すれば、あなたも同じです」


「同じ、とは」


「灰鷹隊に戻れない者として扱う」


 クラウスは小さく笑った。


「もう戻れませんよ」


「戻る気がなければ、問題ありませんね」


 ルネは笑わなかった。


 ヴァンサンだけが、柔らかく微笑んでいた。


「では、クラドス。君がまとめなさい」


 クラウスは頷いた。


 その瞬間、首に縄がかかった感覚がした。


   ◇


 密報を送る機会は、ほとんどなかった。


 クラウスは会合の後、すぐには動かなかった。


 動けば見られる。

 見られれば疑われる。


 すでに疑われている。


 それでも、知らせなければならない。


 標的はレイバー。


 灰鷹隊の頭脳。


 これを知らせずに定例の報告を待てば、間に合わない。


 クラウスは、雨の中を歩いた。


 革命派の連絡所から離れすぎず、近すぎず。

 酔った荷運びのふりをして、屋根の下で休み、露店の布を直す老人にぶつかり、謝り、路地を曲がった。


 紙は小さい。


 書くことも、短い。


 灰鷹出身者、信用されず。

 疑いはこちらにも向く。

 禊ぎを求められる。

 標的、レイバー。


 最後に、迷って一行足した。


 時間がない。


 届ける相手は、ミレーヌの酒場に近い小間使いの子どもだった。


 子どもは事情を知らない。

 知らない方がいい。


 クラウスは小銭を握らせた。


「この革紐を、半地下の酒場の娘に渡せ。何を聞かれても、拾ったと言え」


 子どもは頷いた。


「走るな」


 クラウスは言った。


「走ると見られる。歩け。急がず、でも寄り道はするな」


 子どもは少し怯えた顔をした。


 クラウスは、言い方を間違えたと思った。


「仕事だ」


 そう言い直す。


「終わったら、甘い焼き菓子でも買え」


 子どもは小銭を握り、雨の中へ消えた。


 クラウスはしばらくその背を見送った。


 見送りすぎてはいけない。


 彼はすぐに背を向けた。


 その時、路地の向こうに人影があった。


 誰かがいた。


 こちらを見ていたのか。

 たまたま立っていただけか。


 分からない。


 クラウスは足を止めなかった。


 止めれば、疑いを形にする。


 歩く。


 クラドスの歩き方で。


 灰鷹隊士ではなく、革命派に拾われた元隊士の歩き方で。


 それがどんな歩き方なのか、もう自分でも分からなかった。


   ◇


 返答は、夜が深くなってから来た。


 ミレーヌの酒場を直接使わなかった。


 リオンは、別の道を使った。


 古いパン屋の裏口に置かれた空籠。

 その底板の隙間に、紙片が挟まれていた。


 クラウスはそれを見つけ、何もなかったように籠を持ち上げた。


 路地を二つ曲がってから、紙を開く。


 短かった。


 マルタンを使え。


 それだけだった。


 クラウスは、しばらく紙を見た。


 笑いそうになった。


 リオンらしい。


 説明がない。

 慰めもない。

 できるか、とは聞かない。


 ただ、必要な駒を置く。


 クラウスは紙を噛み、飲み込んだ。


 味はしなかった。


 紙の味など、もう何度も知っている。


「マルタンを使え、か」


 小さく呟いた。


 マルタン・ルクレール。


 腰が低く、金に細かく、妻子持ちで、共和国出身で、長剣を持つ男。


 外から見れば、金で動く外国人。


 内側を知れば、そう簡単ではない男。


 だが、内側を知る者は少ない。


 それを利用する。


 クラウスは目を閉じた。


 マルタンがこの策をどう受けるかは分からない。


 分からないまま、使わなければならない。


 クラウスは歩き出した。


 雨は上がりかけていた。


 石畳に残った水が、街灯の明かりを細く映している。


 その細い光の上を、彼は踏まないように歩いた。


   ◇


 翌日、クラウスは灰鷹脱走者たちに言った。


「マルタン・ルクレールに接触する」


 カスパルが笑った。


「金は?」


「用意する」


「いくらだ」


「まずは少額でいい。大きすぎると疑われる」


 エルンストが腕を組んだ。


「本当に動くのか」


「動くかどうかを試す」


 ニコラウスが不安そうに言った。


「裏切られたら」


 クラウスは彼を見た。


「その時は、こちらが先に殺す」


 自分で言って、喉の奥が冷えた。


 カスパルは満足そうに頷いた。


「いいね。分かりやすい」


 エルンストはまだ疑っていた。


 ニコラウスは黙った。


 クラウスは、三人の顔を順に見た。


 彼らは灰鷹隊士だった。


 今も、どこかにその名残がある。


 座り方。

 返事の仕方。

 扉を見る目。


 それを革命派は嫌う。


 そして、それをリオンは見逃さない。


 クラウスは思った。


 この計画は、もう戻れないところまで来ている。


 誰が戻れないのか。


 三人か。

 自分か。

 マルタンか。


 それとも、灰鷹隊そのものか。


 答えはまだなかった。


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