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第7話 瓦礫


 最初の爆発は、午後二時に来た。

 音ではなかった。

 最初に来たのは、揺れだった。地面が腹の底から突き上げるような揺れ。次の瞬間、音が追いついてきた。

 それから、空が割れた。

 ジョンは市場の外れにいた。

 ファリスと、屋台でナンを食っていた。

 爆発音と同時に、屋台が吹き飛んだ。爆風に弾かれて、地面に叩きつけられた。耳が鳴った。煙が広がった。

 起き上がった。

 右目で空を見た。

 二機。低空。旋回している。次が来る。

 「ファリス」

 煙の中に声を飛ばした。

 「ここ——ここにいる」

 咳き込みながら声がした。

 駆け寄った。地面に倒れている。足首が腫れていた。

 「立てるか」

 「痛い」

 「骨か」

 「分からない」

 抱え上げた。左肩が悲鳴を上げた。構わなかった。

 二発目が来た。

 市場の中心部に着弾した。爆風が壁を揺らした。石が降った。熱が来た。

 悲鳴が上がった。複数の声。

 ジョンはファリスを壁際に下ろした。

 「動くな。ここを動くな」

 「でも——」

 「動くな」

 走った。

 市場は、地獄だった。

 屋台が吹き飛んでいた。石造りの建物の壁が崩れていた。人が倒れていた。立っている人間が、倒れている人間を助けようとして、どうすればいいか分からずに立ち尽くしていた。

 煙の中を走った。

 瓦礫の下から声が聞こえた。

 老婆の声だった。ウンム・ハリドだった。香辛料屋の老婆。

 「いるか。返事しろ」

 アラビア語ではなかった。

 日本語だった。

 余裕がなかった。言葉を選ぶ時間がなかった。

 「……いる。足が挟まって——」

 声が聞こえた。

 「動くな。今行く」

 瓦礫に手をついた。石が鋭かった。手のひらが切れた。血が出た。構わなかった。

 どかした。重かった。どかした。また切れた。どかした。

 三発目が来た。

 近かった。

 爆風が直撃した。体が吹き飛んだ。壁に激突した。背中から。息が抜けた。

 一秒。

 二秒。

 立ち上がった。

 「クソッ」

 日本語だった。

 空を見上げた。機体が旋回している。次の投下ポイントを探している。

 「ここは民間人しかいねぇだろ!」

 誰にも聞こえない。届かない。分かっていた。それでも叫んだ。

 「やめろ、このバカ野郎!」

 叫びながら、また瓦礫に手をついた。

 血まみれの手で。

 どかした。どかした。どかした。

 ウンム・ハリドの腕が見えた。引いた。老婆が出てきた。

 「大丈夫か」

 今度はアラビア語だった。

 「……大丈夫。ありがとう」

 「動けるか」

 「動ける」

 「走れ。東へ。建物から離れろ」

 老婆が走り始めた。

 ジョンはまた別の声を探して走った。

 その頃。

 宿の近く。

 ヴィクトルは一発目の爆発で窓から飛び出していた。

 スーツのまま。

 煙の中を走りながら、状況を把握していた。空爆。二機以上。民間地区への無差別攻撃。

 軍人の目で見ていた。三十年の習慣で、瞬時に判断していた。

 アブ・サリムが入口に立って固まっていた。

 「中に入れ。建物から離れろ」

 ヴィクトルはロシア語で怒鳴ってから、英語で繰り返した。

 「中に入れ。今すぐ」

 四発目が来た。

 宿から五十メートル。

 爆風が来た。ヴィクトルは吹き飛ばされた。地面を転がった。石畳で肘が裂けた。膝が砕けそうな衝撃があった。

 立ち上がった。

 スーツが破れていた。肘から血が出ていた。

 構わなかった。

 カリームの声が聞こえた。

 「ファリス——ファリスはどこだ」

 「市場の壁際だ。動くなと言った」

 「生きているか」

 「生きている。行くな。お前が行ったら二人死ぬ」

 「でも——」

 「ここにいろ」

 ヴィクトルは市場の方向へ走った。

 市場の中。

 ジョンは走り続けていた。

 声を聞いたら走る。瓦礫をどかす。引き出す。逃がす。また走る。

 手が血まみれだった。石の破片で何度も切れていた。爪が割れていた。それでも瓦礫をどかした。

 体中が痛かった。爆風で吹き飛ばされた背中が。破片が刺さった腕が。

 止まらなかった。

 五発目が来た。

 今度は遠かった。街の別の区画に着弾した。

 それでも爆風は来た。

 ジョンは瓦礫の陰に飛び込んだ。

 石が降ってきた。大きな石が肩を打った。撃たれた左肩を。視界が歪んだ。

 「……クソッ」

 また日本語だった。

 立ち上がろうとした。足がもつれた。壁に手をついた。

 血まみれの手が、壁に赤い跡をつけた。

 「いるか。返事しろ」

 また日本語だった。

 でも構わなかった。

 瓦礫の奥から、子供の声がした。

 走った。

 もつれる足で。

 血を流しながら。

 ヴィクトルが市場に入ってきた。

 煙の中に、白いマフラーが見えた。

 血で半分赤くなっていたが、白いマフラーだった。

 近づいた。

 ジョンが瓦礫をどかしていた。両手で。血まみれの手で。

 子供が瓦礫の下にいた。泣いていた。生きていた。

 ヴィクトルは反対側から瓦礫に手をついた。

 「こっちを持て」

 英語だった。

 ジョンは顔を上げた。一瞬だけ。

 「でかい石が二つ。俺が持ち上げる。お前が子供を引っ張れ」

 「分かった」

 ヴィクトルが持ち上げた。

 重かった。膝が笑った。腕が震えた。

 ジョンが子供の腕を掴んだ。引いた。子供が出てきた。

 石を下ろした。

 二人とも、荒い息だった。

 ジョンは子供を抱えて立ち上がった。

 「東へ走れ。一人で走れるか」

 子供は泣きながら頷いた。

 「走れ。止まるな」

 子供が走っていった。

 六発目が来た。

 遠かった。だが爆風は来た。

 二人は同時に地面に伏せた。石が降った。煙が広がった。

 煙が少し晴れた。

 ヴィクトルは立ち上がった。

 ジョンも立ち上がった。

 ジョンの様子が、いつもと違った。

 ヴィクトルには分かった。

 目が、違った。

 いつもの静かな右目ではなかった。

 燃えていた。怒っていた。隠していなかった。

 「まだいる」

 ジョンは言った。

 日本語とも英語ともつかない、混ざった言葉で。

 「声が聞こえる。まだいる」

 「どこだ」

 「北の路地。二人以上」

 走り出した。

 ヴィクトルはその背中を一秒見た。

 それから走った。

 路地の奥。

 二人の男が瓦礫に挟まれていた。作業服。建設労働者だった。ミャンマー人だった。

 ジョンが瓦礫に飛びついた。

 血まみれの手で。割れた爪で。

 「動くな。今どかす」

 日本語だった。

 男たちには分からなかった。でも、声の意味は分かった。

 「このクソ重い石が——」

 ヴィクトルが隣に来た。

 大きな手が石に当てられた。

 「せーので持ち上げる」

 英語だった。

 「ああ」

 「せー」

 「の」

 二人で持ち上げた。

 男が這い出てきた。もう一人も這い出た。

 「走れ。東へ」

 ジョンはアラビア語で言った。

 男たちは走った。

 七発目。

 今度は近かった。

 直近の建物に着弾した。

 壁が崩れた。大量の石が降ってきた。

 ジョンは吹き飛ばされた。

 地面を転がった。止まった。

 起き上がれなかった。

 「……クソッ、クソッ、クソッ」

 日本語だった。

 起き上がろうとした。腕が言うことを聞かなかった。足を踏ん張った。膝が震えた。

 「バカ野郎……」

 誰に言っているのか分からなかった。

 空爆をしている奴らに。自分に。状況に。全部に向けて。

 ヴィクトルが来た。

 腕を掴んだ。引き起こした。

 「立てるか」

 「立てる」

 「嘘をつくな」

 「立てる」

 立った。

 足が震えていた。それでも立った。

 「まだ——」

 ジョンは言いかけた。

 「聞こえない。今は聞こえない」

 ヴィクトルは言った。

 「……」

 「聞こえたら行く。今は聞こえない」

 ジョンは、煙の中を見た。

 声は——聞こえなかった。

 今は。

 「……ああ」

 二人は立ったまま、荒い息をついた。

 煙が漂っていた。

 どこかで火が燃えていた。

 遠くで、まだ爆発音がしていた。

 機体は、街の別の区画に移っていた。

 ジョンの手が、ひどかった。

 両手とも、血まみれだった。石で何度も切れた跡。割れた爪。深い擦り傷。

 白いマフラーが赤かった。

 ヴィクトルも似たようなものだった。

 スーツはもう原形をとどめていなかった。肘が裂けていた。膝が破れていた。顔に石の破片が当たった跡があった。

 二人は、しばらく黙っていた。

 「何人、出した」

 ヴィクトルが聞いた。

 「数えていない」

 「俺は六人だ」

 「……俺も、それくらいだ」

 沈黙。

 「足りない」

 ジョンは言った。

 「足りなくても、今は動けない」

 「……分かってる」

 「分かっているなら——」

 「分かってる。でも、足りない」

 ヴィクトルは、ジョンの横顔を見た。

 さっき、日本語が出ていた。

 ヴィクトルには意味が分からなかった。だが、声の色は分かった。

 怒っていた。本気で怒っていた。

 ジョン・ドゥではなかった。

 もっと奥にいる何かが、怒っていた。

 「さっき、何と言っていた」

 ロシア語だった。

 「何が」

 「日本語で、何度も叫んでいた」

 ジョンは少し間を置いた。

 「……バカ野郎、と言っていた」

 「誰に」

 「全部に」

 ヴィクトルは、それを聞いた。

 「他には」

 「民間人しかいないだろ、とか。やめろ、とか」

 「……届かないのに」

 「分かってた。それでも言った」

 ヴィクトルは、空を見た。

 機体はもう見えなかった。

 煙だけが、空に広がっていた。

 「お前が叫んでいる時」

 ヴィクトルは言った。

 「ジョン・ドゥじゃなかった」

 ジョンは答えなかった。

 「どちらが本物か、とは聞かない」

 「……」

 「どちらも本物だろうから」

 ジョンは、血まみれの手を見た。

 震えていた。

 疲労か。怒りか。

 分からなかった。

 「……うるさい」

 日本語だった。

 ヴィクトルには意味が分からなかった。

 だが、悪い意味ではない、ということは分かった。

 「ファリスのところへ戻ろう」

 英語だった。

 「……ああ」

 二人は歩き始めた。

 足を引きずりながら。

 血を流しながら。

 煙の中を。

 市場の壁際。

 ファリスはそこにいた。

 動いていなかった。言われた通り、動いていなかった。

 ジョンの姿を見た瞬間、泣き始めた。

 「生きてる?」

 英語だった。

 「生きてる」

 「怪我してる?」

 「してる」

 「どこが」

 「全部」

 ファリスは泣きながら、少し笑った。

 カリームが走ってきた。ファリスを抱えた。二人で泣いていた。

 ジョンは、その横に立っていた。

 何も言わなかった。

 血まみれの手を、白いマフラーで拭こうとして——やめた。

 もうマフラーも赤かった。

 ヴィクトルが隣に来た。

 「手を見せろ」

 「大丈夫だ」

 「大丈夫じゃない。見せろ」

 ジョンは手を差し出した。

 ヴィクトルは、スーツの内ポケットから医療キットを取り出した。

 「どこにでも持ってるんだな」

 「習慣だ」

 「……」

 ヴィクトルは、ジョンの手に処置を始めた。

 黙って。丁寧に。

 ジョンは、街を見ていた。

 煙が漂っていた。

 火が燃えていた。

 人々が、瓦礫の中を歩いていた。

 「足りなかった」

 ジョンは呟いた。

 「……ああ」

 「もっと速く動けば」

 「それ以上は無理だ」

 「……」

 「お前は十分動いた」

 「足りなかった」

 ヴィクトルは処置の手を止めなかった。

 「足りないと思うから、また動く」

 「……」

 「止まらない理由が、それだ」

 ジョンは、ヴィクトルを見た。

 何も言わなかった。

 夕暮れが近かった。

 空がオレンジ色に染まり始めていた。

 煙越しの夕日だった。

 きれいとは言えなかった。

 それでも、空は空だった。


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