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第39話 帰れと言う声


 クラウス・ベックの行方は分からなかった。


 逃げた。


 そういうことになっている。


 少なくとも、灰鷹隊の中ではそうだった。


 革命派に潜り込んでいた密偵が、役目を終えて身を隠した。

 それだけの話として扱われた。


 だが、マルタン・ルクレールは、そう思えなかった。


 あの夜、郊外の道でリオンに逃げろと言われたクラウスの顔を覚えている。


 礼をしなかった背中。

 酒場へ戻るな、と言われた時の沈黙。

 ミレーヌにも近づくな、と言われた時の、ほんのわずかな顔の強ばり。


 逃げたのだろう。


 逃げていてほしい。


 逃げ切ったかどうかは、誰も知らない。


 知らないことは、時々、知っていることより重かった。


   ◇


 マルタンが受け取った手当は、いつもの数倍あった。


 書類上の名目は、特別任務手当、夜間行動手当、危険地帯対応手当、装備損耗補填、その他諸費。


 細かく分けられている。


 細かく分けられているほど、何をした金なのか分からなくなる。


 袋は重かった。


 重い袋は、かつてならありがたかった。

 いや、今もありがたい。


 セリーヌが粉を買える。

 リュカに靴を買える。

 ミレーヌに冬の布を買える。

 エミールに薬がいる時、迷わず払える。


 ありがたい。


 ありがたいはずだった。


 マルタンは、その袋を外套の内側に入れ、アルマン商会の帝都支店へ向かった。


 道中、何度か袋の重さを確かめた。


 落としていないか。

 盗られていないか。


 それはいつもの癖だった。


 だが、今日は別の意味もあった。


 重さを確かめるたび、あの夜道の光景が戻ってくる。


 エルンスト。

 カスパル。

 ニコラウス。


 戻ってきなさい。


 本当に残念です。


 その後の刃の音。


 マルタンは足を止めかけた。


 止めても、どうにもならない。


 歩いた。


   ◇


 アルマン商会の帝都支店は、今日も忙しそうだった。


 荷札を書き換える者。

 帳簿をめくる者。

 馬車の手配をする者。

 小声で値を交渉する者。


 帝都がどれだけ荒れても、商いは止まらない。


 止まれば、食べ物が来なくなる。

 布も来ない。

 薬も来ない。


 商人は、戦よりしぶとい。


 マルタンが奥へ通されると、アルマンは帳簿から顔を上げた。


 その顔が、すぐに変わった。


「マルタン」


「お世話になります」


 マルタンは丁寧に頭を下げた。


「送金をお願いいたします」


「座れ」


「いえ、すぐ済みますので」


「座れ」


 二度目の声は、商人の声ではなかった。


 幼馴染の声だった。


 マルタンは従った。


 椅子に腰を下ろす。


 アルマンは向かいに座らず、しばらく立ったままマルタンを見ていた。


「顔色が悪い」


「少し寝不足でございます」


「少しでそんな顔になるか」


「年でしょうか」


「ふざけるな」


 マルタンは口を閉じた。


 アルマンはようやく座り、手を出した。


「送金分を出せ」


「はい」


 マルタンは袋を出した。


 机に置く。


 硬貨の重みで、木の机が鈍い音を立てた。


 アルマンの眉が動いた。


「全部か」


「一部は手元に残しました」


「残してこれか」


「はい」


 アルマンは袋を開けた。


 中身を確認する。


 商人の手つきだった。

 速く、正確で、無駄がない。


 だが、数え終わった後、彼の手はしばらく止まった。


「何をした」


「仕事でございます」


「聞き方を変える」


 アルマンは低く言った。


「何をさせられた」


 マルタンは答えなかった。


 答えられることではない。


 答えてよいことでもない。


 アルマンは机を指で叩いた。


「今までの金とは違う」


「危険手当が」


「危険手当で人間の顔がそんなふうになるか」


 マルタンは、思わず自分の頬に触れかけた。


 やめた。


「どんな顔をしておりますか」


「帰り道を忘れた顔だ」


 言葉が、胸に刺さった。


 マルタンは視線を下げた。


「帰り道は、覚えております」


「なら帰れ」


 アルマンは即座に言った。


「全部投げ捨てて帰れ」


「それは」


「できないと言うな」


「……」


「できる。俺が通す。金は要るが、どうにかする。中立連邦の道も、商会の道も、まだ完全には死んでいない。セリーヌには俺から言う。村にも話す。お前は、もう帰れ」


 マルタンは、机の木目を見た。


 帰る。


 セリーヌ。

 リュカ。

 ミレーヌ。

 エミール。


 帰りたい。


 それは本当だった。


 今すぐ立ち上がり、アルマンの手配する馬車に乗り、帝都を出て、中立連邦を抜け、山道を越え、ラ・ヴィーニュ村へ戻る。


 そうできるなら、どれほどよいか。


「帰れません」


 声は、小さかった。


 アルマンの顔が硬くなる。


「なぜだ」


「まだ、仕事が」


「仕事?」


 アルマンは笑った。


 笑いではなかった。


「その顔にした仕事を、まだ続けるのか」


「はい」


「家族のためか」


 マルタンは答えようとした。


 いつもの答えを。


 妻子を食わせるためです。


 だが、喉で止まった。


 アルマンが身を乗り出す。


「言えよ。家族のためだと」


「……」


「言えないだろう」


 マルタンは黙った。


 アルマンの声は、少し震えていた。


「お前は家族のために行った。そこは疑っていない。セリーヌも、子どもたちも、お前の金で助かっている。だがな、今のお前は、それだけじゃない」


 マルタンは手を握った。


「剣を置けないだけだ」


 以前にも、似た言葉を言われた。


 その時より、深く刺さった。


「灰鷹隊で必要とされる自分を、手放せないだけだ。帝国へ行った選択が間違いだったと、認めたくないだけだ」


「違います」


 マルタンは言った。


 反射だった。


 アルマンは目を細める。


「本当に違うか」


 マルタンは答えられなかった。


 違う。


 違うはずだ。


 妻子のため。

 送金のため。

 生きるため。


 それは嘘ではない。


 嘘ではないが、全部でもない。


 マルタンは、それをもう知っていた。


「セリーヌに何て書く」


 アルマンが言った。


「今回の金は何で得たと書く」


「いつも通り、任務手当と」


「セリーヌは馬鹿じゃない」


「分かっております」


「なら分かれ」


 アルマンは袋を押し返した。


「これは送る。送るが、俺は喜ばない。セリーヌもな!」


「お願いします」


「お前は?」


「はい?」


「お前は、この金を喜べるのか」


 マルタンは袋を見た。


 重い袋。


 家族を助ける金。


 仲間だった者の血の後に受け取った金。


「喜べません」


 ようやく言えた。


 アルマンは目を閉じた。


「だったら帰れ」


 マルタンは、すぐには答えなかった。


 帰れ。


 クレールにも言われた。

 アルマンにも言われた。


 帰る場所はある。


 あるのに、帰れない。


 帰れないのではなく、帰らないのではないか。


 そう考えると、胸の奥が冷えた。


「少し、考えさせてください」


 マルタンは言った。


 アルマンの顔が歪んだ。


「考える時間は、もう何度もあっただろう」


「はい」


「それでも考えるのか」


「はい」


 アルマンはしばらく黙った。


 それから、商人の手つきで袋を引き寄せた。


「送る」


「ありがとうございます」


「礼はいい」


 アルマンは帳簿を開いた。


「次に来た時も同じ顔なら、俺はお前を殴る」


「それは困ります」


「困れ」


「商会で騒ぎになります」


「知るか」


 マルタンは少しだけ笑った。


 笑えたことに、自分で驚いた。


 アルマンは笑わなかった。


「マルタン」


「はい」


「帰る資格がない、なんて顔をするな」


 マルタンは息を止めた。


「まだ言っていません」


「顔で言ってる」


 アルマンは帳簿に視線を落とした。


「それは罪悪感じゃない。帰って、自分の失敗を見るのが怖いだけだ」


 マルタンは立ち上がった。


 もう座っていられなかった。


「失礼いたします」


「逃げるな」


「逃げません」


「今逃げてる」


 マルタンは答えず、頭を下げた。


 アルマンは止めなかった。


   ◇


 商会を出ると、夕方の光が薄くなっていた。


 帝都の空は曇っている。

 遠くで馬車の音がする。


 マルタンはしばらく道端に立った。


 帰れ。


 アルマンの声が耳に残る。


 帰りたい。


 それも本当だ。


 だが、帰った時、自分は何と言うのか。


 セリーヌに。

 リュカに。

 ミレーヌに。

 まだ抱いたことのないエミールに。


 父は、家族のために帝国で剣を振った。


 それは言える。


 では、その剣で何をしたのか。


 そこから先が言えない。


 マルタンは歩き出した。


 隊舎へ戻る道ではなく、少し遠回りの道を選んだ。


 途中で、フリッツとユルゲンに会った。


 二人とも外套を着ているが、今日は勤務ではないはずだ。


「班長」


 フリッツが声をかけた。


「お疲れ様です」


「商会ですか」


「はい」


「送金?」


「はい」


 ユルゲンが少しだけ笑った。


「今夜、酒場に行くんです」


「酒場?」


「いつものところです」


 ミレーヌの酒場。


 マルタンは、その名を聞かなくても分かった。


「アルトベルク様も?」


「連れて行きます」


 フリッツが言った。


 その言い方は、少しだけ決意に満ちていた。


「連れて行く、ですか」


「はい。あの方、放っておくと仕事場に戻るので」


 ユルゲンが頷いた。


「大仕事の後くらい、薄い酒を飲むべきです」


「薄い酒でよろしいのですか」


「ミレーヌさんの酒は薄くても温かいんです」


 フリッツが言った。


 その言葉に、マルタンは少しだけ救われた。


 いつもの場所。


 薄い酒。

 黒パン。

 ミレーヌの小言。

 リオンの無愛想な顔。

 フリッツの少し緊張した笑い。

 ユルゲンの余計な一言。


 戻れる場所。


 少なくとも、帝都の中に一つだけあるような気がした。


「では、私も参りましょう」


「よかった」


 フリッツは本当にほっとした顔をした。


「班長も来れば、アルトベルク様を説得しやすいです」


「私は説得役ですか」


「妻帯者は、そういうところに目が行くのでしょう?」


 マルタンは少し目を瞬いた。


 それは以前、自分がリオンへ言った言葉だった。


「よく覚えておいでですね」


「印象に残りました」


 ユルゲンが小さく笑った。


「それに、ミレーヌさん、最近ずっとアルトベルク様に会っていませんし」


「そうですね」


 マルタンは頷いた。


「では、今夜はアルトベルク様にお顔を出していただきましょう」


「花でも買わせますか」


 ユルゲンが冗談めかして言った。


 フリッツが、それだ、という顔をした。


 マルタンは少し考えた。


「よろしいのでは」


「本気ですか」


「はい。高すぎないものなら」


「そこですか」


「当然です。花は気持ちですが、値段もあります」


 フリッツが笑った。


 ユルゲンも笑った。


 マルタンも、少しだけ笑った。


 アルマンの商会で刺された言葉は、まだ胸に残っている。


 だが、今夜だけは、いつもの場所へ戻れるかもしれない。


 そう思った。


 思ってしまった。


 彼らは隊舎へ向かった。


 リオンを捕まえるために。


 そして、半地下の酒場へ向かうために。


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