第1話 退職後、私の見積額は月給の三倍になりました
「いつも助かるよ」と言われるのに、評価はされない。
そんな場所で、ずっと自分を安く扱ってきた里帆が、ようやく一歩を踏み出す話です。
誰かの仕事を支えている人ほど、自分の価値を見失いやすいのかもしれません。
退職から二か月後、瀬川里帆は、かつて自分を「サポート向き」と呼んだ会社へ、一通の見積書を送った。
金額は、百二十万円。
会社員時代の月給の、約三倍だった。
送信ボタンを押したあと、里帆はしばらく画面を見つめていた。
高すぎるだろうか。
一瞬だけ、昔の自分の声が胸の奥で囁いた。
けれど、里帆はもう、その声に従わなかった。
高いのではない。
これが、本来の値段なのだ。
そう思えるようになるまでに、十年かかった。
その十年が終わった日のことを、里帆は今でもよく覚えている。
ある金曜日の午後六時十二分。
瀬川里帆は、自分の机の引き出しを空にしていた。
十年使ったデスクだった。
引き出しの奥には、いつ入れたのか覚えていない付箋の束、先が丸くなった赤ペン、顧客名を書いた古いメモ、非常用に置いていたチョコレートが一つ残っていた。
チョコレートの賞味期限は、三か月前に切れていた。
それを見た瞬間、里帆は思わず笑ってしまった。
自分らしい、と思った。
誰かの締切は忘れない。
誰かの確認漏れは拾う。
誰かの会議資料は前日までに整える。
誰かのミスが表に出ないように、先回りして火を消す。
なのに、自分の引き出しに入れたチョコレートの期限すら、見ていなかった。
「瀬川さん、本当に今日で最後なんですね」
隣の席から声をかけてきたのは、入社三年目の栗原奈々だった。
奈々は少し不安そうな顔をしていた。いつもの明るい笑顔ではない。
「うん。今日まで」
里帆は淡々と答えた。
「まだ実感ないです」
「私も、少しだけ」
「でも……困ります。瀬川さんがいないと」
里帆は、引き出しから取り出した私物を紙袋に入れながら、静かに首をかしげた。
「引き継ぎ資料は全部共有フォルダに入れてあるよ。目次もつけたし、案件別にも分けてある」
「そうじゃなくて」
奈々は唇を噛んだ。
「資料があっても、瀬川さんみたいにはできないです」
里帆は手を止めた。
その言葉は、二週間前なら少しうれしかったかもしれない。
でも今は、遅すぎた。
「最初から、私みたいにやろうとしなくていいよ」
「え?」
「できないことは、できないって言った方がいい。早めに」
「でも、それ言ったら評価下がりませんか」
里帆は少しだけ笑った。
「言わなくても、評価されないことはあるよ」
奈々は返事をしなかった。
その沈黙の中に、この会社の十年が詰まっている気がした。
株式会社東都リビングソリューション。
住宅設備や建材を扱う中堅商社で、里帆は営業企画部に所属していた。
肩書きは、営業企画アシスタント。
しかし実際には、営業資料の作成から顧客別の売上分析、契約更新時期の管理、納期トラブルの事前確認、クレームの予兆整理、役員会議用の数字調整まで、部署の裏側をほとんど一人で支えていた。
営業担当が先方に伝え忘れたことを、里帆がメールで補う。
部長が会議で使う数字を、里帆が夜に整える。
若手が作った資料の矛盾を、里帆が出社前に直す。
誰かが困る前に、里帆が気づく。
それが当たり前になっていた。
当たり前になると、人は感謝しなくなる。
いや、正確には感謝はする。
「いつも助かるよ」
「瀬川さんがいると安心だね」
「本当に縁の下の力持ちだよ」
そう言われるたびに、里帆は笑ってきた。
だが、評価面談で返ってくる言葉は決まっていた。
「瀬川さんはサポート職だからね」
「数字として成果が見えにくいんだよ」
「もう少し主体性があるといいね」
主体性。
里帆はその言葉を聞くたび、心の中で小さく笑っていた。
会議に呼ばれない。
決定権は与えられない。
作った資料には別の人の名前が入る。
発言すれば「細かい」と言われる。
黙って支えれば「サポート向き」と言われる。
その中で、どんな主体性を見せればよかったのだろう。
辞めると決めたきっかけは、大成ホームの案件だった。
大成ホームは、今年最大の新規取引候補だった。
里帆は三か月かけて資料を作った。
過去の発注傾向。
地域ごとの住宅需要。
競合他社の価格帯。
物流コスト。
利益率。
季節変動。
先方の中期計画。
営業担当の佐久間が持ってきたのは、雑談まじりの訪問メモだけだった。
その断片を、里帆が提案書にした。
けれど、プレゼン当日、会議室に入ったのは部長の奥村と佐久間だけだった。
里帆は呼ばれなかった。
契約は取れた。
フロアでは拍手が起きた。
営業部の社員たちが、戻ってきた奥村と佐久間を囲んでいた。
「佐久間、やったな」
「大成ホームだぞ。すごいじゃん」
「今回の提案、かなり刺さったらしいな」
佐久間は照れた顔で笑った。
「今回は、先方のニーズをうまく読めました」
里帆は、パソコン画面の前で静かにその声を聞いていた。
佐久間は続けた。
「資料は僕がほぼ組み立てました。瀬川さんには、細かい数字を整えてもらっただけです」
細かい数字。
その言葉が、里帆の胸に静かに落ちた。
細かい数字。
たしかに、数字は細かい。
けれど、その細かい数字が一つずれれば、利益は消える。納期は崩れる。先方の信用も失う。
里帆が三か月かけて積み上げたものは、佐久間の中では「整えてもらっただけ」の仕事だった。
周囲は誰も訂正しなかった。
奥村も笑っていた。
その日の午後、里帆は会議室に呼ばれた。
褒められるのかもしれない。
一瞬だけ、そう思った。
だが違った。
奥村は言った。
「瀬川さん、君はちょっと前に出すぎたね」
里帆は言葉を失った。
前に出た覚えはなかった。
ただ、間違った数字を直しただけだ。
根拠のない提案に、根拠をつけただけだ。
先方に出して恥ずかしくない形に整えただけだ。
佐久間は困ったように言った。
「瀬川さんって、悪気はないんでしょうけど、詰め方が強いんですよ。こっちが何も考えてないみたいに見えるというか」
何も考えていなかったから、里帆が考えたのだ。
喉まで出かかった言葉を、里帆は飲み込んだ。
奥村は続けた。
「瀬川さんは、表に出るタイプじゃないんだよ。裏で支える方が合ってる」
表に出してもらったことなど、一度もない。
それなのに、向いていないと決められる。
「大成ホームの今後の進行は、佐久間と栗原さんでやる。君は通常の資料管理に戻って」
「私が外れるということですか」
「外れるんじゃない。役割分担だよ」
「基礎資料と提案設計は、私が担当しました」
「それは感謝している。でも、君はサポートの立場だから」
その瞬間、里帆の中で何かが終わった。
怒りではなかった。
悔しさでもなかった。
もっと静かなものだった。
ああ、もういい。
そう思った。
翌日、里帆は退職届を出した。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
十年尽くした会社を、里帆は静かに去りました。
けれど、彼女の仕事の価値に気づいていたのは、社内の人間ではありませんでした。
次話、退職した里帆に届いた一通のメールから、彼女の人生が大きく動き出します。




