第37話 外国人の剣士
カスパル・ミュラーは、マルタン・ルクレールという男を信用していなかった。
信用はしていない。
だが、使えるとは思っていた。
灰鷹隊の隊舎で何度か見たことがある。
腰が低い。
いつも敬語。
外様。
共和国人。
金の話になると、妙に声がはっきりする。
危険手当。
靴の補填。
外套の修繕費。
報酬。
送金。
そういう言葉を、恥ずかしげもなく口にする男だった。
カスパルは、そういう男が嫌いではない。
綺麗事を言う者より、金の話をする者の方が分かりやすい。
分かりやすい者は、値段がつく。
値段がつく者は、動かせる。
「本当に来るのか」
エルンスト・バウアーが言った。
古い倉庫の裏口近くである。
雨は上がっていたが、石畳はまだ湿っていた。
ニコラウス・ヴェーバーは落ち着かない顔で、路地の先を見ている。
クラドスは壁際に立っていた。
元灰鷹隊士。
今はこちら側にいる男。
カスパルは、クラドスも信用していない。
ただ、今は信用しない者同士で手を組むしかない。
「来る」
クラドスは言った。
「金を見せたのか」
カスパルが聞く。
「少しだけ」
「少しで動くのか」
「大金を見せると、かえって疑う」
エルンストが鼻を鳴らした。
「犬に餌をやるみたいだな」
「犬ではない」
クラドスが言った。
その声に、少しだけ硬さがあった。
カスパルは目を細める。
「かばうのか」
「使うなら、相手を見誤るなと言っている」
「外国人だろう」
エルンストが言った。
「共和国人だ。帝国のために死ぬ義理はない」
「灰鷹隊にいる」
「金のためにだ」
カスパルは笑った。
「妻子へ送金しているんだろう。そういう男は、綺麗事より金だ」
ニコラウスが小さく言った。
「でも、レイバーを売るか」
「売るさ」
カスパルは答えた。
「値が合えばな」
その時、路地の奥から足音がした。
急いでいない。
隠れてもいない。
マルタン・ルクレールが現れた。
灰鷹隊の外套ではない。
古い外套を着て、長剣は布で包んでいる。
いつものように、少し背を丸めていた。
「こんばんは」
マルタンは丁寧に頭を下げた。
「遅かったな」
カスパルが言った。
「申し訳ございません。道を二度変えました」
「用心深い」
「小心者でございますので」
エルンストは腕を組んだまま、マルタンを睨んでいた。
「本当に来たのか」
「はい」
「灰鷹隊を売る気で?」
マルタンは、少し困った顔をした。
「売る、という言い方は物騒ですね」
「違うのか」
「情報には値段がある、というだけでございます」
カスパルは笑った。
思った通りだ。
この男は、綺麗事を言わない。
「では、値段の話をしよう」
「はい」
「補給部隊の動き。警備交代。レイバーの帰路。まずは小さいところからだ」
「小さいところから、というのは賢明です」
「いくらだ」
マルタンはすぐには答えなかった。
指で外套の袖を整える。
「危険の大きさによります」
「本当に金の話ばかりだな」
エルンストが吐き捨てた。
マルタンは頭を下げた。
「妻子がおりますので」
その言葉に、ニコラウスが少しだけ目を上げた。
カスパルは頷いた。
妻子。
使える。
守るものがある男は、金に弱い。
◇
最初の仕事は、小さかった。
翌日の夕方、補給用の荷馬車が通る道が変わった。
大学制圧後、灰鷹隊は倉庫街と市場を頻繁に巡回している。
その隙間を縫って、治安部隊へ食糧や包帯を運ぶ荷馬車が通る。
マルタンは、そのうち一つの通行時間を教えた。
荷馬車は襲われなかった。
ただ、革命派の若者が遠くから数を数えた。
馬の数。
護衛の数。
積み荷の種類。
それだけだった。
だが、それだけで十分だった。
情報は正しかった。
二つ目の仕事は、警備交代の時間だった。
西門近くの巡回が、雨のために一刻ずれる。
マルタンはそれを伝えた。
その夜、壁に檄文が貼られた。
灰鷹隊が駆けつけた時には、貼った者は消えていた。
大きな被害はない。
だが、また一つ、情報は正しかった。
エルンストはまだ疑っていた。
ニコラウスも不安そうだった。
カスパルは、少しずつ笑うようになった。
「あの外国人、使えるな」
彼は言った。
「金で動く奴は裏切らない。金が途切れない限りは」
クラドスは答えなかった。
カスパルは、その沈黙を別の意味に取った。
クラドスも、ようやく少し安心したのだろう、と。
◇
決起集会は、帝都郊外の古水車亭で開かれた。
古い水車は、もう動いていない。
かつて粉挽き場だった建物を、今は料理宿として使っている。
街道沿いから少し外れているため、旅商人、御者、荷馬車の中継役が使う。
奥には個室があり、声が外へ漏れにくい。
密談には向いていた。
表では薄い葡萄酒と豆の煮込みが出る。
奥では、灰鷹隊を抜けた者たちが集まっていた。
エルンスト。
カスパル。
ニコラウス。
ほか二人。
クラドス。
革命派の連絡役が一人。
そして、マルタン・ルクレール。
マルタンは端の席に座っていた。
姿勢は低い。
杯には薄い葡萄酒が注がれている。
カスパルは杯を上げた。
「公爵の犬に戻らない者たちへ」
何人かが笑った。
エルンストは笑わなかった。
だが、杯は上げた。
ニコラウスは少し遅れて上げた。
クラドスは形だけ杯を持つ。
マルタンも、静かに杯を上げた。
「灰鷹隊は終わる」
革命派の連絡役が言った。
「大学で学生を押し潰し、市民を縛り、なお守り手の顔をしている。そんな隊に未来はない」
「未来がないのは前からだ」
カスパルが言った。
「給金は遅い。危険手当は少ない。罵られるのはこちら。上は公爵家の顔色を見る」
「お前はいつも金だな」
エルンストが言った。
「金は嘘をつかん」
カスパルは笑う。
「なあ、ルクレールさん」
マルタンは杯を置いた。
「おっしゃる通り、お金は大切でございます」
「ほらな」
カスパルが笑った。
マルタンは続けた。
「ただ、嘘をつかないかどうかは、扱う者次第でございます」
「難しいことを言う」
「すみません」
場に小さな笑いが起きた。
革命派の連絡役が、マルタンを見る。
「あなたはヴァレーヌの出身だとか」
「はい」
「共和国の空気を知っているなら、帝国の古臭さには耐えられないでしょう」
マルタンは、少しだけ首を傾げた。
「ヴァレーヌの空気は、よいものです。ラ・ヴィーニュ村の朝などは、葡萄畑に露が降りて、それはもう美しい」
ニコラウスが顔を上げた。
「葡萄畑か」
「はい。帝国の葡萄酒も悪くありませんが、うちの村の葡萄酒は香りが違います。薄くしても、ちゃんと葡萄の顔が残る」
カスパルが笑った。
「酒まで自慢か」
「食べ物と酒は、自慢しないと損をします」
「共和国人らしい」
革命派の連絡役が満足そうに言った。
「市民が自分たちの手で作り、自分たちの言葉で誇る。それが共和国だ」
「そうですね」
マルタンは言った。
その声は穏やかだった。
連絡役はさらに熱を帯びる。
「帝国の貴族は、民の作ったものを奪い、名誉だけを自分のものにする。灰鷹隊も同じだ。市民の血で名を上げ、公爵家の盾となる」
エルンストが杯を握った。
「俺たちは盾だった」
「その盾を、彼らは犬と呼ばせた」
連絡役が言う。
「だからこそ、頭を砕く。レイバーを殺せば、灰鷹隊は目を失う」
部屋の空気が変わった。
酒の熱から、別の熱へ。
暗殺。
その言葉は出なかった。
だが、全員がそれを飲んでいた。
カスパルがマルタンを見る。
「あんたには、誘い出しを頼む」
「レイバー様を、ですか」
「そうだ。直接でなくてもいい。書類、補給、警備、何でもいい。あの男をいつもの道から外せ」
マルタンは杯の縁を指で撫でた。
「危険な仕事です」
「金は出る」
「なら、詳しく伺いましょう」
カスパルは満足げに笑った。
エルンストは、まだマルタンを見ていた。
「外国人のお前に、灰鷹隊の何が分かる」
マルタンはエルンストを見る。
「分からないことは多いです」
「なら、なぜ入った」
「食うためです」
「では、なぜ売る」
「食うためです」
カスパルが声を上げて笑った。
ニコラウスは笑わなかった。
エルンストも笑わなかった。
「最低だな」
エルンストが言った。
マルタンは頭を下げた。
「すみません」
その謝り方が、エルンストをさらに苛立たせたようだった。
◇
会合は、夜半過ぎに終わった。
表の客はもう少ない。
古水車亭の主人は、何も聞かない顔で皿を下げた。
一行は、二組に分かれて店を出ることになった。
クラドスと革命派の連絡役は別道。
エルンスト、カスパル、ニコラウス、ほか二人、そしてマルタンは、郊外の細い道を通って帝都へ戻る。
水車小屋の裏を抜けると、道は葡萄畑の跡地に沿って曲がる。
今は手入れされておらず、低い木杭と茂みが残っているだけだった。
月は薄い。
道に人影はない。
カスパルは上機嫌だった。
「これで決まりだ。レイバーを落とせば、灰鷹隊は終わる」
「終わった後は」
ニコラウスが聞いた。
「後?」
「俺たちは、どうなる」
「革命派が拾う」
「本当に?」
「今さら戻れると思っているのか」
ニコラウスは黙った。
エルンストが低く言う。
「戻る場所などない」
マルタンは、少し後ろを歩いていた。
長剣は布に包んだまま。
足音は静かだった。
カスパルが振り返る。
「ルクレールさん。あんたは戻る場所があるんだろう。共和国に」
「ございます」
「いい身分だ」
「そうでしょうか」
「帝国が嫌になれば帰ればいい。俺たちには、この街しかない」
エルンストが言った。
「外国人のお前には分からん。俺たちはこの街で犬と呼ばれたんだ」
マルタンは足を止めなかった。
「そうですね」
「そうですね、だと?」
「私には、分からない部分があります」
「気に入らん」
エルンストが吐き捨てた。
「その謝り方も、その物分かりのいい顔も、全部気に入らん」
「すみません」
「それだ」
道は、さらに細くなった。
左右の茂みが近い。
古い石垣があり、畑へ続く小道がいくつも分かれている。
帝都の明かりは遠い。
風が、草を鳴らした。
マルタンが足を止めた。
先に気づいたのは、ニコラウスだった。
「どうした」
マルタンは答えなかった。
エルンストが振り返る。
「何だ」
マルタンは、静かに言った。
「戻ってきなさい」
誰も、すぐには意味を取れなかった。
カスパルが眉を寄せる。
「何だって?」
「戻ってきなさい」
マルタンはもう一度言った。
「今なら、まだ」
エルンストの顔が怒りに変わった。
「ふざけるな」
ニコラウスは青ざめた。
カスパルは、マルタンの顔と左右の茂みを交互に見た。
「おい」
彼の声が低くなる。
「あんた、何を」
「戻れって、どこへですか」
ニコラウスが言った。
声が震えていた。
「隊舎へ? あの旗の下へ? 犬と呼ばれる場所へ?」
マルタンは、何かを言おうとした。
エルンストが剣に手をかける。
「裏切ったのか」
カスパルも短剣を抜いた。
「同じだと思ったのに」
マルタンは目を伏せた。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「本当に残念です」




