『1ヶ月目』
灯台守の仕事を初めて1ヶ月が過ぎた。
最初は仕事に慣れていなかったため、新しい職場に慣れる事自体に心身をすり減らしていたが、30回近く同じことを繰り返していると頭も身体もすっかり順応するものである。
”慣れた時期こそ失敗があるもの“と、ほどよい緊張感を保ちながら慣れてきた作業を淡々とこなす。意外にも灯台守という仕事が自分には合っていたのではないかと考えるほど、仕事にのめり込んでいた。
「合わない人間にはとことん合わないのだろうが‥‥‥俺にはこのくらいの仕事が丁度良いのかもしれないな‥‥‥」
日没前の定時連絡を終える。灯台の明かりが、夜から朝に掛けて海を漂う船の目印として働く。これからが本番といっても過言では無い。
とはいっても飯島に課された仕事はそう複雑なものでは無かった。
一昔前は照明の管理や修繕などの作業があったが、今ではその必要性も薄くなっていた。自動化が進んだ結果らしいが、飯島にはその事情は詳しく分かってはいない。ただ、時折入る無線の確認と目視による海の異常を知らせる事。後は定時連絡と日報の記載、敷地内の清掃などが彼に課された仕事の全てである。
自動化が進んだ現代において、特に大変な仕事という訳では無いが、少なくとも人を選ぶ仕事である事は確かであった。単純な作業の繰り返しとはいえ、決して手を抜いて良いものでは無いからだ。
「さて、これからが本番だ‥‥‥」
水平線に沈んでいく夕日を見つめながら気を引き締める。ここからが実質的な仕事の始まり。
今日もまた、長い夜が来る。
――――――――――――――――――――
時計の針が頂点を越えた頃、異変は起きた。
【です―――続きまして次のニュースです。○○半島で起きた地震から約1ヶ月が経過しましたが、今もなお地震による爪痕が大きく、復興作業がつぅァァァァアアーーザーーーーー】
「何だ、電波が‥‥‥」
夜の海を眺めていた飯島は、突如ラジオから聞こえてくるノイズに眉を顰める。
電波の入りが悪くなったのかと思い、ラジオに手を伸ばす。アンテナの角度を変えたり、周波数を微調整するが、先程のニュース番組の周波数には合致しなかった。
【ザァーーーーーー】
【ーーーーーーーー】
【ーザザッーーーー】
【ーーーーーーーー】
【ーーーーーーーー】
【ーヴゥーーーーー】
【ゥーーーーーーー】
【ゥウーーーーーー】
【ーーーーーーーーゥゥウーーー】
「五月蝿いなぁ‥‥‥一体何の‥‥‥」
ざらついたノイズが途切れ、無機質なブザー音に変化する。頭にこびりつく不快な音に苛つきを感じ始めた頃、ブザー音の裏に何処かで聞いた事のある音が混じっていることに気がつく。
【ウゥゥゥーーーーーーーーーーー】
「‥‥‥いや、これってまさか‥‥‥?」
自分は直接聞いた事は無いが、映像記録で耳にしたことがある音。空襲警報というものに近い。人々の不安を駆り立てる不快な警告音がラジオから流れていた。
「おい‥‥‥気持ち悪いな‥‥‥どこか壊れているんじゃ‥‥‥」
本来命を守るための音が、飯島の心をざわつかせる。人がいる場所でも聞きたくは無いが、独りでいる時はなおのこと聞きたくないものであった。
周波数を調整するが音は続く。不安が苛立ちと並んだ瞬間、彼はラジオの電源を切った。
【ブツッ】
「‥‥‥はぁ‥‥‥何だったんだよ、まったく‥‥‥」
波の音だけが響く、聞き慣れた静寂が戻ってきた。
ラジオは少しだけ我慢し、夜の波の音に耳を傾ける。今日は雲が出ているが概ね晴れていると言っても良い天気。海も穏やかであり、岸壁に当たる波の音が、遠くの方から灯台守の耳にまで届いていた。
「‥‥‥」
波の音をBGMにしながらテーブルに置いていた読みかけの小説を手に取る。酒好きの文豪が書いたとされる、老人の孤独な戦いを描いた作品。灯台守はこの作品を愛読していた。
若い頃に出会ってから何度も読み返したが、決して飽きることは無い。ページをめくる度に物語の情景が頭に思い浮かぶ。年を取った今ではなおさらだ。衰えた身体と海の仕事。自分と重ねてみると、年甲斐も無くまだやれるのでは無いかという気持ちさえ感じられるほどであった。
「‥‥‥‥‥‥ああ、駄目だ‥‥‥」
集中する事が出来ず、本を読む手を止める。
愛読書をテーブルに置き、窓の方へ向かう。
無視を決め込むことも限界であったからだ。
「一体何が起きているんだよ‥‥‥聞いてないぞ、こんな事は‥‥‥」
夜であるため禄に目視は出来ないが、それでも確認しないわけにはいかない。
何故なら波の音に混じって人の声が聞こえていたからだ。
だが、遭難したという情報や救助要請などの連絡は無い―――つまり、近くの海で異変は起きていないのだ。
「‥‥‥おかしいだろ‥‥‥ここは離島だぞ‥‥‥人がいる訳なんて‥‥‥」
ありえないと考えつつも、双眼鏡を手に灯台周囲の海を見渡す。万が一、船から投げ出された人間が灯台に辿り着いたなんて事があれば報告義務がある。
しかし、レンズを通して網膜に入る光景は只々暗い海。たまに月の光に照らされて波間が見えるが、目立ったものはその程度。飯島が気にしているものでは無い。
「‥‥‥‥‥‥気のせいか‥‥‥何だ、俺が疲れていただけ‥‥‥」
胸を撫でおろしながら双眼鏡を下げる。
これ以上の異変は無い―――海から目を逸らした一瞬、見てしまった。
―――波の間に手が生えている
「‥‥‥ぃっ!?」
窓から後退る。弱々しい月明かりに照らされた海の一部分から、明らかに人の手が見えた―――何本もだ。
助けを求めていると仮定しても、あまりにも無機質な存在感―――到底生きているものとは思えなかった。
全身から吹き出る不快な汗を自覚しながら震える両手に喝を入れ、再び双眼鏡を目に当てる。
「‥‥‥いない‥‥‥どこにも‥‥‥」
早鐘を打つ心臓の音を煩く思いながらも、安堵の息を吐く。
見間違いだった―――そう安心した直後、背後から不快な音が聞こえてきた。
【ブツッ】
【ゥーーーーーーー】
【ゥウーーーーーー】
【ーーゥゥウーーー】
【ウゥゥゥンーーー】
【ゥゥゥウウーーー】
「うわぁっ!?」
空襲警報が鳴り響く。
耳をつんざく警報音に気圧され、気が緩んでいた身体が制御を失う。
窓際のデスクに手を伸ばすが間に合わず、そのまま後ろに倒れ込んでしまった。
「ぐぅっ‥‥‥痛ってぇ‥‥‥」
したたかに腰を打ってしまい、すぐさま立ち上がる事が出来ない。だが不快極まりない音を断つべく、這うようにラジオへと身体を進める。
「ああっ‥‥‥くそっ‥‥‥いい加減にしてくれよっ‥‥‥畜生っ‥‥‥」
自分の情けない姿に腹が立つと同時に、不安を煽り続けるラジオに苛立ちが爆発しそうになっていた。
「いい加減、止まれってんだっ!」
ラジオを掴み、電源を入れる。
当然、音は鳴り響いている。
「はぁ!?‥‥‥こ、このっ‥‥‥」
ラジオを壊さんばかりに電源をガチャガチャと動かすが、一向に音が止まる気配が無い。
半ば錯乱しながら同じ行動を繰り返していると、外から不可解な音が聞こえてくる。
けたたましく鳴り響く音源が手元にあってもなお、聞こえてくる音。
―――びたびた、びたびた、びたびた
子どもの頃を思い出す。
水に濡れた手で乾いたコンクリートの上に手を当てた時のような音―――今まさに、同じ事をしているものが沢山いる。
「ぃぃっ‥‥‥」
声無き声をあげ、手元のラジオを放り投げる。
遠くの方で金属とプラスチックの当たる音がするが、今はそれどころでは無い。反射的に窓の方を見る。
―――ぶよぶよ、ぎょろぎょろ
蛙の卵 人の顔が
いくつもいくつも
こちらを見ていた
――――――――――――――――――――
【‥‥‥リリン‥‥‥ジリリリリリリリリ】
「‥‥‥‥‥‥っ‥‥‥くっ‥‥‥五月蝿いな‥‥‥」
飯島は電話の音で目を覚ましていた。
重たい頭を抱えながら、ゆっくりと身体を起こす。腕や背中‥‥‥特に腰が痛い。
ぼんやりする頭で周囲を見渡し、音の元を見つけた―――そして自分が勤務中であった事を思い出す。
「あ、連絡を‥‥‥」
時計の針は3時を過ぎていた。
予定されていた定時連絡は3時―――つまりこの電話の音は、連絡を行わなかったために鳴らされているものであった。
痛む身体を引きずりながら電話を取る。
謝罪から入り、定時連絡をしていなかった理由を正直に告白した。叱責を受けるかと思いきや、体調不良や怪我の有無などを心配されてしまい、別の意味でも申し訳無くなってしまった。
【意識を失っていた‥‥‥眠っていたということですか?】
「そう取られても仕方がありません‥‥‥重ね重ね申し訳ありませんでした」
【そうですか‥‥‥いえ、貴方が勤務を怠ったとは思っていませんのでご安心を。他に変わった事はありませんか?】
「‥‥‥‥‥‥少し、言いづらい事ですが‥‥‥」
【構いませんよ。その様子から察するに、至って真面目な話なのでしょう‥‥‥どうぞ】
「ありがとうございます‥‥‥‥‥‥私自身、未だに信じる事が出来ないということが本音ですが‥‥‥夢‥‥‥であれば一番良いとすら思っています‥‥‥ただ、ふざけてこんな事を話している訳ではありません‥‥‥」
【‥‥‥続けて下さい】
「‥‥‥覚えていることだけをお伝えしますが、あれは0時の定時連絡を終えた後の事です‥‥‥仕事の合間に聞いていたラジオから変な音がして‥‥‥」
飯島は自身の体験した事をできるだけ客観的に伝えていた。いかに奇妙な事が起きていたかを正確に知ってもらうためである。
只の妄想と片付けられても構わない、寧ろその方が彼にとっては一番ありがたい結末だ。
だが、窓際に落ちている双眼鏡や部屋の隅に転がっているラジオが彼の逃げ場を塞いでいた事も事実。
事細かに話し終えた後、短い沈黙が続く。
【それは貴方の妄想、いや夢であったのでしょう。疲れが溜まっているのではないでしょうか?】
そう、言われた方が幾分か気が楽になるというもの―――しかし、答えは更に奇妙なものであった。
【なるほど‥‥‥今回もまた‥‥‥】
「今回も?‥‥‥一体どういうことでしょうか?」
【‥‥‥申し訳ありませんが、この場ではお話出来ないことです‥‥‥ただ、今日は何も起きないでしょう‥‥‥それだけはお約束できます】
「‥‥‥何か知っているのですか?」
【否定はしません‥‥‥後日、担当の者を向かわせますので、そこでお尋ね下さい】
「待って下さい‥‥‥そんな事は聞いていませんが‥‥‥」
【隠していた訳ではありません。契約書にも書かれていた筈ですから‥‥‥ですが、説明は必要でしょう‥‥‥】
「‥‥‥‥‥‥はい、説明して頂かない事には安心できません‥‥‥今日は、それで納得します」
【ご理解、ありがとうございます。それでは引き続き宜しくお願いします】
「‥‥‥‥‥‥一体何が起きているんだ」
通話の切れた電話を受話器に戻す。
重たいものを胃の中に抱えたまま、ソファへと身を沈める―――次の連絡は6時。それまでは軽く眠る事が出来る。
経験したことの無い勤務態勢であったが、早い段階で身体が慣れてきていた。定時連絡の合間に仮眠を取り、目覚まし時計で定時連絡の前に起きる。何かがあれば今のように連絡が入るが、音が大きいため直ぐに目を覚ますことが出来る。中々、辛い仕事環境とも言えるが、肉体労働や頭を使った指示飛ばしもないため、飯島にとっては苦にはならなかった。
「‥‥‥」
首だけを動かし、窓の方へと視線を向ける。窓には何も無かった。あるものは床に投げ出されている双眼鏡のみ。不愉快な音も気配も何も無い。
今はただ、静かに波の音が聞こえるばかり―――
「‥‥‥‥‥‥はぁ‥‥‥」
深い溜息を付き、天井を仰ぎ見る。
自分は金に釣られて危ない仕事に手を出してしまったのではないかと考える。意識を失う前に見たものは明らかにこの世のものでは無い。
年齢も性別も判別が付かない手の塊。
彼らは何かを訴えようとしていたが、その声は
ぎしぎし、ぎしぎしと噛み口を打ち鳴らす、虫の鳴き声に近いものであった。
恨み、妬み、悲しみ、怒り―――もしかしたら、助けを求めていたのかもしれないと思う。
生理的嫌悪感を抱かせる音の中に、ひとつだけ意味のある音が混ざっていたような気がしてならないからだ。
―――“どうして?”
「‥‥‥‥‥‥」
思い出した瞬間に思考を止め、瞳を閉じる。
飯島は現実から逃避することを選んでいた。




