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第40話 花束を買え


 リオン・フォン・アルトベルクを仕事場から引きずり出すのは、戦場で敵を引きずり出すより難しかった。


 少なくとも、フリッツ・ハイネはそう思った。


「行きません」


 リオンは書類から顔も上げずに言った。


 隊舎の奥の部屋には、紙が積まれている。

 大学制圧の後始末。

 灰鷹隊脱走者の処理。

 市内巡回の再編。

 公爵家への報告。


 全部、見ているだけで頭が痛くなる。


「行きます」


 フリッツは言った。


 自分でも驚くほど、はっきりした声だった。


 リオンがようやく顔を上げた。


「誰が決めた」


「私たちです」


「私たち?」


 リオンの視線が動く。


 部屋の入口に、マルタンとユルゲンが立っていた。

 他のリオン班員も、廊下に数名いる。


 ヘルマンはいない。


 その不在だけが、少し重かった。


「大仕事の後は、酒場へ行くものだそうです」


 ユルゲンが言った。


「誰がそんな規則を作った」


「ミレーヌさんです」


「作っていない」


「作っていなくても、実質そうです」


 リオンはマルタンを見た。


「君もか」


「はい」


 マルタンは丁寧に頭を下げた。


「今夜は、お顔を出された方がよろしいかと」


「仕事がある」


「仕事しかない顔になっておりますよ?」


「余計なことを見るな」


「妻帯者は、そういうところに目が行くものでございます」


「またそれか」


「はい」


 リオンはしばらく黙った。


 机の上の書類を見る。

 入口の三人を見る。

 また書類を見る。


 そして、ため息をついた。


「一杯だけだ」


 フリッツの顔が明るくなった。


「はい」


「長居はしない」


「はい」


「仕事の話はしない」


 ユルゲンが言った。


「それは無理では」


 リオンが睨む。


 ユルゲンはすぐ黙った。


   ◇


 酒場へ向かう途中、マルタンは花屋の前で足を止めた。


 小さな店だった。


 店先には、季節の花が少しだけ並んでいる。

 高価な花ではない。

 白い小花、淡い紫の花、黄色い野の花。


 フリッツがリオンを見た。


 ユルゲンも見た。


 マルタンも見た。


 リオンは三人を見返した。


「何だ」


「買いましょう」


 フリッツが言った。


「誰が」


「アルトベルク様が」


「なぜ」


「ミレーヌさんに」


「なぜ」


 同じ問いだった。


 ただし、二度目は少し低かった。


 フリッツは怯みかけた。


 マルタンが横から言った。


「ミレーヌさんは、いつも我々に薄い酒と黒パンを出してくださいます」


「代金は払っている」


「それはそうでございます」


「なら十分だ」


「十分ではない時もございます」


 リオンは黙った。


 ユルゲンが小声で加える。


「最近、アルトベルク様、全然顔を出してませんし」


「君たちは、僕を何だと思っている」


「仕事しかしない人」


 フリッツが言った。


 言ってから、しまった、という顔をした。


 リオンは彼を見た。


 フリッツは背筋を伸ばす。


「申し訳ありません」


「謝るな。マルタンが増える」


「私が増えると困りますか」


 マルタンが言うと、ユルゲンが笑った。


 リオンは花屋を見た。


 店の女主人が、こちらの様子を面白そうに見ている。


「小さいのでいい」


 リオンが言った。


 フリッツがほっと息を吐く。


 マルタンはすぐに花を見た。


「こちらの白い花はおいくらでしょう」


「三本で二銅貨」


 女主人が言った。


「二本なら」


「マルタン」


 リオンが低く言った。


「はい」


「値切るな」


「しかし」


「花だ」


「花にも値段はございます」


「僕が払う」


「でしたら、なおさら適正価格を」


「黙れ」


 女主人が笑った。


「いい部下だね」


「よくない」


 リオンは短く答えた。


 結局、小さな花束を買った。


 白い小花と、淡い紫の花を合わせたものだった。

 派手ではない。

 だが、酒場の半地下に置けば、少し明るくなるだろう。


 リオンは花束を持った。


 持ち方が分からないようだった。


 フリッツがそれを見て笑いかける。

 マルタンも、少しだけ笑った。


 その時だけは、昨日までの血の匂いが少し遠のいた。


   ◇


 半地下の酒場へ降りる階段は、いつもより静かだった。


 最初に気づいたのは、リオンだった。


 彼の足が、途中で止まる。


 マルタンも止まった。


 階段の下から、いつもの声がしない。


 客の笑い声。

 杯の音。

 ミレーヌの「はい、ただいま」という声。


 どれもない。


「休みでしょうか」


 フリッツが小声で言った。


 言った本人も、それを信じていない顔だった。


 リオンは花束を左手に持ち替え、右手を剣にかけた。


 マルタンも長剣に手を伸ばす。


 ユルゲンが息を呑む。


 階段を降りる。


 一段。

 二段。

 三段。


 扉は、少し開いていた。


 中から、酒の匂いがした。


 いつもの酒の匂いではない。


 こぼれた酒。

 割れた樽。

 血の匂い。


 リオンが扉を押した。


 軋む音がした。


 店内は荒れていた。


 卓が倒れている。

 椅子が折れている。

 棚の瓶が割れ、床に酒が広がっている。

 壁に、灰鷹隊を罵る言葉が黒い煤で書かれていた。


 公爵の犬。


 裏切り者の巣。


 市民の敵。


 マルタンは息を止めた。


 リオンは動かなかった。


 花束を持ったまま、店の奥を見ている。


 そこに、クラウスがいた。


 椅子に縛られていた。


 頭が垂れている。

 服は裂け、顔は腫れ、血が乾いて黒くなっていた。


 生きていない。


 それは、見れば分かった。


 フリッツが小さく声を漏らした。


「クラウスさん……」


 マルタンは動こうとした。


 その時、奥の床で何かが動いた。


 リオンがそちらへ向かう。


 倒れた卓の陰。

 血で汚れた床。


 ミレーヌがいた。


 壁にもたれるように座らされていた。

 胸元の布が赤く染まっている。

 腕にも傷がある。

 髪は乱れ、頬には血がついていた。


 それでも、まだ息があった。


 ほんのわずかに。


「ミレーヌ」


 リオンの声は、聞いたことのない声だった。


 ミレーヌのまぶたが動いた。


 焦点の合わない目が、リオンを探す。


 リオンは膝をついた。


 花束を持ったまま。


「……アルトベルク様」


 声は、ほとんど息だった。


「喋るな」


 リオンが言った。


「医者を」


 マルタンが振り返る。


 ユルゲンがもう走り出していた。


 階段へ向かう足音が響く。


 ミレーヌは、リオンの手元を見た。


 花束。


 白い小花と、淡い紫の花。


 彼女は、それを見て、少しだけ笑った。


「……遅いです」


 リオンは何も言わなかった。


 言えなかった。


 ミレーヌの指が、床の方へわずかに動いた。


 マルタンはそれに気づいた。


 彼女の手の下に、盆があった。


 倒れた盆。

 血に濡れている。


 その下に、紙片の端が見えた。


「リオン様」


 マルタンは小さく言った。


 リオンは動かない。


 マルタンは膝をつき、盆をそっと持ち上げた。


 小さな紙片があった。


 血で濡れている。

 だが、文字は少し残っていた。


 クラウスの字だった。


 完全な文章ではない。


 符丁。

 地区名の断片。

 古水車亭で見た連絡役に繋がる印。

 南運河の荷札と同じ系統の記号。


 ミレーヌは、それを隠そうとしていたのだ。


 最後まで。


「……預かりもの」


 ミレーヌが言った。


「なくしませんでした」


 マルタンの喉が詰まった。


 リオンは、花束を彼女に見せた。


 手が震えていた。


 ミレーヌは、また笑った。


 本当に、少しだけ。


「きれい」


 それが、最後だった。


 リオンの手の中で、花束が潰れた。


 誰も、しばらく動けなかった。


 フリッツは泣いていた。


 マルタンは、ミレーヌの顔を見ていた。


 娘と同じ名の少女。


 半地下の酒場で笑っていた娘。


 薄い酒を出し、黒パンを切り、リオンに少しだけ期待していた娘。


 その娘が、血の中で息を止めた。


 マルタンは、紙片を握った。


 血が指についた。


 リオンは、ようやく立ち上がった。


 花束を持ったまま。


 その顔には、何もなかった。


 何もない顔だった。


 だから、マルタンは怖かった。


「マルタン」


「はい」


 声は出た。


「紙を」


 マルタンは紙片を渡した。


 リオンはそれを見た。


 一度だけ。


「ユルゲンを戻せ」


「医者を」


「もう遅い」


 その声は冷たかった。


 冷たいのに、割れていた。


「班を集めろ」


 リオンは言った。


「今夜、出る」


 誰も、どこへ、とは聞かなかった。


 半地下の酒場には、こぼれた酒の匂いと血の匂いが満ちていた。


 壁の煤文字が、揺れる灯りに照らされていた。


 公爵の犬。


 マルタンは、その文字を見た。


 それから、クラウスを見た。


 ミレーヌを見た。


 犬でも何でもいい。


 今夜だけは、そう思った。


 噛み殺しに行くなら、それでいい。


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