第11話 国境
ウクライナとの国境検問所は、長い列だった。
避難民が東から出ていく列と、支援物資が西から入る列が交差していた。記者らしき人間もいた。NGOのベストを着た人間もいた。軍の車両も通っていた。
ジョンとヴィクトルは、その列に並んだ。
「本当に正面から入るのか」
ヴィクトルが言った。ロシア語だった。
「他に方法があるか」
「山を越える方法がある」
「遠い」
「拘束されるよりはいい」
「拘束されてから考える」
「……お前の楽観主義は、どこから来るんだ」
「楽観じゃない。体が動く限り、何とかなる」
ヴィクトルは列を見た。
「俺はロシア人だ。ウクライナにロシア人が入ろうとしている」
「知ってる」
「元スペツナズだ」
「知ってる」
「それでも正面から行くのか」
「ああ」
「……」
「嫌なら待っていろ」
「待たない」
二人は列に並び続けた。
検問所の窓口。
担当官は三十代の女性だった。疲れた目をしていた。一日中、同じことを繰り返している目だった。
ジョンがパスポートを差し出した。
担当官はパスポートを開いた。
見た。
もう一度見た。
「……ジョン・ドゥ」
英語だった。
「そうだ」
「国籍は」
「タイだ」
「……タイのパスポートに、ジョン・ドゥとある」
「そうだ」
「……これは本名か」
「今の名前だ」
担当官は少し間を置いた。
「入国の目的は」
「用事がある」
「どんな用事か」
「……個人的な用事だ」
「滞在期間は」
「分からない」
「分からない?」
「用事が終わったら出る」
担当官は上司らしき男を呼んだ。
上司が来た。パスポートを見た。
ジョンを見た。
眼帯。黒いMA-1。白いマフラー。
上司は何も言わずに、別の担当官を呼んだ。
次にヴィクトルがパスポートを差し出した。
担当官はパスポートを開いた。
国籍欄を見た。
顔を上げた。
「ロシア国籍か」
「そうだ」
ヴィクトルはロシア語で答えた。
「……ロシア語で話さないでくれ」
「では英語で。俺はロシア国籍だ」
「現在、ロシア国籍の入国は——」
「知っている。それでも来た」
上司がもう一人来た。
二人のパスポートを見比べた。
それから無線を取った。
別室に通された。
二人まとめてではなかった。
ジョンは左の部屋。ヴィクトルは右の部屋。
ジョンの部屋に、担当官が二人入ってきた。
一人が座った。もう一人は立ったままだった。
「改めて確認する。名前は」
「ジョン・ドゥ」
「本名か」
「今の名前だ」
「以前の名前は」
「関係ない」
「……入国の目的は」
「個人的な用事だ」
「詳しく聞かせてほしい」
「……同行している男の用事に付き合っている」
「あのロシア人か」
「そうだ」
「あの男の用事とは」
「あの男に聞いてくれ」
担当官は少し間を置いた。
「あなたが持っているパスポート。タイ政府が発行したものか」
「そうだ」
「しかし、ジョン・ドゥという名前のタイ国籍保有者の記録が、我々のデータベースにはない」
「……そうか」
「どう説明するか」
「説明できない」
「……」
「俺は存在しない人間だ。それだけだ」
担当官は上司と目を見合わせた。
「……少し待ってほしい」
「構わない」
担当官たちが出ていった。
ジョンは椅子に座ったまま、天井を見た。
白い天井。蛍光灯。
どこかで見たような天井だった。
「……」
何も言わなかった。
待った。
隣の部屋では、ヴィクトルが別の取調を受けていた。
「ロシア国籍。元ロシア連邦軍特殊部隊。現在の職業は」
「コンサルタントだ」
「安全保障の」
「そうだ」
「今回の入国目的は」
「個人的な用事だ」
「どんな用事か」
「……墓参りだ」
担当官は少し間を置いた。
「ウクライナで、誰かを亡くしたのか」
ヴィクトルは答えなかった。
「……それ以上は答えない」
担当官は上司と話した。
「元スペツナズが、墓参りのためにウクライナに入ろうとしている」
「信じるか」
「……信じるかどうかとは別の問題だ。ロシア国籍は入国できない。原則として」
「原則として、か」
一時間が経った。
ジョンの部屋に、新しい人間が入ってきた。
四十代の男だった。軍服を着ていた。階級章がついていた。
英語を話した。
「待たせた」
「構わない」
男はジョンの向かいに座った。ファイルを持っていた。
「あなたのパスポートについて、バンコクのタイ大使館に照会した」
「そうか」
「……通常の照会ではなかった」
「どういうことだ」
「照会を送った直後、返答が来た。大使館からではなかった」
ジョンは少し間を置いた。
「どこからだ」
「……タイ王室府から、直接だ」
男はファイルを開いた。
「『その人物の入国を妨げないよう』と。それだけだった」
「……」
「王室府が直接連絡を寄越すのは、極めて異例だ」
「……そうか」
「心当たりはあるか」
ジョンは天井を見た。
「……陛下が動いたのかもしれない」
男は、ジョンを見た。
しばらく見た。
パスポートを開いた。
「ジョン・ドゥ」
「そうだ」
男はファイルの中の別の書類を出した。
Netflixのドキュメンタリーのスクリーンショットだった。
「……これは」
「知らない男だ」
「眼帯が一致する」
「世界に眼帯をしている人間は多い」
「格闘スタイルも一致する」
「似た動きをする人間もいる」
男は、スクリーンショットとジョンを見比べた。
「……騎士殿」
ジョンは答えなかった。
「我々はあのドキュメンタリーを見ている。タイ王室騎士団の話は聞いている」
「……」
「あなたが誰であれ——タイ王室がその入国を保証した。それは事実だ」
男は立ち上がった。
「問題はロシア人の方だ」
「ヴィクトルは俺の同行者だ」
「ロシア国籍の入国は——」
「彼はウクライナに墓参りに来た」
「……それは本当か」
「本当だ」
男は少し考えた。
「墓はどこにある」
「……東部だ。村がある。あったはずだ」
「今は前線に近い」
「知っている」
「危険だ」
「知っている」
「なぜそこへ行く」
ジョンは少し間を置いた。
「……行かないといけない理由がある」
男は、ジョンを見た。
「……あなたを信じるかどうか、俺には分からない」
「構わない」
「だが——タイ王室が保証した人間を、俺の一存で止めることも難しい」
「……」
「ロシア人については、俺の権限の外だ。上に確認する」
「どのくらいかかる」
「今夜中には返事を出す」
男は出ていった。
夜。
二人は同じ部屋に移された。
小さな部屋だった。簡易ベッドが二つ。窓に鉄格子。
「どうだった」
ヴィクトルが聞いた。ロシア語だった。
「タイ王室が動いた」
「……陛下か」
「直接かどうかは分からない。ただ、誰かが動いた」
「……」
「今夜中に返事が来る」
ヴィクトルは簡易ベッドに腰を下ろした。
「俺の方は、墓参りと言ったら少し態度が変わった」
「そうか」
「信じたかどうかは分からない。ただ——上に確認すると言った」
「同じだ」
二人は、しばらく黙っていた。
「ヴィクトル」
「何だ」
「取調で、墓参りと言ったのか」
「そう言った」
「……正直だな」
「嘘をつく意味がなかった」
ジョンは壁に背中をもたれた。
「担当官が聞いてきた。ウクライナで誰かを亡くしたのか、と」
「……何と答えた」
「答えなかった」
ジョンは天井を見た。
「正しい答えは何だった」
ヴィクトルは少し間を置いた。
「……俺が殺した、だ」
沈黙。
「それを言えなかったのか」
「……言えなかった」
「なぜ」
「まだ、言葉にする準備ができていない」
ジョンは答えなかった。
「タイで初めて、お前に話した」
「……」
「それで少し楽になったが——まだ足りない」
「何が足りない」
「……現場を見ないと、分からない」
風が窓を揺らした。
鉄格子の向こうに、夜の空が見えた。
「入れるといいな」
ジョンは言った。
「入れなければ、また別の方法を考える」
「……お前は諦めないな」
「諦め方が分からない」
ヴィクトルは、かすかに笑った。
「それが、あの答えか」
「何の答えだ」
「タイで聞いた。何のために戦うか」
「……」
「『約束だ』と答えた」
「……覚えていないと言った」
「俺は覚えていると言った」
ジョンは天井を見たまま答えた。
「……諦め方を約束したことはない」
ヴィクトルは、その言葉を聞いた。
しばらく考えた。
「……なるほど」
それだけ言った。
夜明け前、ドアが開いた。
昨日の男だった。
「返事が来た」
ジョンは起き上がった。ヴィクトルも起きた。
「あなた方二人の入国を、条件付きで認める」
「条件は」
「三つだ」
男は指を折った。
「一つ。滞在期間は七日以内」
「分かった」
「二つ。行動範囲は事前申告した地域のみ」
「……東部か」
「そうだ。前線には近づくな」
「努力する」
「努力ではなく、守れ」
「……分かった」
「三つ。何かあれば、この番号に連絡しろ」
名刺を二枚渡した。
「以上だ」
男は出ていった。
二人は名刺を見た。
同じ名前が書いてあった。
「条件が通った」
ヴィクトルが言った。
「タイ王室の名前は効く」
「……陛下に礼を言わないといけないな」
「言う機会があるといいな」
ジョンは立ち上がった。
MA-1を着た。白いマフラーを巻いた。
「行くか」
ヴィクトルも立ち上がった。
「……ああ」
二人は部屋を出た。
廊下の窓から、夜明けが見えた。
ウクライナの空は、まだ薄暗かった。
だが、東の端が、わずかにオレンジ色になり始めていた。




