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『3ヶ月目』


最近になって日差しが強くなってきた。


ここに来た当初も暑いと思っていたが、本格的な季節になると桁《けた》が違うと実感する。


灯台のある離島は、空から見ると歪な円状に見える。端から端までは歩いて数分程度で辿り着く距離であり、灯台の規模に比べてやや広い印象を受ける。丈の低い草花が島全体を覆い尽くしているため一見涼やかに見えるが、その実、日を遮る木が生えていない事もあり、照り返しが強いという問題もあった。

また、雪の降る時期は当たり一面が真っ白になる。ただ、海が近いということもあり、それなに気温が下がるが、足が取られる程の積雪は無いとされている。


総評すると、真夏日と呼ばれる時期以外は概ね過ごしやすい場所―――という事がこの島の評価として適したものであった。


「今日は朝から暑いな‥‥‥」


一週間に一度の物資の搬入日。陸地の方へと帰っていく船舶を見送りながら額の汗を拭う。

この後は灯台へと戻り、搬入された物資の整理を行う予定であったが、島の端の方で気になるものを見つけてしまう。


「白い‥‥‥布か?」


ひらひらと宙に舞う布。

それは海風に弄ばれた後、崖の近くで姿を消した。

最初は得体の知れないものかと身構えたが、良く見ると只の布である事に気が付く。

胸を撫で下ろす事はあれど、わざわざ見にいく必要は無い―――だが、飯島の足は不思議とその場所へと向かっていた。


彼自身、煩わしい日差しを我慢してまで確認しに行こうと考えたのかは分からない。

強いて言うのであれば、興味本位としか言いようが無かった。


「‥‥‥」


じんわりと汗をかきながら、布が落ちたと思われる場所に辿り着く。目測は当たり、探し回ること無く布を見つけていた。


「只のハンカチか‥‥‥」


白い布―――薄い生地のハンカチを手に取り、全体像を観察する。

汚れは殆ど見られず、水気を吸った形跡も無い。手触りや光沢から素材に絹を使ったものであり、外周に精緻な刺繍が施されていることから、人の手で作られたものであると推察していた。


「‥‥‥さっきの」


ハンカチの状態から、物資の搬入を担当していた職員の私物ではないかと考える。

手の中のハンカチを手放して見なかった事にしようかという考えが頭をよぎるが、飯島の中にある摩耗した良心が握る力をそのまま保持し続ける。


「‥‥‥」


次の搬入日まで預かっておく。

ハンカチを丁寧に折りたたみ、上着のポケットの中へと仕舞い込んだ。






――――――――――――――――――――






「おかしいな‥‥‥新品の筈なんだが」


物資の中に紛れ込ませた唯一の私物を弄り回すが、彼の期待に応えることは無かった。


国内メーカーのラジオ。それも新品かつ上位グレードのもの。


担当者に古いラジオの調子が悪い事を伝えたうえで新しいものを購入してもらえないか申請した所、修理か私物としての購入を勧められた。


修理の場合はそれなりに長い期間ラジオが手元に無い状況が続く。

あまり良い思い出が無いとはいえ、世俗との繋がりを断つ事は避けたかった。


私物として手に入れる場合は、給与天引きで購入が可能であると説明を受けていた。

備品として購入してくれないものかと小さな不満が胸のうちから湧き起こるが、月々に振り込まれている給与を鑑みると、たまの散財も悪くないという考えに変わった。

なにしろ危急の用事が無い限り、1年間は島から出る事が出来ない雇用契約を結んでいた。

いくら金があっても、私物の購入以外には使えないのである。


「‥‥‥はぁ」


反応しない新品のラジオを箱に戻し、古いラジオを手に取る。

憎たらしい事に古い方のラジオは正常に動作することが多く、それなりにクリアな音を発していた。


「‥‥‥」


次の機会にでも返品か交換が出来ないか交渉してみようと考えつつ、古い方のラジオの電源を入れる。

電源を入れた直後からニュース番組が流れ始めていた。






【ブツッ】






【―――都の最高気温は32度、最低気温は22度となっており、全国各地でも数日間は猛暑日が続くでしょう。続きまして、次のニュースです。今年の海開きを迎えた〇〇県の〇〇海水浴場では例年以上の海水浴客が訪れているとの事です。それに伴い、水難事故も発生しており、今月に入り、既に7件以上の死亡事故が報告されております。海上保安庁の公式発表によりますと、単独または少数で海水浴を楽しむ利用者に事故が起こりやすく、周囲の利用客が気が付いた時には、既に沖合に流されているというケースもあるとのことでした―――】




「‥‥‥海水浴か‥‥‥最後は、いつだったか‥‥‥」


ラジオを聞きながら記憶を思い起こす。田舎育ちであったため、山や海といったものには恵まれていた。子どもの頃は山で遊んだり、近場の海や川で全身がずぶ濡れになるまで  遊んだ記憶がある。


「‥‥‥」


海で遊んだ最後の記憶―――波の音に混じる潮の匂い。海に揺られる海藻と周りに漂う色鮮やかな魚達。顔に張り付いた汗を手で拭い去りながら見上げた空と太陽。


―――あの日はとても暑かった。


海を純粋に楽しんでいた時代に感じたもの全てが、今では何よりも価値のあるものであったと知っている。


窓の外を見る。

つい1時間程前は煩わしいと思っていた太陽が、急に懐かしいものに見え始める。

人間とは感情1つで考え方が変わる単純な生き物ということを思い知らされる気分。

だが、今はそれくらいが丁度良いと思う。


「‥‥‥釣り道具でも申請してみるか‥‥‥」


受理されるかどうかは別として、誰もいない離島で釣りをするというのも悪く無かった。

もしかしたら大物が釣れるかも知れない。


想像を膨らませつつも、手元の日報は丁寧かつ事細かに記載する。仕事が少ない分、任されていることについては手を抜かないように心掛けていた。


「後は掃除と設備の点検を‥‥‥‥‥‥」


日報を片付けた直後、先程拾ったハンカチの事を思い出していた。自分のものでは無いのでいつまでも身につけているわけにはいかないと思い、上着のポケットから取り出す―――指に湿り気を感じた。


「‥‥‥?」


頭の何処かで違和感を感じながらも、手の動きに任せてハンカチを引き抜く。


「なっ!?」


驚いた拍子にデスクの上にハンカチを放り出してしまった。デスクの上で軽い音を立てながら乱れる布―――じっとりと濡れたハンカチ。






布の間に、人の髪の毛が何本も絡まっていた。






「はぁ!?えっ‥‥‥!?‥‥‥いや、俺じゃない‥‥‥」


混乱のあまり、自分でも訳の分からない事を口にする。

最初は上着のポケットに自分の髪が紛れこんでいたのかと考えたが、直ぐに否定する。

それでは説明が付かない程の本数と長さであったからだ。誰が見ても直ぐに女性のものと分かる。

誰かが入れたのか―――いや、ありえない。

上着は灯台守として赴任してから使用を始めたもの。元は新品であり、使用や管理も自分1人で行っていた。悪戯目的であったとしても、他人が髪の毛を仕込む余裕が無い。


そうなると考えられることは2つ。

元から仕込まれていたか―――それ以外の外的要因か。


いつまでもそのままにしておく訳にはいかないので、適当な袋に入れて口をしっかりと縛る。

袋越しでも触りたくは無かったが、ハンカチの入った袋は部屋の外にある設備室の隅に置いておくことにした。

簡易的な給湯室で手を洗い、部屋に戻ってきた後はそのままソファへと腰掛ける。


「給料分とはいえ、これでは身が保たない‥‥‥」


胃の上部に締め付けられるような痛みを感じつつ、深い溜息をつきながら瞳を閉じる。


灯台守の仕事を始めてから奇妙な出来事が続いていた。

桜井との話し合いの機会を貰ったが、結局は向こうの言い分で押し切られる形になってしまった。

契約書類には“(・)想(・)定(・)外(・)の(・)現(・)象(・)が(・)起(・)こ(・)る(・)場(・)合(・)が(・)あ(・)り(・)ま(・)す(・)”(・)と記載されていた事と、著しい精神的ストレスが生じる程の現象が確認された場合は、別途で報酬を上乗せするという旨が記載されていた事が決め手となった。


「見ていた筈なんだがな‥‥‥」


前職の仕事柄、書類にはしっかりと目を通す習慣が付いていたため、見落としは無かった筈だと時々考えることがある。それも雇用契約に関する事ならなおさらだ。

自分の行動ながら腑《ふ》に落ちないが、今は無理矢理納得するしか無い。正式な話し合いを経て、再び同意することを選んでいたのだから。


「‥‥‥‥‥‥考えていても気が滅入るな‥‥‥」


嫌な予感を感じつつも、だからといって何が出来るという訳でも無い。

沈んだ思考を変えるため、少しでも明るいニュースは無いかと他の番組を探し、気晴らしを図る。






【ブツッ ザァーーーーーー】






【ーーーブツッ―――た。続きまして―――】






適当に周波数を合わせると聞き覚えのある声が聞こえてきた。以前はあまり興味の無い番組であったが、適当に聞き流す分には気にならない程度には慣れていた。それに、ニュース番組よりも明るい話題がありそうだと期待していた部分もある。






【ラジオネーム、スズキコウヨウさんからのお手紙です―――はじめまして、スズキコウヨウと申します。今回のテーマが”海の思い出“という事であったので初投稿しました。私にはあまり人には言えないような経験をしたことがあります。一般的には恐怖体験や心霊現象などと呼ばれるものです。ただ、私にとっては忘れることの出来ない思い出です。あれは私が大学生の頃の話です。当時仲良くしていた女性と海に遊びに行くことになりました。とはいっても泳ぐ目的ではなく、砂浜と波を楽しむ程度の水遊びです。それでも私にとっては前日から眠れないほど楽しみでした。当日、私は彼女と約束した場所で待ち合わせを行い、2人で近くの海に向かいました。幸運にも天気に恵まれており、雲が少ない快晴であったと記憶しています。今でもその時の空気や暑さ、日差しの強さなども鮮明に思い出すことが出来ます】






ラジオから投稿者の”海の思い出“が読み上げられていた。前置きに恐怖体験とあったが、内容はありふれた青春模様を想起させるものであった。しかし、投稿者が当時付き合っていた女性と海に来たというところから話の風向きが怪しくなり始める。






【最初に感じた事は人気の無さです。時期や天候を考えると地方の海とはいえ、それなりに海水浴客がいる筈ですが、その時は静か過ぎるくらいでありました。一緒に来ていた女性は”貸し切りみたいでいいね“と笑っていましたが、私は何処か薄ら寒いものを感じていました。暫くはお互いに海を楽しむ事が出来ました。海という場所が少しだけ非日常感を与えてくれていたのでしょうか。楽しそうに波打ち際を走る彼女の姿と、その手を彩るリングの輝きは今でも覚えています。私も手元の銀色を彼女や太陽に透かして見ているうちに、最初に感じていた不安はいつのまにか何処かへ消えていました。異変を感じたのは遊び始めてから2時間程経った後の事です】


【彼女が、沖の方に女性が立っていると言い始めたのです】


【私はその言葉を聞いた時、一瞬意味が分かりませんでした。何故なら私には海の何処を見ても女性どころか、他の海水浴客すら見つける事が出来なかったからです。私は”何処で見たの“と尋ねましたが、彼女は何も言わずに俯くだけでした。私を怖がらせるための悪戯かとも考えましたが、それにしても様子がおかしいのです。本気で怖がっているのか、彼女の身体が震えていましたから】


【尋常な事では無いと考えた私は彼女を連れてその場を後にしました。その途中、何も話そうとはしない彼女を心配して振り向いた時、私も彼女が見ていたものを見てしまったのです】


【私の手の先にいる筈の彼女が、遠くの海でこちらを見ていました】


【私はそこでようやく彼女が話そうとしない理由が分かりました。私自身、叫びたい気持ちでしたが、彼女に動揺を悟られないように、後の予定を話題にして気を紛らわそうとしました。彼女は相槌を打ったり僅かに返事をするだけでしたが、少しでも気分を変えようとしていたのでしょうね。途中で立ち寄ったコンビニエンスストアでは笑顔を見せてくれていました】


【予定を変えて、町の方で遊ぶ事にしました。元々予定にはありませんでしたが、それなりに楽しんでもらう事が出来ました。予想外の事があったせいか、疲れの溜まっていた私達は夕方頃にはお開きにしようと決め、その場で別れることになりました。次回は何処に行こうかと話掛ける私に、彼女は震える声で言いました】


【ごめんね。多分、次は無いかもしれない】


【最初は嫌われてしまったのかと衝撃を受けました。ですが、違ったのです。私が嫌いになったのではなく、純粋に次が無いことを予感していたのだろうと思います。彼女の視線が、私の背後に向けられていましたから】


【次の日、彼女は姿を消しました】


【彼女の両親や警察が私に話を聞きに来ましたが、私にも何が起きているのか分かりませんでした。とにかく、彼女と遊んだ日のことを洗いざらい話すことしか出来なかったのです。彼女の両親や警察、そして私も彼女の事を探しましたが、残念ながら未だに帰って来ていないそうです】






ここで話は終わりかと思ったが、パーソナリティは一呼吸置き、再び手紙を読み始める。






【そして、ここから先は彼女の両親にも警察にも話していないことを書きます】


【彼女が姿を消してから、何度かあの時の海を訪れていました。彼女がいるかもしれないと淡い期待を持って、その度に裏切られていました】


【彼女の幻影を追いかけることに疲れ始めていた頃、当時遊んだ砂浜と海の見納めに来ました。彼女が姿を消してから何年も経っていましたから、彼女との思い出に決別するためにと、自分なりの理由を付けて】


【当時と同じ様に人気の少ない砂浜と海。そこに彼女がいたんです】


【遠くの海で、彼女が当時の姿のまま、こちらをじっと見つめて】


【その後の事は良く覚えていません。気が付いた時には、夕日に照らされた砂浜で倒れていました。どのくらいの時間、その状態であったのかは定かではありません。ただ、その時の私の手に握られていたリングは今も私の手元にあります。今では付ける事はありませんが、自宅のデスクの中で、彼女の思い出と共に静かに眠り続けています】


【―――とのことです。いやあ、なんと言いますか―――第三者としては思うことはありますが、恐らくスズキコウヨウさんもそれが分かった上で、このお手紙を投稿しているものと思います。ですので野暮な事は言いません”海の思い出“にふさわしい怖さと儚さを兼ね備えた内容であったと思います。決して明るい結末とは言えませんが、この手紙の内容を読み返すと、彼女とスズキコウヨウさんは2人の思い出に一区切り付けることが出来たのではないかと思いました。最後に彼女が今も安らかに過ごしていると信じて話を締めくくりたいと思います。ラジオネーム、スズキコウヨウさん。ありがとうございました―――続きまして、ラジオネーム―――】






「‥‥‥‥‥‥」


暫くの間、その場で動くことが出来なかった。


所詮は素人の投稿した話でしかない。内容によっては気味が悪いとは思うがその程度である。

しかし、心の奥底で何かが引っかかっている。決して他人事では無かった。


「‥‥‥いや、それよりも‥‥‥」


内面に沈み掛けていた意識は、設備室の隅に向かっていた。

敷地内で拾ったハンカチ。あれも海の方から風に流されてきたものであるとしたら。


「‥‥‥」


1日に数回は設備室に向かう必要がある。

その際に室内の隅を見るだけで良い。仮に良くないものであっても、何が出来るという訳では無い。寧ろ下手に興味を持って近づくからこそ、余計な事に巻き込まれる。

そんな事を考えながら周波数を調節し、他の番組を探す。ラジオも飯島の心情を察してか、その後は一昔前の邦楽を奏でる機械に徹していた。






――――――――――――――――――――






灯台守としての生活に何も変わりは無かった。

いつものように灯台の設備点検や清掃、報告や記録などの簡単な業務を繰り返す。

気が付くと、物資搬入の日が明日へと近づいていた。


「‥‥‥‥‥‥そういえば、明日確認しないと」


飯島は壁掛けのカレンダーを見つめながら思い出す。担当者から物資を受け取る際に、ラジオと釣具の申請が可能かどうか尋ねなければいけないと考えていた。仕事に直接関係の無いことなのでわざわざ電話を掛けてまで聞くことでは無いと考えていたが、娯楽の少ない環境においてはそれなりに重要なものであると灯台守は考えていた。休日というものが無い代わりに、業務さえこなしていれば他の時間は好きにしていても良いと説明を受けていたからである。この部分は話し合いの場でも再確認しているので特に咎められることでは無い。


「‥‥‥」


もうひとつ思い出した事がある。

設備室の隅に置いていた袋。正確に言えばその中身―――白いハンカチの事である。

最初は職員の忘れ物と考え、一時的に預かってはいたが、不気味な現象が起きていたため直ぐに目の届かない場所へと放置していた。

正直関わりたくは無いと思いつつ、設備室に行く度に視界の端には入れるようにはしていた。

無くなることも動くこともなく、いつも同じ場所にあるため、少しは安心していた部分もある。関わらなければ害は無い筈であると。

しかし、いつまでも同じ敷地内に置いていたくは無かった。職員の忘れ物であれば良し、そうでなくても引き取ってさえ貰えれば、不気味なハンカチを思い患う事も無くなるのだ。


「‥‥‥一度、確認しないと不味いよな」


嫌な事を思い出しながら深い溜息をつく。

設備室の隅に放置した経緯を考えるとそれは当然の事であった。

明日の朝、担当の人間にそのまま渡すことも憚《はばか》られる。なにしろ水気を吸っている上、人の髪の毛が挟まっているもの。受け取りを拒否されても困る。


「‥‥‥」


もう一度溜息をつき、重い腰を上げる。

嫌がる自分とは裏腹に、彼の足は設備室へと向かう。


数分もせず、設備室に入る。

見慣れた機械を横に通り過ぎ、部屋の隅に置いていた袋に手を伸ばす。触れる直前に僅かに躊躇うが、今更無視も出来ないと無理矢理身体を動かした。


「‥‥‥?」


袋を掴む手に抵抗を感じた。

袋が何かに引っ掛かっている訳では無い。

単純に想像していた重さよりも重かっただけ。


「!?」


反射的に手を離す。袋は音を立てて床に落ちていた。


「何で‥‥‥嘘だろ‥‥‥」


驚愕の表情を浮かべながら、ハンカチが入っている筈の袋を見つめる。異常を察知した瞬間から心臓が早鐘を打つ。


確かにハンカチを袋に入れていた。そして一度も触れることもせず、そのまま同じ場所に放置していた―――重さが変わる事など何もしていない。


「‥‥‥はぁ‥‥‥」


そのまま詰め所に戻り、鍵を閉めて閉じこもりたい気分であった。しかしそれは出来ない。

一度異常を認めてしまえば忘れることなど不可能であった。

飯島は腹の下に力を入れ、警戒しながらゆっくりと袋に手を伸ばす―――やはり重い。


「‥‥‥」


出来る限り見ないようにしながら設備室を後にし、詰め所へと戻る。

自分の生活圏内に入れたくは無かったが、薄暗い設備室よりは明るい部屋の中で検《あらた》める方が幾分かマシであると判断していた。


「‥‥‥‥‥」


部屋の中に入れた後、扉の近くに袋を置く。

何度か深呼吸を行い、覚悟を決めてからゆっくりと袋の口を解く。


「‥‥‥ぅっ!?」


袋を開けた瞬間、湿り気を帯びた脂の臭いが袋から漂っていた。思わず後退るが、鼻に入った臭いは中々振り払うことは出来ない。

不快な表情を浮かべながら、袋の中身を一瞥《いちべつ》する―――そして認識してしまった。






黒いもの―――髪の毛の塊であった。






「‥‥‥」


吐き気とともに嫌な想像が喉元まで上がってくる。思わず吐瀉物《としゃぶつ》とともに叫び声を出しかけたが、無理矢理口を閉じることで未然に防ぐ。

想像が当たっていれば、袋の中には―――


「‥‥‥‥‥‥っ、ふぅぅぅ‥‥‥」


全身を不快な汗で濡らしながら、黒いものが見えている袋に近づく。想像が当たって欲しいとは思わないが、それにしては袋が軽い―――知らず知らずのうちに、細い息が漏れる。


最悪の事態は免れるかもしれないという、混乱の中に見出した奇妙な安心感が、飯島の背中を押していた。

震える指で袋の端を掴み、ゆっくりと中身を露わにする。


予想は半分当たっていた。

袋の中には両手程の髪の毛が入っていた。奥の方には白いハンカチ。それ以外には何も無い。


「‥‥‥‥‥‥駄目だ、俺1人では対応できない」


恐怖を押し殺しながら袋の口を閉じる。視界には入れたくは無かったが、目を離すことはもっての他。そのまま扉の近くに置き、定時連絡用の電話で担当者に連絡を入れた。


短い呼出音の後、担当者が電話口に出る。






【こちら菅野です。何かありましたか?】


「お忙しい中、申し訳ありません。少し相談したい事がありまして。このまま宜しいでしょうか?」


【どうぞ。お聞きします】


「明日の物資搬入の際に担当者に話をしようかと思っていたのですが、前回の物資搬入の後、灯台から離れた場所にある崖の近くで白いハンカチを見つけたんです。最初は担当者の私物かと思っていたのですが、どうやら良くないもののようで」


【‥‥‥白いハンカチ?‥‥‥続けて下さい】


「はい、そのハンカチは恐らく手作りのものですが質の良さを感じました。よほど高級品か、もしくは手間暇掛けた作品かと思います。それだけのものを捨て置く訳にもいかず、こちらで預かることにしていたのです。ですが‥‥‥」


飯島は白いハンカチを預かると決めた後の事を事細かに話す。電話口の相手は口を挟まずに聞いていたが、息遣いの中に僅かな動揺が混じっていた。


「‥‥‥以上です。そのため、このように連絡をさせて頂きました」


【‥‥‥‥‥‥ご報告、ありがとうございます】


【‥‥‥1つ、お伝えしたいことがありまして】


「‥‥‥‥‥‥何でしょうか?」


【そのハンカチの持ち主に覚えがあります】


「‥‥‥‥‥‥続けて、下さい‥‥‥」


【飯島さんも何かを感じているかと思いますので、はっきりとお伝えします】






【そのハンカチの持ち主は、既に亡くなっております】






「‥‥‥」


【落ち着いて聞いて下さい‥‥‥実は、2週間程前に近くの海で事故が‥‥‥いえ、入水自殺がありました‥‥‥】


菅野が詳細を語り始める。

敷地内でハンカチを発見する一週間前、灯台がある島から少し離れた場所にある海岸で若い女性の水死体が見つかっていた。

警察の調べにより、県外に住む20代の女性であることが判明していた。更に身辺調査を進めると、その女性は数ヶ月前に長年付き合っていた男性と死別しており、その後、精神に異常をきたしていた事が分かった。


警察は女性の状況から自殺と断定していたが、その後も詳しい調査を続けていたとのことであった。

その中で、女性を知る人間から興味深い話を聞いたそうだ。話によると、付き合っていた男性から手作りのハンカチを贈られていたそうだ。

男性は服飾関係の仕事に就いていたが、体調を崩した事をきっかけに仕事を辞めていた。職を辞してからは自宅で病気療養の生活を送っていたが、死期を悟った男性は自殺した女性に最期の贈り物をしようと病床で一枚のハンカチを作成したそうだ。

―――それが、飯島の拾ったものと酷似していたらしい。


【話によると、自殺した女性はそのハンカチを肌身放さず持っていたそうです。ですが、遺体にハンカチが無かった事を考えると‥‥‥】


「‥‥‥分かりました‥‥‥明日、そちらにお渡ししますので、持ち主の方の手に渡るよう、手配をお願いします」


【承知しました。では、以上で宜しいでしょうか?】


「はい、ありがとうございます」


【それでは、失礼します】


通話を終える。

今しがた菅野から聞いた話で寒気を覚えていたが、それでも得体の知れない恐怖とまではいかなかった。


「‥‥‥早く、持ち主の元へ帰れると良いな‥‥‥」


先程までは不気味であった筈のハンカチに同情する気持ちが湧く。

人助けとは言えないが、それに近いものが出来るという、小さな達成感のようなものを感じていた。






――――――――――――――――――――






翌日。

物資搬入の担当者にハンカチの入った袋を手渡した。流石に中身に触れる勇気は無かったのでそのままの状態であったが、担当者は事情を知っていたため驚く事もせず、持参したケースへと丁重に移していた。

警察には既に連絡しており、詳しい調査やお祓いを終えた後、本人の元へと戻る手筈となっていた。


「それでは、物資の搬入は以上となります。それと、ラジオと釣具の件に付きましては数日中には連絡します」


「はい、宜しくお願いします」


担当者を見送り、灯台へと戻る。

曰く付きのハンカチを処理することが出来たので、とりあえずは胸を撫でおろしていた。

灯台の中に入り、階段を上がる途中で昨夜の夢について思い出す。


「あの女は一体‥‥‥まさか、な‥‥‥」


脳裏には面識の無い女性の姿がぼんやりと残っていた。

黄色い蝶の翅《はね》のような花を二輪、手に握りしめていたような気がしたが、次第に彼の記憶から薄れていく。




―――忘れてしまった方が、幸せな事もある。




















【〇〇〇〇について 調査報告書】


〇〇年〇月〇〇日




担当者:〇〇〇〇


〇〇年〇月〇〇日。〇〇県〇〇〇〇海岸で発見された女性について。

当時は極度の神経衰弱による自殺として処理された本件ではあるが、その後の調査で不可解な事実が判明している。


1つ目は女性を取り巻く人間関係について。自殺の理由として、当時交際していた男性の死別が原因とされていたが、その男性とはトラブルがあった事が後の調査で判明している。

死別した男性には自殺した女性以外にも深い親交があった女性(以降Aさんと記載)の存在が確認されており、男性が亡くなる直前に女性とは激しい口論があったとされている。この件については極一部の知人が把握しており、男性と女性に配慮して口を噤んでいたそうだ。

『死んでも許さない、必ず貴方も相手の女もまとめて地獄に引きずり込んでやる』と怨嗟の籠もった言葉が印象的であったそうだ。


2つ目は警察に提出された遺品について。遺品の出処については海上保安庁の管理している灯台周辺で発見されたものであり、発見者は事件とは無関係であるものと判断がなされている。提出されたものは袋に入ったハンカチと人の体毛と思われるものであり、この時点でこの調査の異常性が浮き彫りとなっている。

その後の調査でハンカチは自殺した女性のものであると判明しており、適切な処置がなされた後に遺族へと返却されている。


一方、一緒に混入していた体毛については説明が付かない部分が多い。

袋に入っていた体毛は3人分の男女のものであり、1人は自殺した女性のもの。そして、男性とA氏のものであることが判明した。

その後も追跡調査を行ったが、3人の死についてはそれぞれ事件性は無いものと判断が下されており、今回提出された物品についても関連性は低いとされている。


以上の事について警察内部でも様々な意見があったそうだが、遺族から詳しい調査は望まないという強い意向があり、本件は自殺として最終的に処理されている。


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