第3話 私の仕事には、値段がついた
会社では「サポート職」と呼ばれていた里帆の仕事。
けれど、取引先の宮原は、その資料の価値を正しく見ていました。
誰かに安く使われるのではなく、自分の仕事に自分で値段をつける。
里帆にとって、初めての見積書が人生を変えていきます。
翌日、里帆は駅前のコワーキングスペースを一時間だけ予約した。
宮原は時間ぴったりに現れた。
五十代前半の落ち着いた男性で、プレゼンの日に一度だけ名刺交換をしたことがあった。
「瀬川さん、お時間をいただきありがとうございます」
「こちらこそ、ご連絡ありがとうございます。ただ、前職の内部情報に関することはお答えできません」
「もちろんです。その点は承知しています」
宮原は静かにうなずいた。
「実は、東都リビングソリューションさんとの案件進行が、少し不安定になっています」
里帆は黙って聞いた。
「初回発注の締切が曖昧になっていたり、こちらが依頼した仕様変更が資料に反映されていなかったり。先日の提案時の精度と、今のやり取りに差がありすぎるのです」
やはり、と思った。
「私にご相談というのは、具体的にどのような内容でしょうか」
「弊社側の案件管理を整理していただきたいのです。東都さんとのやり取りに限らず、今後ほかの仕入れ先とも同様の大型案件が増えます。社内で確認すべき項目、資料の見方、進行管理の仕組みを整えたい」
「つまり、御社側の業務整理と資料設計ですね」
「はい。正直に申し上げます。先日の提案資料を拝見したとき、私は営業担当の方より、資料を作った方に会いたいと思いました」
里帆は顔を上げた。
宮原はまっすぐ里帆を見ていた。
「あの資料は、派手ではありませんでした。しかし、こちらが不安に思う点が先回りして整理されていた。数字の根拠も、判断の順番も、非常に誠実でした」
里帆は、すぐに返事ができなかった。
十年働いた会社で、一度も言われなかった言葉だった。
誠実。
その言葉が、胸の深いところに落ちた。
「ありがとうございます」
声が少しかすれた。
宮原は名刺を差し出した。
「もし瀬川さんが可能であれば、業務委託としてお願いしたい。条件はご提示ください」
条件。
里帆はその場で金額を言えなかった。
「一度、業務範囲を整理して、見積書をお送りします」
「お待ちしています」
帰宅後、里帆はパソコンを開いた。
見積書のテンプレートを検索した。
自分の名前を、請求元欄に入力する。
瀬川里帆。
会社名はない。
肩書きもない。
ただの自分の名前。
それが、少し怖かった。
業務内容を書き出す。
案件進行管理表の設計。
顧客向け提案資料の構成改善。
社内確認フローの整理。
月二回のオンライン打ち合わせ。
必要資料のレビュー。
初回三か月契約。
問題は金額だった。
里帆の前職での月給は、手取りではなく額面で三十一万円ほどだった。
残業代を入れても、四十万円に届くかどうか。
もし同じ感覚で見積もれば、月十五万円くらいが妥当かもしれない。
でも、里帆は手を止めた。
会社員時代の給料は、里帆の仕事の値段ではなかった。
里帆を安く使うためにつけられた、会社の都合の金額だった。
自分の仕事に値段をつける。
それは、自分を高く見せることではない。
自分を安売りしないことだ。
里帆は、月額九十万円と入力した。
前職の月給の、約三倍。
入力した瞬間、手が震えた。
高すぎるだろうか。
断られるかもしれない。
笑われるかもしれない。
でも、里帆は金額を消さなかった。
その代わり、業務範囲と成果物を丁寧に書いた。
何をするのか。
何をしないのか。
どこまでが契約内で、どこからが追加料金なのか。
十年間、曖昧なまま引き受けてきた仕事を、今度はすべて言葉にした。
翌朝、里帆は見積書を送った。
返信は、その日の午後に来た。
内容を確認しました。
この条件でお願いします。
里帆は画面を何度も見た。
この条件でお願いします。
たった一文だった。
けれど、その一文は、十年分の「助かるよ」より重かった。
里帆は椅子にもたれ、ゆっくり息を吐いた。
泣きそうだった。
でも、涙は出なかった。
代わりに、身体の奥から力が湧いてくるような感覚があった。
自分の仕事には、値段がついた。
自分でつけた値段を、相手が受け取った。
それだけで、世界が少し違って見えた。
大成ホームとの業務は、順調に始まった。
里帆は前職の内部資料には一切触れなかった。
その代わり、大成ホーム側の業務フローを整理した。
誰が決めるのか。
どの段階で確認するのか。
仕様変更はどこに記録するのか。
見積と契約書の数字を誰が照合するのか。
仕入れ先からの説明をどう比較するのか。
里帆が整えた表を見て、宮原は言った。
「これが欲しかったんです」
その一言だけで、里帆は十分だった。
一方、東都リビングソリューションでは、問題が表面化していた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
「この条件でお願いします」
その一文は、里帆にとって十年分の「助かるよ」より重い言葉でした。
でも、里帆の価値に気づいたのは、取引先だけではありません。
次話、かつて彼女を安く扱っていた会社が、百二十万円の見積書を見ることになります。




