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第6話 名前


 副官のサーミルは、夜に動画を見る癖があった。

 任務が終わり、駐屯地の自室に戻り、タブレットでNetflixを流す。眠れない夜が多かった。この街に赴任してから、ずっとそうだった。

 その夜、彼はドキュメンタリーを見ていた。

 タイトルは『TAKIMOTO —— 騎士の涙』。

 配信から一年以上経つ作品だった。サーミルはすでに何度も見ていた。この地域で配信されるコンテンツは限られている。繰り返し見るものが、自然と絞られる。

 画面の中で、男が戦っていた。

 バンコクの夜。銃声。爆発。その中を、白い服の男が走る。

 眼帯をしていた。

 右目だけで世界を見ながら、複数の武装した男たちの中を流れるように動く。ムエタイの膝。シラットの流れ。そして——高く、美しい回転蹴り。

 サーミルは、タブレットを持ったまま固まった。

 昨夜、路地で見た男のことを思い出した。

 カーリムの部下が八人、地面に転がっていた。その中心に血まみれで立っていた男のことを。

 眼帯。

 右目だけが光っていた。

 ムエタイの肘。シラットの投げ。そして——あの回転蹴りを、途中で止めた。

 「……まさか」

 サーミルは起き上がった。

 タブレットを持ったまま、ラシードの部屋のドアを叩いた。

 ラシードは眠っていなかった。

 机に向かって書類を見ていた。正確には、見ていたが頭に入っていなかった。

 「何だ」

 「大尉、少し見てほしいものがあります」

 サーミルはタブレットを差し出した。

 ラシードは画面を見た。

 白い服の男。眼帯。ムエタイとシラットが融合した動き。回転蹴り。

 しばらく見ていた。

 「……止めろ」

 「大尉?」

 「そこで止めろ」

 サーミルが一時停止した。

 画面の中の男と、昨夜路地で見た男が、ラシードの頭の中で重なっていた。

 「眼帯」

 ラシードは呟いた。

 「はい」

 「ムエタイとシラットの融合。昨夜俺が見た格闘スタイルと——」

 「一致します」

 「もう一人の男。スーツの」

 「ヴィクトル・ザハロフと思われます。元ロシア連邦軍特殊部隊。傭兵として各地の紛争に関与。数年前にタイで——」

 「タイで」

 「はい。瀧本と交戦したと記録にあります」

 ラシードは立ち上がった。

 窓の外を見た。夜明け前の街が見えた。

 「その二人が、この街にいる」

 「はい」

 「……俺は昨夜、その男に『目立つな』と言った」

 サーミルは何も言わなかった。

 「Netflixのドキュメンタリーの主人公に」

 「……はい」

 ラシードは、額に手を当てた。

 「呼べ。正式に。礼を持って」

 「もし断ったら」

 「断らない。あの男は逃げるタイプじゃない」

 翌朝。

 アブ・サリムが封筒を持ってジョンの部屋に来た。

 ジョンは封筒を開いた。アラビア語と英語で書かれていた。

 ラシード大尉。午前十時。駐屯地。

 末尾に一行。英語だった。

 『敬意を持ってお待ちしています』

 ジョンは手紙をヴィクトルに渡した。

 ヴィクトルは読んだ。

 「敬意、か」

 「昨夜まで拘束しようとしていた」

 「何かに気づいたんだろう」

 「……Netflixだな」

 「そうだな」

 ヴィクトルは手紙を返した。

 「行くか」

 「行く」

 「俺も行く」

 「スーツは着替えろ」

 「これしかない」

 「……」

 午前十時。駐屯地の入口。

 ラシードは待っていた。副官のサーミルが隣にいた。

 二人の男が歩いてくるのを見た。

 黒いMA-1。白いマフラー。眼帯。

 隣に、大柄な男。スーツ。

 ラシードは姿勢を正した。

 「来てくれた」

 「呼ばれた」

 執務室。

 ラシードは机の前に立った。椅子は勧めなかった。

 「単刀直入に聞く」

 英語だった。

 ラシードはジョンを見た。

 「お前は、瀧本勝幸か」

 一瞬の間があった。

 答えたのは、ジョンではなかった。

 「この男はジョン・ドゥだ」

 ヴィクトルだった。

 壁にもたれていた男が、静かに、しかしはっきりと言った。

 ロシア訛りの英語で。

 ラシードはヴィクトルを見た。

 「あなたは」

 「ヴィクトル・ザハロフ。元ロシア連邦軍特殊部隊。元傭兵。今は——」

 ヴィクトルは少し考えた。

 「今は、何でもない」

 ラシードは、しばらくヴィクトルを見た。

 「……自分は隠さないのか」

 「隠す理由がない。俺は俺だ」

 「だが、この男については」

 「この男はジョン・ドゥだ」

 「……同じことを繰り返している」

 「同じことが、正しいからだ」

 ラシードは、ヴィクトルとジョンを交互に見た。

 「納得できない」

 「できなくていい」

 ヴィクトルは言った。落ち着いた声だった。

 「だが、聞け」

 ヴィクトルは壁から体を離した。

 一歩前に出た。

 「俺はこの男を知っている。長くはないが、深く知っている」

 「……」

 「この男は名前を捨てた。身分を捨てた。組織を捨てた」

 「なぜだ」

 「それがこの男の選択だ。理由は俺が語ることじゃない」

 ラシードは黙って聞いていた。

 「だが——」

 ヴィクトルは続けた。

 「この男が何をしているか、お前は見ている。昨夜も。一昨夜も」

 「……見ている」

 「名前があるか。身分があるか。そんなことは関係ない」

 「……」

 「目の前で誰かが困っていれば、体が動く。銃もなく、組織もなく、それでも止まらない」

 ヴィクトルはラシードを見た。

 灰色の目が、静かだった。

 「名前や身分が、その男を作っているのか」

 ラシードは、答えなかった。

 「違う」

 ヴィクトルは言った。

 「存在がそのままならば、それで十分だ」

 沈黙が、部屋に満ちた。

 サーミルは、メモを取るのをいつの間にか止めていた。

 ラシードは、長い間、ジョンを見ていた。

 ジョンは何も言わなかった。

 ヴィクトルの言葉を否定も肯定もしなかった。

 ただ、立っていた。

 「……分かった」

 ラシードは、ゆっくりと言った。

 「ジョン・ドゥ」

 ジョンは、ラシードを見た。

 「この街にいる間——何かあれば、連絡しろ」

 ラシードは名刺を差し出した。

 「俺にできることは少ない。だが、邪魔はしない」

 ジョンは名刺を受け取った。

 見た。

 ポケットにしまった。

 「一つ聞いていいか」

 ジョンが言った。

 「どうぞ」

 「Netflixのドキュメンタリー。何回見た」

 ラシードは、一瞬固まった。

 サーミルが、顔を背けた。

 「……一回だ」

 「そうか」

 「一回だ」

 ヴィクトルが小声でロシア語を言った。

 「五回以上だな」

 ジョンはロシア語で返した。

 「そうだな」

 ラシードは二人の会話の意味が分からなかった。

 だが、何となく、自分のことを言われている気がした。

 「……行っていい」

 「ありがとう」

 ジョンとヴィクトルは、執務室を出た。

 廊下を歩きながら、ヴィクトルが言った。ロシア語で。

 「なかなかいい男だ、あの大尉」

 「そうかもしれない」

 「敵にはなっていない」

 「今のところ」

 「十分だ」

 少し歩いた。

 「ヴィクトル」

 ジョンが言った。

 「何だ」

 「……ありがとう」

 ヴィクトルは前を向いたまま答えた。

 「礼はいらない」

 「なぜ庇った」

 「庇ったんじゃない。事実を言った」

 「……」

 「お前はジョン・ドゥだ。それが今のお前だ」

 ジョンは、少し間を置いた。

 「お前は、なぜそれが分かる」

 ヴィクトルは歩きながら答えた。

 「俺も一度、自分を捨てようとしたことがある」

 「……」

 「捨てられなかった。捨て方が分からなかった」

 「……」

 「お前は捨て方を知っていた。それがどういうことか——俺には分かる」

 外に出た。

 朝の光が、砂埃の街に差し込んでいた。

 二人はしばらく黙って歩いた。

 「ヴィクトル」

 「何だ」

 「スーツ、そろそろ買い替えろ。血がついてる」

 「……昨夜のか」

 「そうだ」

 「気づかなかった」

 「目立つ」

 「元々目立っている」

 「それは知ってる」

 ヴィクトルは、袖の染みを見た。

 小さく、笑った。

 二人は、街の中を歩いた。


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