第8話 時間を稼げ
夜、ラシードが宿に来た。
扉を開けて、そのまま入ってきた。顔が険しかった。
「戦争が始まった」
英語だった。
「知ってる」
「空爆は政府軍基地を狙ったものだ。この街に基地がある。つまり——」
「この街が戦場になる」
「そうだ。地上部隊が来る。早ければ明日の朝」
ラシードはジョンとヴィクトルを見た。
「お前たちは出ろ。今夜中に」
「断る」
「理由を聞かせてもらえるか」
「まだ逃げていない人間がいる」
「逃げ切ったとして、お前たちは」
「残る」
「何のために」
「時間を稼ぐ」
ラシードは少し間を置いた。
「食い止めるつもりか」
「食い止めるのは無理だ。それは分かってる」
「では」
「一分でも稼げれば、その分だけ遠くへ逃げられる。ファリスたちが安全圏に着くまで、一秒でも稼ぐ」
「……二人で、か」
「二人だ」
「素手で」
「銃は持っていない」
ラシードは長い息を吐いた。
「……俺の部隊は基地の防衛に回る。民間人まで手が回らない」
「分かった」
「お前たちが逃がすというなら——検問は通す。一時間、北の道を開ける」
「ありがとう」
「礼はいい。生きて出ろ」
ラシードは出ていった。
それから夜明けまで、二人は動き続けた。
アブ・サリムには宿の合鍵を渡された。ファリスは泣くまいとしながら、一瞬だけジョンに抱きついた。カリームは深く頭を下げた。ウンム・ハリドは最後まで「店を置いて行けない」と言い張ったが、ヴィクトルが「香辛料さえあればどこでも店ができる」と言ったら、黙って荷物をまとめ始めた。
出がけに、老婆はジョンの手を握った。
「生きて帰って来い」
「約束する」
一人ずつ、送り出した。
声をかけられる人間には全員かけた。動けない者には車を手配した。夜が明ける頃、市場の広場に二人だけが残った。
人がいなかった。
屋台が空だった。
石畳に、昨日の空爆の跡がついていた。
「出し切ったか」
「声をかけられる人間には全員かけた」
「十分だ」
ヴィクトルが空の街を見た。
「勝てない戦いに残る。これがお前の戦い方か」
「時間を稼ぐだけだ。勝つ必要はない」
「……一秒でも、か」
「ファリスたちが安全圏に着くまで。それだけでいい」
ヴィクトルは少し考えた。
「三十年、傭兵をやった。誰かを逃がすために残ったことは、一度もなかった」
「……」
「悪くない」
エンジン音が聞こえてきた。
車両が街に入ってきた。
三台。荷台に武装した人間が乗っている。
降りてきた。数えた。十二人。
「時間を稼ぐだけだ」
ジョンは言った。
「分かってる」
「倒す必要はない。足を止めさせれば——」
「分かってると言った」
十二人が近づいてくる。
戦闘が始まった。
ジョンは流れで動いた。一人目の銃床を外側に流した。体ごと回して二人目に叩きつける。三人目の膝が来た。沈んで躱す。立ち上がりざまに肘を顎へ。
止まらない。流れを切らない。
四人目と五人目が同時に来た。右を外した。左は受けた。吹き飛んだ。石畳に叩きつけられた。
立った。
ヴィクトルは圧で動いた。一人を掴んで二人目に叩きつける。三人目の銃口を捻り上げる。四人目が背後から来た。後頭部を肘で打つ。前のめりに崩れた。
五分で、六人が地面に転がった。
残り六人が距離を取った。銃を構えた。
にらみ合いが続いた。
その時、別のエンジン音が来た。
音が違った。重い。大きい。
ハンヴィーが三台、街の別の入口から入ってきた。
降りてきた人間の動きが違った。
装備が違った。
ジョンには分かった。
正規の特殊部隊だった。アメリカの。
武装集団の男たちが、新たな勢力に銃口を向けた。特殊部隊側も銃を構えた。
ジョンとヴィクトルは、その隙に距離を取った。
銃声。
二つの勢力が交戦し始めた。
一方的だった。
二分もかからず、武装集団は制圧された。
広場に静寂が戻った。
特殊部隊の一人が近づいてきた。
指揮官だった。四十代。大柄。顎に傷跡がある。ヘルメットを外した。
ジョンを見た。
一秒。
二秒。
目が、大きくなった。
「……騎士殿」
英語だった。
声が、わずかに上ずっていた。
ジョンは、その男を見た。
見覚えがあった。
山岳地帯。ヘリが降下してくる空。敬礼してきた男だった。
あの時は、同じ方向を向いていた。
今は——
「こっちが侵攻側か」
ジョンは言った。
英語だった。感情のない声だった。
指揮官は、一瞬言葉に詰まった。
「……任務です。我々は——」
「国の命令で動いている」
「はい」
「国が、ここを攻めろと言った」
「……はい」
ジョンは、少し間を置いた。
「……だから嫌なんだ」
日本語だった。
小さく、呟くように。
ヴィクトルには聞こえた。
「何と言った」
ロシア語だった。
ジョンは英語に戻した。
「国に仕える理由が、俺にはない」
「……今のが、その理由か」
「ああ」
ジョンは指揮官を見た。
「一つ頼みがある」
「何でしょう」
「民間人の避難ルートを確保してくれ。北の検問を開けておいてほしい。まだ移動中の人間がいるかもしれない」
「……了解しました。確認します」
指揮官は無線を取り出した。
ヴィクトルが、ジョンの横に来た。
ロシア語で、小声で言った。
「国に仕えると、どう変わる」
ジョンは前を向いたまま答えた。
「守る対象が、国に決められる」
「……」
「国の意思で動く。目の前の人間ではなく、国が指定した人間を守る」
「……」
「あの男は悪い男じゃない。だが今日は俺の敵だ。国がそう決めたから」
ヴィクトルは、指揮官の背中を見た。
無線で話している。命令に従っている。
「タイでも、そうだったのか」
ジョンは答えなかった。
しばらく黙っていた。
「……組織にいると、守り方が変わる」
「どう変わる」
「守れるはずの人間が、守れなくなる」
それだけ言った。
それ以上は言わなかった。
ヴィクトルは押し込んだ。
聞き返さなかった。
「……そうか」
それだけ言った。
指揮官が戻ってきた。
「北の検問、一時間開けます」
「ありがとう」
ジョンは歩き出した。
北へ。まだ逃げ遅れた人間がいるかもしれない方向へ。
「どこへ行く」
指揮官が聞いた。
「確認に行く」
「我々が——」
「お前たちは任務がある。俺には任務がない」
指揮官は、その背中を見た。
血まみれの黒いジャケット。赤く染まった白いマフラー。
足を引きずっている。それでも止まらない。
隣に、大柄な男が並んだ。破れたスーツ。
二人は、空の街を歩いていった。
指揮官は無線を取った。
「……報告する。現場にジョン・ドゥという人物がいた。所属不明。身元不明。民間人の避難を支援していた。以上だ」
無線の向こうが騒ぎ始めた。
指揮官は、それを聞きながら——二人の背中が路地に消えるのを見ていた。




