表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/73

第4話 再会



 「電気をつけてもいいか」


 ロシア語だった。


 ジョンは無言でスイッチを入れた。


 灯りの中に、男がいた。


 五十代。白髪交じりの短髪。大柄な体。顔には古い傷。灰色の目。場違いなほど整ったスーツ。


 二人は、しばらく動かなかった。


 先に動いたのは、男だった。


 立ち上がる。ゆっくりとした動作。


 次の瞬間——距離が消えた。


 ジョンは壁を蹴った。体を横に流す。男の拳が空気を裂き、背後の壁に叩き込まれた。


 鈍い音。石壁が拳大に凹む。


 素手だった。


 ジョンは着地と同時に踏み込んだ。懐へ。肘を打ち込む。男の腹へ。


 衝撃は通った。だが——止まらない。


 「……硬いな」


 「お前もな」


 男はロシア語で返した。声に余裕があった。


 腕が来る。首を狙う軌道。


 ジョンは沈んだ。低く潜り、足を払う。


 崩れない。重心が落ちている。


 ならば、と掌底を顎へ。


 男の頭がわずかに揺れた。


 「いいな」


 男は笑った。


 圧が来る。体ごと押し潰すような突進。


 ジョンは受けない。流す。シラットの動き。力を外へ逃がし、軌道をずらす。そのまま投げる。


 男は転がり、受け身を取り、即座に立ち上がった。


 「シラットか」


 英語に変わる。


 「少しだけ」


 「どこで」


 「タイで」


 一瞬、間があった。


 次は速い。


 右の拳。左の肘。膝。


 最初を外す。二発目が肩をかすめる。撃たれた左肩。視界が歪む。


 三発目。膝が脇腹へ。嫌な音が体の中で鳴る。


 息が抜ける。


 だが——止まらない。


 体が勝手に動く。


 沈んだ姿勢のまま回る。床を蹴る。浮く。右足が弧を描く。


 頭部へ。回転蹴り。


 「待て」


 男が言った。笑いながら。


 両手を上げる。


 止まる。


 ジョンの足は、男の頭の数センチ手前で止まっていた。


 静止。


 空気が張り詰める。


 ゆっくりと足を下ろす。


 着地した瞬間、膝がわずかに沈んだ。


 左肩から血が滲む。脇腹が焼ける。


 男は両手を下ろした。


 顔に、はっきりとした笑み。


 「分かった」


 ロシア語だった。


 「お前だ」


 ジョンは荒い息のまま睨んだ。


 「最初から分かってただろ」


 「体で確かめたかった」


 「趣味が悪い」


 「褒め言葉として受け取る」


 男は椅子に腰を下ろした。呼吸は乱れていない。


 ジョンは壁にもたれた。支えがなければ立てなかった。


 「座れ。その体で立つな」


 「……お前が来なければ立ってた」


 「俺が来なければ、床で死んでいた」


 「大げさだ」


 「現実だ」


 男は立ち上がり、医療キットを取り出した。


 「座れ」


 「……命令か」


 「頼みだ」


 ジョンは床に座った。


 MA-1を脱がされる。白いTシャツが赤く染まっている。


 男は黙って処置を始めた。迷いがない手つき。


 「痛いか」


 「痛い」


 「我慢しろ」


 「してる」


 短い沈黙。


 「変わらないな、お前は」


 「どう変わればいい」


 「少しくらい、死を怖がれ」


 ジョンは横目で男を見た。


 「お前は、俺が死んだと思っていたのか」


 「思っていた。タイの後、完全に消えた」


 「そうなるようにした」


 「なぜだ」


 少し間。


 「全部、捨てたかった」


 「全部?」


 「名前も、身分も、所属も」


 「……」


 「そうしないと、約束が守れない気がした」


 男の手が一瞬止まり、また動く。


 「誰との約束だ」


 「スヨン」


 「何を約束した」


 「生きること」


 包帯が巻かれる。固定される。


 男は立ち上がった。


 「それで中東か」


 「歩いていたら、着いた」


 「相変わらずだな」


 男は窓の外を見た。


 「お前を探すのに、二年かかった」


 英語だった。


 「二年」


 「保釈の後、すぐ消えた。完全に」


 「監視がうるさかった」


 「知っている。それでも速すぎる」


 ジョンは視線を向けた。


 「なぜ探した」


 男は振り向く。


 灰色の目が静かだった。


 「こんな男は一人しかいない」


 ロシア語。


 「銃も持たない。名前もない。それでも止まらない」


 「……」


 「三十年戦場にいた。強い男は腐るほど見た」


 「……」


 「だが、お前みたいな奴は見たことがない」


 ジョンは何も言わなかった。


 「傭兵はやめた」


 男は続けた。


 「またやるつもりだった。だが、できなかった」


 「なぜだ」


 「馬鹿らしくなった」


 小さく笑う。


 「お前のせいかもしれん」


 ジョンはわずかに息を吐いた。


 「感染か」


 「そうだ」


 「うつるものじゃない」


 「うつった」


 沈黙。


 「ヴィクトル・ザハロフ」


 男は名乗った。


 「知ってる」


 「ジョン・ドゥ」


 「知ってる」


 「本名じゃない」


 「知ってる」


 短い沈黙。


 悪くない間だった。


 「それで」


 ジョンが言う。


 「何をしたい」


 ヴィクトルは少し考えた。


 「一緒にいてもいいか」


 「金は払えない」


 「要らない」


 「危険だ」


 「知っている」


 「死ぬかもしれない」


 「構わない」


 ジョンは天井を見上げた。


 痛みが全身に広がる。


 それでも、妙に静かだった。


 「朝になったら考える」


 ヴィクトルは笑った。


 「変わらないな」


 「そうか」


 「その台詞、他にも言っているだろう」


 「よく言う」


 「……」


 ヴィクトルは頷いた。


 「朝まで待つ」


 ジョンは目を閉じた。


 部屋に、もう一つの気配がある。


 嫌ではなかった。


 「ヴィクトル」


 「何だ」


 「そのスーツ、目立つ」


 間。


 「目立たないと思った」


 「逆だ」


 「……そうか」


 「完全に逆だ」


 ヴィクトルは少し考えた。


 「次から気をつける」


 窓の外で犬が遠吠えした。


 夜は相変わらず暗い。


 だが——部屋の中は、少しだけ違っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ