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第38話 戻ってきなさい


 古水車亭の葡萄酒は、薄かった。


 水で薄めている。

 香りも弱い。

 樽の底に残ったものを客に出しているのだろう。


 マルタン・ルクレールは、それを一口飲んで、まずそう思った。


 思っただけで、口には出さない。


 口に出せば、いつものお国自慢になる。


 いつものお国自慢なら、笑って済む。


 だが、今夜は笑えない。


 目の前では、灰鷹隊を抜けた男たちが杯を持っていた。


 エルンスト・バウアー。

 真面目な男だった。

 隊舎では靴をよく磨いていた。


 カスパル・ミュラー。

 損得に敏い。

 だが、勤務を投げる男ではなかった。


 ニコラウス・ヴェーバー。

 若い。

 まだ、怒り方も迷い方も若い。


 そして、クラウス。


 今はクラドスと呼ばれている男。


 マルタンは、クラウスの顔を見ないようにしていた。


 見れば、互いに余計なものが出る。


 ここでは、余計なものを出してはいけない。


 マルタンは、金で動く外国人でなければならない。


 灰鷹隊の外様。

 共和国出身。

 妻子への送金で金がいる男。

 補填と手当を気にする男。


 そう見えるように、これまで振る舞ってきた。


 それは難しくなかった。


 なぜなら、半分は本当だったからだ。


 金はいる。

 妻子はいる。

 送金は続けたい。

 手当も補填も気になる。


 そのすべてが本当だから、嘘に使えた。


 マルタンは、それが嫌だった。


「公爵の犬に戻らない者たちへ」


 カスパルが杯を上げた。


 マルタンも、杯を上げた。


 上げなければならない。


 杯の縁が、少しだけ手に冷たかった。


 革命派の連絡役が、帝国の古臭さを語る。

 貴族が民の作ったものを奪うと語る。

 市民の誇りを語る。

 共和国の自由を語る。


 マルタンは聞いていた。


 言っていることの全部が間違いではなかった。


 帝国には、古いものがある。

 貴族は多くを持ちすぎている。

 市民は怒っている。

 大学で逃げ遅れた学生たちの中には、本当に何も知らなかった者もいた。


 それは分かる。


 分かるから、嫌だった。


 正しい言葉が、正しくない使われ方をしている。


 その言葉の先にあるのは、レイバーの死だった。


 マルタンは、レイバーの顔を思い出した。


 紙と計算と皮肉の男。

 戦場では槍を振るう者たちの後ろにいて、見落としを拾う男。

 灰鷹隊の粗い勢いを、隊として動く形へ整える男。


 その男を殺すために、共和国の自由という言葉が使われている。


 マルタンは杯を置いた。


「あなたはヴァレーヌの出身だとか」


 連絡役が言った。


「はい」


 マルタンは答えた。


 ここで、彼は求められているものを理解した。


 共和国人の言葉。

 帝国を外から見る言葉。

 彼らの空気に合う言葉。


 だから、マルタンは笑った。


 いつもの困ったような笑い方で。


「ヴァレーヌの空気は、よいものです。ラ・ヴィーニュ村の朝などは、葡萄畑に露が降りて、それはもう美しい」


 口は動いた。


 言葉は出た。


 嘘ではない。


 ラ・ヴィーニュ村の朝は、本当に美しい。


 葡萄畑の露も、石垣の湿り気も、セリーヌが火を起こす台所の匂いも、リュカの寝癖も、ミレーヌの小さな手も、まだ抱いたことのないエミールの泣き声も。


 全部、本当だ。


 だから、余計に嫌だった。


 その本当を、ここで出している。


 レイバーを殺す相談の中で。


 灰鷹隊を終わらせる酒の席で。


「帝国の葡萄酒も悪くありませんが、うちの村の葡萄酒は香りが違います。薄くしても、ちゃんと葡萄の顔が残る」


 カスパルが笑う。


 マルタンも笑う。


 笑っている顔を作る。


 内側は、まったく楽しくなかった。


 故郷自慢が、これほど苦いものになるとは思わなかった。


   ◇


 作戦の話になった。


 レイバーをどう誘い出すか。

 どの道を使わせるか。

 何を餌にするか。


 マルタンは、適度に答えた。


 知っていること。

 知らないふりをすること。

 知っているが、少しずらして言うこと。


 すべて、事前にリオンと詰めていた。


 いや、詰めたと言うには短すぎた。


 リオンは、必要なことだけを言った。


 脱走者の接触を受けろ。

 金で動くふりをしろ。

 小さな情報は流せ。

 大きな傷は出すな。

 クラウスを残せ。


 そして、会合の帰路に誘導しろ。


 それだけだった。


 どんな顔で座れとは言われなかった。


 故郷をどう語れとも言われなかった。


 説得しろとも、言われなかった。


 マルタンは杯を持ち直した。


 手が震えていないか、少し気になった。


 震えてはいなかった。


 それも嫌だった。


 自分は思ったより、こういう席に座れる。


 嘘をつき、笑い、金の話をし、故郷を売るような言葉を口にして、それでも手は震えない。


 剣士としては良いことだ。


 人としては、どうなのだろう。


「危険な仕事です」


 マルタンは言った。


「金は出る」


 カスパルが答える。


「なら、詳しく伺いましょう」


 自分の声は、驚くほどいつも通りだった。


 エルンストが言う。


「外国人のお前に、灰鷹隊の何が分かる」


 マルタンは彼を見た。


 怒っている。


 当然だ。


 彼は折れた。


 折れたが、まだ自分が折れたことを認めたくない。

 だから、マルタンを見下す。

 外国人。

 金で動く男。

 自分より汚い者。


 そう見れば、自分の足元が少し高くなる。


 マルタンは答えた。


「分からないことは多いです」


「なら、なぜ入った」


「食うためです」


「では、なぜ売る」


「食うためです」


 カスパルが笑った。


 マルタンは笑わなかった。


 笑っているように見えたかもしれない。


 エルンストは言った。


「最低だな」


 その言葉は、思ったより胸に入った。


 マルタンは頭を下げた。


「すみません」


 謝ることではない。


 謝って済むことでもない。


 それでも、口から出た。


   ◇


 会合が終わった時、マルタンは少しだけ息を吸った。


 終わった。


 いや、終わっていない。


 ここからが本番だった。


 古水車亭を出る。


 夜風が冷たい。


 薄い葡萄酒の味が、まだ舌に残っている。


 マルタンは、それを消したかった。


 カスパルは上機嫌だった。

 エルンストは苛立っている。

 ニコラウスは不安そうにしている。


 その三人を、これから人気のない道へ連れて行く。


 マルタンは歩いた。


 道は、葡萄畑の跡地に沿って曲がる。


 左右には茂みがある。

 古い石垣がある。

 畑へ続く小道がいくつも分かれている。


 襲撃には向いていた。


 リオンが選んだ道だ。


 マルタンは、そのことを知っている。


 知っているのに、足は止まらない。


 いっそ、着かなければいいのに。


 そう思った。


 道が伸び続ければいい。

 帝都の外周をぐるぐる回り、夜が明けても、朝が来ても、目的の場所に着かなければいい。


 そんなことは起こらない。


 道は、ちゃんと曲がる。

 石垣は、ちゃんと現れる。

 茂みは、ちゃんと暗がりを作る。


 着いてしまう。


 カスパルが振り返った。


「ルクレールさん。あんたは戻る場所があるんだろう。共和国に」


「ございます」


 マルタンは答えた。


 声は出た。


「いい身分だ」


「そうでしょうか」


「帝国が嫌になれば帰ればいい。俺たちには、この街しかない」


 エルンストが言う。


「外国人のお前には分からん。俺たちはこの街で犬と呼ばれたんだ」


 マルタンは歩きながら、彼らの背を見た。


 分からない部分はある。


 確かにある。


 だが、犬と呼ばれる痛みなら少しは分かる。


 共和国人街で裏切り者のように見られた。

 帝国では外国人として見られる。

 故郷では旧騎士剣術の男として見られる。


 どこにいても、何かと呼ばれる。


 それでも、自分には戻る場所がある。


 彼らには、今それが見えていない。


 だから、マルタンは足を止めた。


 指示にはなかった。


 言うなとも言われていない。


 ただ、言えば何も変わらないことは分かっていた。


 それでも、口が動いた。


「戻ってきなさい」


 全員が止まった。


 言ってしまった。


 マルタンは、そう思った。


 カスパルが振り返る。


「何だって?」


 マルタンはもう一度言った。


「戻ってきなさい」


 今なら、まだ。


 そう続けた。


 何がまだなのか、自分でも分からない。


 まだ隊舎へ戻れるのか。

 まだロビンに頭を下げられるのか。

 まだレイバー暗殺をやめられるのか。

 まだ、自分たちが殺し合わない道があるのか。


 本当は、もうないのかもしれない。


 それでも、言った。


 エルンストの顔が怒りに変わる。


「ふざけるな」


 ニコラウスは青ざめている。


「戻れって、どこへですか」


 その声は震えていた。


「隊舎へ? あの旗の下へ? 犬と呼ばれる場所へ?」


 マルタンは答えられなかった。


 カスパルが短剣を抜く。


「同じだと思ったのに」


 同じ。


 金で動く者同士。

 綺麗事を信じない者同士。


 そう思われていた。


 そう見えるようにした。


 だから、その言葉は正しかった。


 マルタンは目を伏せた。


「本当に残念です」


 その言葉も、指示にはなかった。


 ただ、本当にそうだった。


   ◇


 茂みが動いた。


 音は小さかった。


 だが、灰鷹隊士だった者たちは反応した。


 エルンストが剣を抜く。

 カスパルが身を低くする。

 ニコラウスが後ろへ下がる。


 遅い。


 完全に遅い。


 茂みから飛び出した影が、同行した革命派の喉を貫いた。


 声は出なかった。


 別の影が、もう一人の膝を斬る。

 倒れたところを、肩口へ刃が入る。


 フリッツだった。


 顔は青い。

 だが、動きは止まらない。


 ユルゲンが短剣を持って、逃げ道を塞いでいる。


 カスパルが叫んだ。


「罠か!」


 マルタンは長剣を抜いた。


「はい」


 答えた声が、自分でもひどく遠かった。


「ですが、戻ってほしかったのは本当です」


「ふざけるな!」


 カスパルが突っ込んでくる。


 短剣。


 速い。


 だが、酒が入っている。

 怒りで肩が上がっている。


 マルタンは短剣を受け流し、柄で顎を打った。


 カスパルがよろめく。


 その背後から、ヘルマンはいない。


 いないことに、マルタンは一瞬だけ気づいてしまった。


 ヘルマンなら、今ここで腕をねじり上げていただろう。


 代わりに、ユルゲンがカスパルの足を払った。


 カスパルが倒れる。


 刃が落ちた。


 カスパルは、倒れたままマルタンを見た。


「金で動く奴は、裏切らないんじゃなかったのか」


 マルタンは答えられなかった。


 エルンストは強かった。


 真面目な男だった。

 訓練通りに剣を構え、訓練通りに踏み込み、訓練通りに斬ってくる。


 だから、読めた。


 それが、悲しかった。


 マルタンは長剣で受け、横へ外し、肩を打った。


 エルンストは膝をつかない。


「外国人のお前に」


 彼は歯を食いしばった。


「俺たちの何が分かる」


「分かりません」


 マルタンは言った。


「ですが、レイバー様を殺させるわけにはいきません」


「それが犬だと言うんだ!」


 エルンストが叫んだ。


 その瞬間、道の反対側から声がした。


「レイバーは殺させない」


 リオン・フォン・アルトベルクが歩いてきた。


 夜道の向こうから、片手剣を下げている。


「灰鷹隊を終わらせはしない」


 エルンストがリオンへ向き直る。


 その動きは悪くなかった。


 だが、リオンは速かった。


 銀糸が見えているのかどうか、マルタンには分からない。


 ただ、リオンはエルンストの初動を読んでいた。


 剣が交差する。


 一拍後、エルンストの剣が跳ね上がった。


 リオンの刃が、彼の喉元で止まった。


「戻るなら、今だ」


 リオンが言った。


 エルンストは笑った。


「戻れる場所を、あんたらが残してくれたのか?」


 彼は自分から刃へ踏み込んだ。


 リオンの顔は変わらなかった。


 刃が入る。


 エルンストは崩れた。


 ニコラウスは逃げようとした。


 若かった。


 逃げ足も、若かった。


 茂みへ飛び込む直前、ユルゲンが足を絡めた。


 ニコラウスが転ぶ。


「嫌だ!」


 彼は叫んだ。


「戻れって、どこへだよ!」


 マルタンは動けなかった。


 フリッツが、震える手でニコラウスの短剣を蹴り飛ばす。


 リオンが近づいた。


「レイバー暗殺に加わった時点で、戻る場所は自分で燃やした」


「まだ殺してない!」


「殺すために歩いていた」


 ニコラウスは泣いていた。


 リオンは目を伏せなかった。


 処置は短かった。


 夜道に、また一つ体が倒れた。


   ◇


 終わるまで、長くはかからなかった。


 元灰鷹隊士は弱くない。


 だが、場所を選ばれ、酒を入れられ、退路を塞がれ、不意を打たれた。


 リオン班は準備していた。


 脱走者たちは、準備されていた。


 その差だった。


 クラウスだけが、道の端に立っていた。


 刃を抜いていない。

 傷もない。


 彼はクラドスの顔をしていた。


 だが、その顔の下で何かが壊れているように見えた。


 リオンが近づく。


「もう潜入は継続困難だ」


 クラウスは黙っている。


「逃げろ。身を隠せ」


「命令ですか」


「そうだ」


「どこへ」


「帝都の外がいい」


「外へ出られると?」


「出ろ」


 リオンの声は冷たかった。


 だが、マルタンには分かった。


 これは、切り捨てる声ではない。


 逃がそうとしている声だった。


 クラウスは少しだけ笑った。


「了解しました」


「酒場へは戻るな」


 その言葉に、クラウスの笑みが消えた。


「……はい」


「ミレーヌにも近づくな」


「分かっています」


 本当に分かっている声だった。


 クラウスは一礼しなかった。


 灰鷹隊士の礼をすれば、何かが戻ってしまうからかもしれない。


 彼は背を向け、夜闇の中へ歩いていった。


 誰も追わなかった。


   ◇


 死体を片づける時、マルタンは何度も手を止めそうになった。


 エルンスト。

 カスパル。

 ニコラウス。


 名前がある。


 名簿にあった名。

 点呼で呼ばれた名。

 同じ隊舎の中で聞いた名。


 その名の持ち主が、夜道に倒れている。


 マルタンは、ニコラウスの外套を直した。


 若い顔だった。


 泣いた跡が残っている。


 戻ってきなさい。


 自分はそう言った。


 その言葉は、本心だった。


 だが、彼らにとっては罠の合図にしかならなかった。


 マルタンは、自分の手を見た。


 血がついている。


 剣で斬った血。

 仲間だった者の血。


 これは治安維持ではない。


 逮捕でもない。


 処刑ですらない。


 暗殺だ。


 粛清だ。


 マルタンは、そう思った。


 思ってしまった。


 リオンが近くに立っていた。


「マルタン」


「はい」


「戻るぞ」


 戻る。


 隊舎へ。

 灰鷹隊へ。

 また明日の仕事へ。


 マルタンは頷いた。


「はい」


 声は出た。


 だが、胸の奥で別の声がした。


 自分は、どこへ戻れるのだろう。


 ラ・ヴィーニュ村。

 セリーヌ。

 リュカ。

 ミレーヌ。

 エミール。


 帰る場所はある。


 あるはずだ。


 だが、今夜の自分がそこへ帰ってよいのか。


 その問いは、夜道の暗さよりも濃かった。


 マルタンは、答えを持たないまま歩き出した。


 背後で、古水車亭の灯りが遠く小さく揺れていた。


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