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第5話 走る


 ドアを叩く音で、ジョンは目を開けた。

 眠っていたわけではない。横になっていただけだ。体が痛すぎて、眠れなかった。

 ヴィクトルは椅子に座ったまま、目を閉じていた。眠っているのか、考えているのか、分からなかった。

 ドアをもう一度叩く音。強い。

 「ジョン。ジョン・ドゥ」

 アラビア語だった。若い声。

 ジョンはドアを開けた。

 廊下に男が立っていた。十五歳か十六歳。痩せた体。作業服。顔に擦り傷がある。息が上がっていた。

 ファリスに似た目をしていた。

 「ファリスの兄か」

 「そうだ。ファリスが——連れて行かれた」

 ジョンはMA-1を手に取った。

 「いつだ」

 「一時間前。俺が仕事から戻ったら、いなかった。近所の人が見ていた。男たちが——」

 「どこへ連れて行った」

 「東の廃工場だと思う。カーリムの——」

 「分かった」

 ジョンは廊下に出た。

 部屋の中で、ヴィクトルが立ち上がる気配がした。

 「行くのか」

 ロシア語だった。

 「ああ」

 「待て」

 「待てない」

 「せめて——」

 「来るなら来い。来ないなら待ってろ」

 階段を下りた。

 後ろで、ヴィクトルの足音がした。

 やや大きな足音が。

 ジョンは振り向かなかった。

 外に出た。夜明け前の空気は冷たかった。

 東へ走る。包帯を巻いた肩が痛んだ。肋骨が痛んだ。

 構わなかった。

 ヴィクトルが隣に並んだ。

 スーツのままだった。

 「着替えなかったのか」

 ジョンは走りながら言った。

 「時間がなかった」

 「……」

 「それに、このスーツは動きやすい」

 「高いのか」

 「ロンドンで仕立てた」

 「もったいない」

 「同意する」

 二人は走った。

 夜明け前の路地を。砂埃の中を。

 ファリスの兄、カリームが後ろから追いかけてきた。息を切らしながら。

 「待ってくれ、俺も——」

 「お前は来るな」

 ジョンは振り向かずに言った。

 「でも、ファリスが——」

 「邪魔になる」

 「……」

 「信じて待ってろ」

 カリームは、足を止めた。

 二人の背中が、暗い路地に消えていくのを見ていた。

 廃工場が見えてきた。

 かつて何かを作っていた建物。今は壁が崩れ、屋根が半分ない。夜明け前の薄闇の中に、その輪郭が浮かんでいた。

 中に明かりがある。

 人の声がする。

 ジョンは足を止めた。

 建物を見た。入口は正面に一つ。裏に回れば、崩れた壁から入れるはずだ。

 ヴィクトルが隣に立った。

 同じように建物を見ていた。

 「何人だと思う」

 「昨夜の報復なら、十人前後だろう」

 「俺と同じ読みだ」

 少し間。

 「裏から入れるか」

 「入れる」ヴィクトルは建物を一瞥した。「壁が崩れている。二箇所」

 「じゃあ——」

 「分かっている」

 目が合った。

 言葉はそれだけだった。

 ヴィクトルは暗がりに消えた。

 音がしなかった。百キロ近い体が、音もなく動いた。

 ジョンは正面の入口に向かった。

 中に入った。

 廃工場の床はコンクリートだった。ところどころ割れている。鉄骨が剥き出しになった壁。屋根の穴から、夜明け前の空が見えた。

 奥に、人影が集まっていた。

 明かりはランタンが一つ。その光の中に、ファリスがいた。

 柱に縛られていた。顔に傷がある。だが、意識はある。目が開いていた。

 その周りに、男が九人。全員武装していた。

 ジョンが入口に立った。

 一人が振り向いた。

 「来やがった」

 アラビア語だった。

 「来た」

 男たちが散った。囲もうとする動きだった。

 ジョンは動かなかった。

 九人を右目で見た。

 ファリスの位置を確認した。柱の前に男が一人、ファリスを押さえている。残り八人がこちらに向かってくる。

 来た。

 最初の男の拳を外側に流した。勢いごと体を回し、後ろの男へ叩きつける。二人が絡まる。

 右から膝が来る。沈んで躱す。立ち上がりざまに肘を顎へ。男が崩れる。

 左肩に衝撃。殴られた。撃たれた傷の上から。視界が白くなる。

 構わない。

 そのまま体を押しつける。壁に男を叩き込む。頭が石壁を打つ。男が滑り落ちる。

 四人、片付いた。

 残り四人がジョンを囲んだ。

 その時、後ろで音がした。

 崩れた壁から、影が入ってきた。

 大きな影。

 ヴィクトルだった。

 後方の男二人が振り向く間もなかった。

 大きな手が首筋を掴んだ。一人を持ち上げた。もう一人の頭に叩きつけた。

 二人が、同時に床に落ちた。

 残り二人が、ジョンとヴィクトルの間で立ち往生した。

 前にジョン。後ろにヴィクトル。

 どちらを向いても、逃げ場がない。

 「選べ」

 ジョンは言った。

 二人は顔を見合わせた。

 武器を下げた。

 ファリスを押さえていた男が、ナイフを出した。ファリスの首筋に当てた。

 「動くな」

 ジョンは止まった。

 ヴィクトルも止まった。

 男の目が泳いでいた。九人いた仲間が、一分足らずで全員床に転がっている。怖かった。怖くて、それでも逃げられなかった。

 「お前ら、何者だ」

 声が震えていた。

 「ジョン・ドゥ」

 「……もう一人は」

 ヴィクトルは何も言わなかった。

 ジョンは、ファリスを見た。

 ファリスの目が、ジョンを見ていた。怖がっていた。でも、泣いていなかった。

 「お前に聞く」

 ジョンは男に言った。

 「ファリスに、何かしたか」

 「……殴った。それだけだ」

 「それだけか」

 「それだけだ」

 「……そうか」

 一歩踏み出した。

 「動くなと言った——」

 「動いてる」

 男のナイフを持つ手首を掴んだ。外側へ捻る。ナイフが落ちる。そのまま引いて、前に崩す。膝が背中を打つ。男が床に伏した。

 ファリスの縄を解いた。

 「怪我は」

 「……ちょっとだけ」

 「ちょっとだけか」

 「うん。でも、痛い」

 「そうか」

 ファリスはジョンを見上げた。

 「来てくれると思ってた」

 「……」

 「朝になったら来るかと思ってたけど、思ったより早かった」

 ジョンは何も言わなかった。

 ヴィクトルが近づいてきた。

 ファリスはヴィクトルを見た。大柄な男。スーツ。古い傷跡。

 「誰、この人」

 英語だった。

 「ヴィクトル」

 「友達?」

 ジョンは少し考えた。

 「……たぶん」

 ヴィクトルは、その言葉を聞いた。

 何も言わなかった。

 だが、口元がわずかに動いた。

 工場を出た。

 夜明けが近かった。空の端が、わずかに白み始めていた。

 ファリスは、ジョンとヴィクトルの間を歩いた。

 しばらく黙って歩いた。

 「ジョン」

 「何だ」

 「俺、また攫われると思う」

 「……そうかもしれない」

 「どうすればいい」

 ジョンは前を向いたまま言った。

 「兄さんと一緒にいろ。一人で歩くな」

 「それだけ?」

 「それだけだ」

 「……ジョンはどうするの」

 「俺は歩く」

 「また誰か助けるの」

 「体が動いたら」

 ファリスは、少し考えた。

 「俺も、強くなりたい」

 ジョンは、ファリスを見た。

 十一歳の顔。傷がある。でも、目が真剣だった。

 「強くなってどうする」

 「ジョンみたいに、誰かを守りたい」

 ジョンは前を向いた。

 何も言わなかった。

 ヴィクトルが、小声でロシア語を言った。

 「感染してるぞ」

 ジョンは答えなかった。

 路地の角で、カリームが待っていた。

 ファリスを見て、走ってきた。抱きしめた。ファリスも抱きしめ返した。

 しばらく、二人はそのままだった。

 カリームがジョンを見た。

 「ありがとう」

 アラビア語だった。

 ジョンは小さく頷いた。

 「お前たち、これからどうする」

 ジョンは言った。

 「……分からない。この街にいたら、また——」

 「そうかもしれない」

 「でも、行く場所がない」

 「……」

 ジョンは少し考えた。

 「アブ・サリムに話す。しばらく宿に置いてもらえるか聞く」

 「そんなこと、頼めない——」

 「頼むのは俺だ。お前たちは黙ってろ」

 カリームは、ジョンを見た。

 何かを言おうとして、やめた。

 「……分かった」

 夜明けが来た。

 空がオレンジ色に染まり始めた。

 四人は、宿に向かって歩いた。

 ジョンとヴィクトルが前。カリームとファリスが後ろ。

 ヴィクトルが小声で言った。

 ロシア語で。

 「さっき、たぶんと言ったな」

 「何が」

 「友達か、と聞かれた時」

 「……言った」

 「たぶん、ではなく、そうだと言え」

 ジョンは前を向いたまま答えた。

 「朝になったら考える」

 ヴィクトルは、空を見上げた。

 オレンジ色の夜明けだった。

 小さく、笑った。


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