表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/73

第9話 罪


 イラクを出た。

 トルコに入った。そこで車を手に入れた。ヴィクトルが金を出した。どこから出てきた金か、ジョンは聞かなかった。

 そのままジョージアへ。ジョージアからウクライナへ向かう陸路だった。

 国境を越えるたびに、面倒があった。

 二人の外見が問題だった。

 黒いMA-1に眼帯の男と、破れたスーツの大男。どちらも顔に傷がある。どちらも目つきが普通ではない。荷物は最小限。目的地を聞かれると、二人とも少し間を置いてから答えた。

 ジョージアの国境では、四時間止められた。

 担当官が上司を呼んだ。上司がさらに上を呼んだ。最終的に、どこかに電話をかけて確認を取った。

 「問題ない」

 そう言って、通してくれた。

 誰に電話をかけたのか、ジョンは知らなかった。ヴィクトルも何も言わなかった。

 「お前、何かツテを使ったか」

 ジョンは走りながら聞いた。

 「少しだけ」

 「誰に」

 「昔の知り合いだ」

 「スペツナズ時代の」

 「……そうだ」

 「まだ繋がりがあるのか」

 「繋がりは切れない。俺が辞めても、向こうは覚えている」

 ジョンは前を向いたまま言った。

 「便利だな」

 「便利でも、気持ちよくない」

 「……そうか」

 「借りを作った気分になる」

 しばらく、二人は黙った。

 夕暮れ時、車が止まった。

 突然だった。エンジンが唸って、それから静かになった。

 ヴィクトルが何度かエンジンをかけ直そうとした。かからなかった。

 車から降りた。ボンネットを開けた。見た。

 「……ラジエーターだ」

 「直せるか」

 「部品がない。無理だ」

 辺りを見回した。

 荒野だった。草が低く生えている。地平線まで、建物がない。空は夕焼けで赤かった。

 「次の街まで、どのくらいだ」

 「二十キロ以上はある」

 「歩くか」

 「暗くなる。今夜はここで待つ方がいい」

 ジョンは車のドアに背中をもたれた。

 ヴィクトルも同じようにした。

 夕日が沈んでいく。

 風が低く吹いていた。草が揺れた。

 遠くに、山の輪郭が見えた。

 「ウクライナは、近いか」

 ジョンが言った。

 「明日の朝、動ければ夕方には着く」

 「……」

 「急ぐか」

 「急がない。ただ、向かっている」

 ヴィクトルは煙草を取り出した。

 「吸うか」

 「もらう」

 二人は並んで、煙草を吸った。

 煙が、夕焼けの空に消えていった。

 しばらく、誰も喋らなかった。

 ヴィクトルが口を開いた。

 ロシア語だった。

 「ウクライナで、民間人を殺した」

 静かな声だった。

 告白というより——確認するような声だった。

 ジョンは何も言わなかった。

 煙草を吸った。

 「二〇一四年だ。クリミアの後。東部の作戦だった」

 「……」

 「村があった。戦闘員が隠れているという情報があった。命令が下りた」

 「……」

 「俺は従った」

 風が吹いた。

 草が揺れた。

 「戦闘員はいなかった」

 ヴィクトルは続けた。

 「村人だけだった。老人と、女と、子供だった」

 「……」

 「命令に従った。引き金を引いた」

 ジョンは空を見ていた。

 赤い空が、少しずつ暗くなっていた。

 「部下がいた。ニコライという男だ」

 ジョンの手が、わずかに止まった。

 「拒否した。銃を下ろして、その場を離れた。脱走した」

 「……」

 「俺は従った。ニコライは逃げた」

 「……」

 「どちらが正しかったか——今でも分からない」

 ヴィクトルは煙草の灰を落とした。

 「だが、嫌になった。命令に従うことが。国の正義で動くことが」

 「……」

 「だから辞めた。傭兵になった。金のために戦えば、少なくとも自分の意志で動ける。そう思った」

 「……」

 「間違いだったかもしれない」

 ジョンは煙草を吸い終えた。

 地面に落として、踏んだ。

 「ニコライは今、どこにいる」

 ヴィクトルは少し間を置いた。

 「……タイにいた。突撃隊にいた」

 ジョンは、ヴィクトルを見た。

 「知っていたのか」

 「調べた。お前を探す過程で分かった」

 「……」

 「あの男が突撃隊にいると知った時——少し、楽になった」

 「なぜ」

 「正しい選択をした人間が、ちゃんと生きていたから」

 沈黙。

 空が、完全に暗くなり始めていた。

 星が一つ、見え始めた。

 ヴィクトルが言った。

 「お前は、どうだ」

 ジョンは空を見た。

 「……俺も、似たようなものだ」

 「似たような、とは」

 「国の正義で動いた。民間人が死んだ。俺は止められなかった」

 ヴィクトルは何も言わなかった。

 「作戦があった。任務だった。終わった」

 ジョンは続けた。

 「結果を見た時、これは俺の正義じゃないと思った」

 「……」

 「国の正義は達成された。だが、守れなかった人間がいた」

 「……」

 「誰も問わなかった。任務は成功だったから。民間人の死は、誤差だった」

 風が吹いた。

 白いマフラーが揺れた。

 「誤差、か」

 ヴィクトルが繰り返した。

 「そう処理された」

 「お前は、どう思った」

 ジョンは少し間を置いた。

 「誤差じゃない」

 それだけ言った。

 「だから消えたのか」

 「任務が終わった瞬間に、全部置いてきた。名前も、身分も、銃も」

 「……スヨンが死んだのは、その後か」

 「……ほぼ同じ頃だ」

 ヴィクトルは、ジョンを見た。

 「二つ重なったのか」

 「……ああ」

 「組織への失望と、スヨンを失ったことが」

 「……そうだ」

 長い沈黙。

 ヴィクトルは新しい煙草に火をつけた。

 「俺とお前は、似ているな」

 「そうかもしれない」

 「罪の形が違う。だが——」

 「根っこが同じだ」

 「……ああ」

 ヴィクトルは煙草を吸った。

 「俺は引き金を引いた。お前は引かなかった。だが、止められなかった」

 「……」

 「どちらも、消えることを選んだ」

 「消え方が違う」

 「違う。だが、同じ方向に歩いている」

 ジョンは空を見上げた。

 星が増えていた。

 荒野の空は、街よりずっと星が多かった。

 「ヴィクトル」

 「何だ」

 「ウクライナに行って、何をするつもりだ」

 ヴィクトルは少し考えた。

 「見に行く」

 「何を」

 「俺が殺した場所を」

 「……」

 「墓があるかどうかも分からない。名前も覚えていない。だが——」

 ヴィクトルは空を見た。

 「行かないといけない気がする」

 ジョンは、その言葉を聞いた。

 何も言わなかった。

 「……お前も来るか」

 ヴィクトルが言った。

 「来る」

 「理由は」

 「お前が行くから」

 「……それだけか」

 「それだけだ」

 ヴィクトルは、煙草を地面に落とした。

 踏んだ。

 「変わった男だ」

 「よく言われる」

 二人は、並んで空を見ていた。

 荒野に風が吹いた。

 白いマフラーが、また揺れた。

 遠くで、犬が鳴いた。

 それだけが聞こえた。

 夜明け前、トラックが通りかかった。

 ヴィクトルが手を上げた。トラックが止まった。

 運転手は老人だった。ウクライナ方面に向かっているという。

 乗せてもらった。

 荷台に二人で乗った。

 朝の冷たい空気の中を、トラックが走り始めた。

 ジョンは、流れていく景色を見ていた。

 草原。丘。遠くの山。

 「ヴィクトル」

 「何だ」

 「ニコライは、元気だった」

 ヴィクトルは少し間を置いた。

 「……そうか」

 「強くなっていた。突撃隊で、よく戦っていた」

 「……そうか」

 「お前が知っている男のままだったか、それは分からない。だが——生きていた。ちゃんと生きていた」

 ヴィクトルは、流れる景色を見た。

 何も言わなかった。

 だが、肩から何かが抜けたような気がした。

 ジョンにはそう見えた。

 朝日が昇り始めた。

 地平線が、オレンジ色に染まった。

 トラックは、ウクライナへ向かって走り続けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ