表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/73

第10話 ファン


 ジョージアとウクライナの間。

 山岳地帯の小さな村に、食堂が一軒あった。

 「食堂」と呼ぶには壁が薄すぎたが、温かい料理が出てきたので、それで十分だった。

 二人は隅のテーブルに座った。

 シチューと黒パンを頼んだ。

 ヴィクトルは慣れた様子でロシア語で注文した。店の女性は無愛想に頷いて、奥に引っ込んだ。

 テーブルが四つ。他に客は二人だけだった。

 一人は老人。黙って酒を飲んでいた。

 もう一人は、二十代前半の若者だった。一人でスマホを見ながら食事をしていた。

 料理が来た。

 二人は黙って食べた。

 シチューは塩が強かった。パンは硬かった。それでも、温かかった。

 しばらくして、気配が変わった。

 ジョンは気づいた。

 若者がスマホから顔を上げていた。

 ジョンを見ていた。

 スマホを見た。

 またジョンを見た。

 ヴィクトルも気づいた。

 「見られているぞ」

 ロシア語だった。

 「知ってる」

 若者が立ち上がった。

 おずおずと、テーブルに近づいてきた。

 英語だった。アクセントはジョージア訛りだった。

 「すみません……もしかして」

 スマホの画面を差し出した。

 Netflixのアプリだった。

 『TAKIMOTO —— 騎士の涙』

 一時停止されている場面に、白い服の男がいた。眼帯をしている。

 若者は、ジョンを見た。スマホを見た。ジョンを見た。

 「……あなた、死んでいませんよね」

 ジョンは少し間を置いた。

 「生きている」

 若者の顔が、みるみる変わった。

 「やっぱり……! 行方不明って言ってたけど……! 本物ですか……!?」

 「本物だ」

 「ジョン・ドゥさん……いや、え、なんて呼べば……」

 「ジョンでいい」

 若者は震えていた。

 スマホを両手で持っていた。

 「ドキュメンタリー、五回見ました……! タイのファンのコミュニティにも入ってて……! 生きてるって言ってた人もいたんですけど、まさか本当に……!」

 「……五回か」

 「もっと見てる人もいます……! SNSで……!」

 ジョンは、シチューを一口食べた。

 「そうか」

 若者は、ジョンの隣のヴィクトルを見た。

 もう一度スマホを操作した。

 今度は別の画面を開いた。

 ヴィクトルを見た。スマホを見た。ヴィクトルを見た。

 「……あなたも、もしかして」

 画面には、タイ王宮作戦の報道記事があった。

 横に顔写真。

 『ヴィクトル・ザハロフ。元スペツナズ・アルファ。現在タイ当局により拘束』

 ヴィクトルは、その画面を見た。

 「……その写真はどこから出てきた」

 「報道です。タイの当局が……」

 「保釈されたのを知っているか」

 「知ってます……! コミュニティで話題になってました……! ジョンさんと同じ写真に写ってたって……」

 ヴィクトルは腕を組んだ。

 「俺のファンがいるのか」

 「います……! というか、二人のファンが……」

 「二人の」

 「タイのドキュメンタリーに出てくる格闘の場面で……お二人が戦っているシーンが……その、すごく……」

 若者は言葉を選んでいた。

 「……かっこいいです」

 ヴィクトルはジョンを見た。

 ジョンはシチューを食べていた。

 「……かっこいい、そうか」

 ヴィクトルは言った。

 「俺たちは殺し合っていたんだが」

 「知ってます……! だからこそ……!」

 「……」

 ジョンはパンをちぎった。

 「写真を撮りたいか」

 若者は固まった。

 「……いいんですか」

 「好きにしろ」

 「え、あの、本当に……」

 「ただし、今夜は上げるな」

 「……?」

 「明日の昼まで待て。それだけだ」

 「……分かりました……!」

 若者は震える手でスマホを構えた。

 ジョンの隣に座った。

 ヴィクトルは反対側に座った。

 「笑うか」

 若者が聞いた。

 「笑わない」

 ジョンが答えた。

 「俺も笑わない」

 ヴィクトルが言った。

 「……じゃあ、そのままで……」

 シャッター音。

 三人とも、無表情だった。

 写真を撮った後、若者はテーブルに戻りかけた。

 それから振り向いた。

 「あの……一つだけ聞いてもいいですか」

 「何だ」

 「今、どこへ向かっているんですか」

 ジョンは少し考えた。

 「ウクライナだ」

 「……なぜウクライナに」

 ジョンはヴィクトルを見た。

 ヴィクトルは前を向いたまま、シチューを食べていた。

 「……用事がある」

 若者は頷いた。

 「……気をつけてください」

 それだけ言って、席に戻った。

 二人は食事を続けた。

 「明日の昼まで待て、と言ったのはなぜだ」

 ヴィクトルが聞いた。ロシア語だった。

 「今夜上げられると、追ってくる奴が出る」

 「昼なら」

 「昼なら、俺たちはもう別の場所にいる」

 「……なるほど」

 ヴィクトルはパンをちぎった。

 「俺のファンがいるとは思わなかった」

 「いるだろう」

 「なぜ」

 「お前は分かりやすく強い。見ていて気持ちいいからだ」

 「……お前はどうだ」

 「俺は死んだと思われていた。それだけだ」

 「行方不明だ。死んではいない」

 「どちらでもいい」

 ヴィクトルは少し考えた。

 「五回見た、と言っていた」

 「そうだな」

 「ラシードは何回見ていた」

 ジョンは、シチューを食べながら答えた。

 「三回以上だ」

 「あの大尉は正直じゃないな」

 「一回だと言い張っていた」

 「……人間らしい」

 ヴィクトルは、かすかに笑った。

 食事が終わった。

 ジョンが勘定を払った。

 出がけに、若者が声をかけてきた。

 「あの……」

 「何だ」

 「コミュニティに、ジョンさんを心配してる人が……たくさんいます」

 「……そうか」

 「生きてるって、伝えていいですか。明日の昼以降に」

 ジョンは少し間を置いた。

 「生きてると伝えろ」

 「……はい」

 「死ぬ気はないとも伝えろ」

 「……はい……!」

 「それから——」

 ジョンは扉に手をかけたまま、少し考えた。

 「死んでたまるかボケェ、と思っている、と伝えろ」

 若者は固まった。

 「……え」

 「そのまま伝えろ」

 「……そのまま、ですか」

 「そのままだ」

 若者はスマホにメモした。指が震えていた。

 「……あの」

 「何だ」

 「それ……コミュニティで名台詞って言われてます」

 ジョンは少し間を置いた。

 「……そうか」

 「Tシャツもあります」

 「……何?」

 「ファンが作ったやつで……『死んでたまるかボケェ』って書いてあるやつが……」

 ジョンは、ヴィクトルを見た。

 ヴィクトルは、シチューの残りを見ていた。

 目が合わなかった。意図的に合わせなかった。

 「……知らなかった」

 「そうですよね……」

 「……そのTシャツ、俺には一銭も入っていない」

 「……すみません」

 ジョンは扉を開けた。ヴィクトルが続いた。

 夜の山道に出た。空気が冷たかった。星が出ていた。

 「名台詞らしいぞ」

 ヴィクトルが言った。ロシア語だった。

 「知らなかった」

 「Tシャツにもなっている」

 「……」

 「印税が入らないのは確かに問題だ」

 「笑うな」

 「笑っていない」

 ジョンは空を見上げた。

 「……死んでたまるかボケェ、か」

 「口癖だろう」

 「口癖だ。ただ叫んでいただけだ」

 「それが名台詞になった」

 「……」

 二人は、山道を歩き始めた。ウクライナへ向かって。

 「ヴィクトル」

 「何だ」

 「お前のファンもTシャツを作っているかもしれない」

 「……何と書いてある」

 「知らん」

 「……少し気になる」

 「聞くな」

 星が出ていた。

 二人は歩き続けた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ