第9話 罪
イラクを出た。
トルコに入った。そこで車を手に入れた。ヴィクトルが金を出した。どこから出てきた金か、ジョンは聞かなかった。
そのままジョージアへ。ジョージアからウクライナへ向かう陸路だった。
国境を越えるたびに、面倒があった。
二人の外見が問題だった。
黒いMA-1に眼帯の男と、破れたスーツの大男。どちらも顔に傷がある。どちらも目つきが普通ではない。荷物は最小限。目的地を聞かれると、二人とも少し間を置いてから答えた。
ジョージアの国境では、四時間止められた。
担当官が上司を呼んだ。上司がさらに上を呼んだ。最終的に、どこかに電話をかけて確認を取った。
「問題ない」
そう言って、通してくれた。
誰に電話をかけたのか、ジョンは知らなかった。ヴィクトルも何も言わなかった。
「お前、何かツテを使ったか」
ジョンは走りながら聞いた。
「少しだけ」
「誰に」
「昔の知り合いだ」
「スペツナズ時代の」
「……そうだ」
「まだ繋がりがあるのか」
「繋がりは切れない。俺が辞めても、向こうは覚えている」
ジョンは前を向いたまま言った。
「便利だな」
「便利でも、気持ちよくない」
「……そうか」
「借りを作った気分になる」
しばらく、二人は黙った。
夕暮れ時、車が止まった。
突然だった。エンジンが唸って、それから静かになった。
ヴィクトルが何度かエンジンをかけ直そうとした。かからなかった。
車から降りた。ボンネットを開けた。見た。
「……ラジエーターだ」
「直せるか」
「部品がない。無理だ」
辺りを見回した。
荒野だった。草が低く生えている。地平線まで、建物がない。空は夕焼けで赤かった。
「次の街まで、どのくらいだ」
「二十キロ以上はある」
「歩くか」
「暗くなる。今夜はここで待つ方がいい」
ジョンは車のドアに背中をもたれた。
ヴィクトルも同じようにした。
夕日が沈んでいく。
風が低く吹いていた。草が揺れた。
遠くに、山の輪郭が見えた。
「ウクライナは、近いか」
ジョンが言った。
「明日の朝、動ければ夕方には着く」
「……」
「急ぐか」
「急がない。ただ、向かっている」
ヴィクトルは煙草を取り出した。
「吸うか」
「もらう」
二人は並んで、煙草を吸った。
煙が、夕焼けの空に消えていった。
しばらく、誰も喋らなかった。
ヴィクトルが口を開いた。
ロシア語だった。
「ウクライナで、民間人を殺した」
静かな声だった。
告白というより——確認するような声だった。
ジョンは何も言わなかった。
煙草を吸った。
「二〇一四年だ。クリミアの後。東部の作戦だった」
「……」
「村があった。戦闘員が隠れているという情報があった。命令が下りた」
「……」
「俺は従った」
風が吹いた。
草が揺れた。
「戦闘員はいなかった」
ヴィクトルは続けた。
「村人だけだった。老人と、女と、子供だった」
「……」
「命令に従った。引き金を引いた」
ジョンは空を見ていた。
赤い空が、少しずつ暗くなっていた。
「部下がいた。ニコライという男だ」
ジョンの手が、わずかに止まった。
「拒否した。銃を下ろして、その場を離れた。脱走した」
「……」
「俺は従った。ニコライは逃げた」
「……」
「どちらが正しかったか——今でも分からない」
ヴィクトルは煙草の灰を落とした。
「だが、嫌になった。命令に従うことが。国の正義で動くことが」
「……」
「だから辞めた。傭兵になった。金のために戦えば、少なくとも自分の意志で動ける。そう思った」
「……」
「間違いだったかもしれない」
ジョンは煙草を吸い終えた。
地面に落として、踏んだ。
「ニコライは今、どこにいる」
ヴィクトルは少し間を置いた。
「……タイにいた。突撃隊にいた」
ジョンは、ヴィクトルを見た。
「知っていたのか」
「調べた。お前を探す過程で分かった」
「……」
「あの男が突撃隊にいると知った時——少し、楽になった」
「なぜ」
「正しい選択をした人間が、ちゃんと生きていたから」
沈黙。
空が、完全に暗くなり始めていた。
星が一つ、見え始めた。
ヴィクトルが言った。
「お前は、どうだ」
ジョンは空を見た。
「……俺も、似たようなものだ」
「似たような、とは」
「国の正義で動いた。民間人が死んだ。俺は止められなかった」
ヴィクトルは何も言わなかった。
「作戦があった。任務だった。終わった」
ジョンは続けた。
「結果を見た時、これは俺の正義じゃないと思った」
「……」
「国の正義は達成された。だが、守れなかった人間がいた」
「……」
「誰も問わなかった。任務は成功だったから。民間人の死は、誤差だった」
風が吹いた。
白いマフラーが揺れた。
「誤差、か」
ヴィクトルが繰り返した。
「そう処理された」
「お前は、どう思った」
ジョンは少し間を置いた。
「誤差じゃない」
それだけ言った。
「だから消えたのか」
「任務が終わった瞬間に、全部置いてきた。名前も、身分も、銃も」
「……スヨンが死んだのは、その後か」
「……ほぼ同じ頃だ」
ヴィクトルは、ジョンを見た。
「二つ重なったのか」
「……ああ」
「組織への失望と、スヨンを失ったことが」
「……そうだ」
長い沈黙。
ヴィクトルは新しい煙草に火をつけた。
「俺とお前は、似ているな」
「そうかもしれない」
「罪の形が違う。だが——」
「根っこが同じだ」
「……ああ」
ヴィクトルは煙草を吸った。
「俺は引き金を引いた。お前は引かなかった。だが、止められなかった」
「……」
「どちらも、消えることを選んだ」
「消え方が違う」
「違う。だが、同じ方向に歩いている」
ジョンは空を見上げた。
星が増えていた。
荒野の空は、街よりずっと星が多かった。
「ヴィクトル」
「何だ」
「ウクライナに行って、何をするつもりだ」
ヴィクトルは少し考えた。
「見に行く」
「何を」
「俺が殺した場所を」
「……」
「墓があるかどうかも分からない。名前も覚えていない。だが——」
ヴィクトルは空を見た。
「行かないといけない気がする」
ジョンは、その言葉を聞いた。
何も言わなかった。
「……お前も来るか」
ヴィクトルが言った。
「来る」
「理由は」
「お前が行くから」
「……それだけか」
「それだけだ」
ヴィクトルは、煙草を地面に落とした。
踏んだ。
「変わった男だ」
「よく言われる」
二人は、並んで空を見ていた。
荒野に風が吹いた。
白いマフラーが、また揺れた。
遠くで、犬が鳴いた。
それだけが聞こえた。
夜明け前、トラックが通りかかった。
ヴィクトルが手を上げた。トラックが止まった。
運転手は老人だった。ウクライナ方面に向かっているという。
乗せてもらった。
荷台に二人で乗った。
朝の冷たい空気の中を、トラックが走り始めた。
ジョンは、流れていく景色を見ていた。
草原。丘。遠くの山。
「ヴィクトル」
「何だ」
「ニコライは、元気だった」
ヴィクトルは少し間を置いた。
「……そうか」
「強くなっていた。突撃隊で、よく戦っていた」
「……そうか」
「お前が知っている男のままだったか、それは分からない。だが——生きていた。ちゃんと生きていた」
ヴィクトルは、流れる景色を見た。
何も言わなかった。
だが、肩から何かが抜けたような気がした。
ジョンにはそう見えた。
朝日が昇り始めた。
地平線が、オレンジ色に染まった。
トラックは、ウクライナへ向かって走り続けた。




