第2話 助かっていたことと、評価されることは違う
会社を辞めた里帆。
十年働いた場所を離れたあと、彼女のもとに届いたのは、かつての取引先からの一通のメールでした。
「助かっていた」と言われ続けた仕事は、本当に評価されないものだったのか。
里帆の仕事の価値に、最初に気づいていたのは――。
奥村は最初、冗談だと思ったらしい。
「昨日のことで機嫌を損ねたのか?」
里帆は、はっきり答えた。
「機嫌ではありません。判断です」
「判断?」
「この会社では、私の仕事は評価されないと判断しました」
奥村の顔が歪んだ。
「評価してないわけじゃない。助かっているよ」
「助かっていることと、評価していることは違います」
里帆の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「私は十年、この会社に必要な仕事をしてきました。でも、必要な人間として扱われたことはありませんでした」
奥村は黙った。
その沈黙が、答えだった。
退職日までの一か月、里帆は引き継ぎ資料を作った。
誰に見せても恥ずかしくないものを作った。
顧客別の注意点。
契約更新月。
商品別の利益率。
納品前に確認すべき項目。
過去に起きたトラブルの原因。
営業担当ごとの確認漏れの傾向。
先方担当者の好む連絡手段。
見積書の数字がずれやすい箇所。
奥村はそれを見て言った。
「そこまで細かくしなくてもいいよ。どうせ全部は見ないから」
里帆は答えた。
「見るかどうかは、残る方々の判断です」
佐久間は露骨に面倒そうだった。
「こんなの全部読む時間ないですよ」
「大成ホームの初回発注期限だけは読んでください。そこを落とすと、契約条件が変わります」
「わかってますって」
佐久間はそう言った。
その言い方で、里帆はわかった。
わかっていない。
けれど、もう里帆の仕事ではなかった。
午後六時二十八分。
里帆は紙袋を持って立ち上がった。
「お世話になりました」
部署の人たちが、まばらに拍手をした。
奥村は短く言った。
「次の場所でも頑張って」
「ありがとうございます」
次の場所は、まだ決まっていなかった。
けれど、不安よりも解放感の方が大きかった。
会社のビルを出ると、外は少し肌寒かった。
里帆は振り返らなかった。
十年通ったビルを、最後まで見上げなかった。
その夜、里帆は久しぶりに湯船に浸かった。
奈々にもらった入浴剤を入れると、湯気がやわらかく立ちのぼった。
お湯の中で、里帆は自分の手を見た。
十年分の疲れが、指先にまで染み込んでいる気がした。
でも、その手はまだ動く。
何かを作ることもできる。
何かを選ぶこともできる。
翌週の月曜日。
里帆は朝九時まで眠った。
平日の朝に自宅にいることが、妙に落ち着かなかった。
会社に行かないだけで、社会から外れたような気がした。
洗濯をして、掃除をして、昼食を作っても、心のどこかがそわそわしていた。
午後二時過ぎ。
スマートフォンに一通のメールが届いた。
差出人を見て、里帆は息を止めた。
大成ホーム株式会社
開発事業部
宮原慎一
大成ホームの担当役員だった。
件名は、業務に関するご相談。
里帆は画面を開いた。
瀬川様
突然のご連絡、失礼いたします。
先日の提案資料について、主に作成を担当されたのが瀬川様であると伺いました。
現在、進行中の案件について確認したい点が複数ございます。
可能でしたら、一度お話を伺えませんでしょうか。
文面は丁寧だった。
しかし、里帆にはわかった。
何か問題が起きている。
里帆はすぐには返信しなかった。
退職した会社の取引先と直接連絡を取ることに、慎重になる必要があった。
守秘義務もある。前職の資料を持ち出すことはできない。会社員時代と同じように、無償で助けるわけにもいかない。
里帆は三十分考えたあと、返信した。
宮原様
ご連絡ありがとうございます。
退職済みのため、前職で作成した資料や社内情報についてはお話しできません。
ただし、一般的な業務整理、提案資料作成、案件進行管理に関するご相談であれば、個人としてお受けできる可能性がございます。
必要でしたら、業務委託として条件を確認のうえ、お打ち合わせさせていただきます。
送信ボタンを押したあと、里帆の心臓は少しだけ速くなった。
業務委託。
自分でそう書いたのは初めてだった。
その日の夕方、宮原から返信が来た。
ぜひお願いしたい、という内容だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
退職した里帆に連絡してきたのは、前職の上司ではなく、取引先の担当役員でした。
会社では「サポート職」と呼ばれていた仕事。
けれど外の人は、その価値をきちんと見ていました。
次話、里帆は初めて、自分の仕事に自分で値段をつけます。




