『過去』
偽りばかりの人間関係に疲れた飯島は、上場企業と呼ばれる会社を辞め、自然しか無い地元へと戻っていた。
若い頃は何も無い故郷が嫌になり、半ば衝動的に上京したものだが、老境が見えてくると嫌いであった風景や空気がかけがえのないものであったと理解する。
帰ってきたというよりも、勿体ないことをしたという感情が胸に広がっていた。
実家に帰るとそこは既に更地になっていた。両親の顔は禄に思い出せないが、ここに住んでいたという記憶だけは頭にこびりついて離れない。
家の玄関があった場所から少し歩く。夏場に花火をした庭、昔飼っていた犬の小屋があった場所、四季折々の草花が生えていた場所など―――それらを俯瞰で見ている自分がいる。
「かけがえの無いものだったんだな‥‥‥」
不思議と涙は出なかった―――全ては過去のこと。只々胃が重いと感じる程度の感傷。
もとより目的はここでは無いのだ。
―――踵を返す。
過去は背中に―――先の見えている未来へと歩みを進めなければならないのだ。
「そろそろ、時間か‥‥‥」
待たせていたタクシーに乗り、再び目的地へと走らせる。
数日前に偶然紹介してもらえた仕事。飯島はその面接を受けるため、町中にある指定のビルを目指していた。
「灯台守なんて初めてだが‥‥‥俺に出来るか‥‥‥いや、どうせ駄目だろうな‥‥‥」
地元でも数少ない信号機が青になるまで先週の出来事に思いを馳せる。
くたびれた中年に何が出来るのであろうかと思いつつ、心の底では確かな期待が燻っていた。
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紹介されていた仕事は灯台の管理人。
数ヶ月前に地元に戻ってきてから求職活動をしていた所、たまたま職業紹介事業所にいた海上保安庁関係者を名乗るスーツ姿の男に声を掛けられた。最初は公務員かと思ったが、話を聞いていると委託された会社の社員だと言う。きちんと名刺もあり、しっかりとした会社であることも裏付けが取れていた。何故自分のような中年に声を掛けるのかと尋ねると。
『第一印象です。真面目で仕事を投げ出さない方を求めていましたから。私の見た所、貴方は会社の中でも重い責任を担う位置に在籍していたのではありませんか?仕事柄、そういった方々を見ているので、この目は確かだと自負しております』
スーツ姿の男―――桜井英二はとても丁寧ではあったが、自分の言葉に絶対の自信がある人間特有の語り方―――つまり、男が何よりも苦手とする人種であった。
『まあ、当時の部下から見たらそうかもしれません。ただ、私としては中間管理職のようなものとしか思えませんでしたがね』
『謙遜もあると思いますが、客観的に見る事の出来る人材はどこでも必要とされていますから。こちらに仕事の概要が書かれております。興味がございましたら、記載された連絡先にご一報下さい』
『はぁ‥‥‥ありがとうございます』
そこで桜井とは別れたが、後で確認した概要には驚かされた。何故なら休みが無いと明記されているからである。
法を犯しているとしか思えない―――だが実働時間は一般的な仕事の半分以下であり、最終的に手に入る金額が前職の数年分に匹敵するものであった。
―――期間は1年。月々給与は振り込まれるが、基本的に外出は出来ない。嗜好品は給与天引きで購入可能。1年の期間が明けた後は再び面接を行い、それなりの高給で別の仕事を斡旋すると記載されていた。
次の仕事を斡旋してもらうかはまだ考えられないが、当面の生活費は稼ぐことが出来る。何より仕事が魅力的であった。
『1人で管理しなければならないが、バックアップ体制はしっかりしている。それに仕事も1日数回動くだけで、後は簡単なデスク作業か‥‥‥楽しみの無い孤独な仕事だが、今の俺には丁度良いな』
疲れ切った男には願っても無い高待遇。立地的には気になる部分はあったが、こちらもそこまで問題とはしていなかった。
『絶海の孤島‥‥‥まあ、陸は見えるし、生活には不自由はしないだろう』
職場はとある県の沖合にある島。
沖合といっても陸地から見える場所にある。ただ、移動には小型の船舶が必須。灯台のある島の周りには特殊な流れの海流があり、泳ぎは勿論、マリンスポーツ用のボートやエンジンの付いていない小舟では近づく事が難しい場所であった。
『定員は1名‥‥‥仕事も1人か‥‥‥今の俺にはいいかもしれんな‥‥‥』
桜井から受け取った書類にざっと目を通した後、記載されていた連絡先に電話を掛ける。
最初のコール音が鳴り終わる前に相手と繋がった。
名前を名乗り、職業紹介事業所で桜井と名乗る男性から仕事の紹介を受けたと伝える。
電話口の男による丁寧な応対と短い保留音の後、数時間前に聞いた男の声が聞こえ始める。
直接遣り取りをした相手であるため、面接の話まで滞りなく進んだ。
『それではお待ちしております‥‥‥問題がなければ、恐らくご期待に添える結果になると思いますよ』
通話を終える直前、意味深な言葉を先方から告げられる。面接すら受けていない段階で採用を匂わせる言葉が気になったが、あまり期待せず面接当日を待つことにした。
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「もしかして、面倒な事に巻き込まれそうになっているのか‥‥‥?」
青信号を頭上に通り過ぎ、見慣れた風景を流し見る。あまりにも都合の良い展開に流されていたが、ふと自分が取り返しの付かない事に足を突っ込んでいるのではないかという不安がよぎる。
好調に物事が進んでいる時に限って躓くという事は嫌と言う程経験してきた。こればかりはいくら気をつけていても起きる時は起きるもの。自分の預かり知らぬ場所でも他人が持ってくることもあるためだ。
せいぜい自分に出来る事と言えば、被害を早期にかつ最小に留めること。ただ、大抵は被害が拡大した後に持って来られるため、火消しに回ることが殆どであったが。
「‥‥‥前に比べたらまだマシな方だな‥‥‥」
不安を振り払う。なにしろ仕事を斡旋されたとはいえ、まだ働くとは決まっていない。今から心配した所で仕方がないという気持ちがあった。
「合わないと思ったら直ぐに辞退したら良いんだ」
自分に言い聞かせるように独り呟く。目的地までは20分以上は掛かる。その間、久方ぶりの地元をドライブすることも悪くは無い。
「‥‥‥‥‥‥灯台守か‥‥‥‥‥‥今時、珍しいよな」
飯島の呟きに返事を返す人間は、誰一人いなかった。




