10.宰相夫人アナベル 1
目が覚めた時に最愛の妻の顔があれば嬉しいとは思っていたが、その顔が完全な呆れ顔というか…怒りも通り越した無である場合はその限りでは無いとヴァージルは知った。
いや、もちろん愛しいし嬉しいし妻に久しぶりに会えた喜びで目が覚めた瞬間「愛してるアナベル!」と叫んだが。それが妻の表情が無になった原因だとはヴァージルは思いたくない。
「そうなる前に言えと王妃殿下からも王弟殿下からも言われていましたよね?」
寝台横の椅子に座る妻の手を握り愛を叫んだヴァージルの手をぴっと払い、ぺしりとヴァージルの額を叩くと愛しの妻アナベルが半目になった。半目になったってアナベルの美しさは増したとしても損なわれはしない。
「いやー、そこまで悪化してる気はしてなかったんだよ?」
「あなたの感覚を当てにするなと何度言えば分かっていただけるんです?」
すでに周囲はすっかりと暗く部屋の全ての燭台に火が灯っている。ちらりと時計を見ればもう夜の八時を回っている。国王ウィルフレッドが来たのは午後の茶を過ぎた頃だったので三時間ほど眠っていたようだ。
「うん、医者には掛かってたよ、一応」
「最後にお医者様とお話したのは?」
「えーっと……ジャーヴィス・ウィルミントンの件の前だから…あー………」
「春の茶会の話ですよね?もう二ヶ月以上も前の話です」
「え!?じゃぁ僕、二ヶ月も家に帰ってなかったの!?」
「そういうことですね」
「うわぁ…それはアナベル不足で夜中に奇声も上げるよね…」
「宿直の方たちのご迷惑になる前に帰るようにとも言ったと思いますけど」
アナベルが麗しい眉間に手を当てて目を閉じ、俯いて首を横に振った。とたんにアナベルの翡翠の瞳が見えなくなって寂しい。
「うん、僕も帰りたかったんだけどね」
「王弟殿下から都度、お手紙はいただいております」
「不思議なのは王妃殿下じゃなくて王弟殿下からってところだね!」
「まさかとは思いますが善意でわざわざ下さるお手紙にまで嫉妬はなさいませんね?」
「まぁ殿下じゃなくてベンジャミンの代筆だろうしね」
「いえ、直筆です」
「噓でしょ!?」
ヴァージルのへらへらとした笑顔が一気に青ざめた。
「文通は止めなさい、アナベル。文字だけで妊娠したらどうするんです!」
「寝言は寝ながら言ってください。そういう方で無いことはあなたも十分過ぎるほどよく知っているでしょう。しかも私をいくつだと思っていらっしゃるの」
「知ってるからこそ駄目なの!殿下の良さを知ってるからこそ駄目なの!!アナベルは僕の永遠の天使です!年齢とか無いから!!」
「呆れた………」
演技ではなくがさつで雑なライオネルだが、そもそもの基礎がしっかりしているので雑に動いたところで指の先まで見事に優雅だ。さらりと書く文字まで美しい。腹立たしいがあの文字で恋文なんて書いたら文字だけで恋に落ちてもらえるかもしれない。羨ましい妬ましい腹立たしい。
本気で呆れたようにため息を吐いたアナベルがふっと、とても優しい目で眉を下げた。
「お手紙はあなたの近況報告も兼ねていましたけど…来てくれって、ずっと言われていたのですよ」
「え?」
「これ以上は宰相が倒れてしまうから、ドラモンド領が今忙しいのは分かるが何とか時間を作ってほんの少しで良いから会いに来てやってくれないか、って。あなたを心配する言葉に溢れるお手紙です」
かさりと、美しい刺繍のされた巾着から三通の手紙を取り出すとアナベルは「どうぞ」とヴァージルに差し出した。
一通はライオネル、一通は予測どおり王妃セシリア、そうしてもう一通は、何と王子フレデリックからだった。
「は…王子殿下」
差出人を見て目を丸くしたヴァージルに、アナベルはふふふ、と声を出して笑った。
「綺麗なお花も添えていただきました…枯れないように丁寧に切り口を水を含んだ綿と蝋紙で包んで。王妃殿下からも王弟殿下からも招聘をいただきましたし、ちょうどドラモンド公爵領の方も色々片付いたからタウンハウスに向かっていたんです。そうしたらね、届いたんですよ、道中で」
ヴァージルが「なんと」と驚いてセシリアの手紙よりライオネルの手紙より先にフレデリックの手紙を開くと、そこにはまだ拙いけれど懸命に美しく書こうと努力したであろう丁寧な文字で「ごめんなさい」と書かれていた。
「謝罪は駄目だと言われたけれどそれでもどうしても謝りたい、なんて、可愛らしくていらっしゃいますよね」
嬉しそうに微笑むアナベルをちらりと見ると、ヴァージルはまた決して長くはないその手紙に目を落とした。
実はヴァージルもフレデリックから手紙をもらった。もちろん花を一輪添えて。そこには日々の感謝とこれからもよろしく、と書かれていた。恐らくグレアムが内容をしっかり確認したのだろうなと思わずにんまりとにやけたわけだが…。
今、アナベルから手渡された手紙には間違いなく謝罪の言葉が書いてある。グレアムから謝罪はするなと言われただろうに。
ああ、でも花の切り口を水を含んだ綿で包んだうえで贈ったのなら、グレアムは内容を理解した上で黙って送ってくれたのだろう。きっと、ヴァージルのために。
ヴァージルはほんのりと熱を持った目尻を軽く指で拭うと困ったように眉を下げてアナベルを見た。
「宰相が帰れないのは僕たちのせい、か…」
「ね、それだけのわけがありませんのにね」
宰相はいつも夫人に会いたいと嘆いているのに僕たち王族がしっかりしないから宰相が帰れません。夫人の元へ宰相を帰せなくてごめんなさい。できれば夫人が会いに来てくれませんか―――そう、書かれている。
「あーあーあー!あの可愛い王子様はいったい誰に似たんだろうね!?」
「そうですね…どちらにも似ていないようで……でもどちらにも似ていますよね」
アナベルの目尻に笑い皴が寄る。上がった口角にもまた笑い皴が寄る。ヴァージルはアナベルのこの笑い皴をこよなく愛している。これはヴァージルとアナベルが共に過ごしてきた年月の証だからだ。
「うん、あの堅物グレアムもにこにこだよ。『わたくしの殿下』だなんて言っちゃってさ………。ほんと、なんだろうね、もうさ、僕、嬉しくて……」
「ふふふ、あの頃を思えば今は奇跡のような時間ですね」
「うん……。駄目だな、年を取るとほんと、涙腺って緩むよねぇ………」
「それだけあなたがあの子たちと寄り添って生きて来た証拠でしょう」
「僕は君と寄り添っていたかった」
「十分過ぎるほど寄り添ってきましたよ」
「やだ、もっと」
「はいはい」
ベッドの上で膝を抱えて顔を埋めた六十近いおっさんに、最愛の妻はハンカチを差し出しつつ「良かったですね」と優しく背を撫でた。




