第12話 感染
バンコク。王室犯罪対策局本部。
局長室。
ウィチャイ局長は、机の上のファイルを見つめていた。
ファイルの表紙に、一枚の写真がついていた。
山小屋の食堂で撮られた写真だった。
三人が並んでいた。
若者が一人。無表情の男が一人。大柄な男が一人。
局長は、中央の男を見た。
黒いMA-1。白いマフラー。眼帯。
「……生きていたか」
呟いた。
声には、驚きはなかった。
最初から、そうだと思っていた。
ドアがノックされた。
「入れ」
ハーパーが入ってきた。ルノーとミュラーが続いた。
三人とも、険しい顔をしていた。
「局長、確認が取れました」
ハーパーが言った。
「ジョージアとウクライナの国境検問所だ。昨日の朝、タイ国籍の人物とロシア国籍の人物が入国を試み、一時拘束されました」
「タイ王室府が動いたか」
「……はい。局長、ご存じだったんですか」
「知らなかった。だが、そうなると思っていた」
ハーパーは続けた。
「現在、二人はウクライナ東部に向かっています。行動範囲は申告済みです。七日以内の滞在許可が下りています」
「ウクライナ東部か」
「……前線に近い地域です」
「知っている」
局長は椅子の背にもたれた。
「ヴィクトル・ザハロフも一緒か」
「はい。ロシア国籍での入国です。かなり異例の対応です」
「あの男が一緒なら、多少は安心だ」
「……安心、ですか」
「ザハロフは強い。瀧本——ジョン・ドゥの隣にいるなら、最悪の事態にはならない」
ルノーが口を開いた。
「局長、連れ戻すべきではないですか」
「なぜだ」
「なぜ、とは……現在、ウクライナは戦時下です。民間人の立ち入りすら制限されている地域に——」
「あの男は民間人か」
「……」
「タイ王室騎士団の騎士が、民間人か」
「しかし、正式な任務ではありません。組織の命令でもない」
「だから、止められないんだ」
ミュラーがメモを取りながら言った。
「連絡は取れますか」
「取れるかもしれない。だが、取らない」
「なぜですか」
「連絡を取れば、戻るかどうかという話になる。あの男が戻らないことは分かっている。ならば、連絡して何になる」
ハーパーは腕を組んだ。
「……局長は最初から、行かせるつもりだったんですか」
局長は少し間を置いた。
「俺には止める権限がない。あの男は組織を離れた。自分の意志で動いている」
「建前ですね」
「建前だ」
局長は立ち上がった。窓に向かって歩いた。
「あの男の戦い方がある。俺が言えることは一つだけだ」
「何ですか」
「生きて帰ってこい、だ」
窓の外で、バンコクの街が動いていた。
会議は続いた。
連絡を取るか取らないか。
追うか追わないか。
タイ王室府に照会するか。
各国の外交ルートを使うか。
議論は二時間続いた。
局長は、ほとんど喋らなかった。
時々、短く答えた。
「様子を見よう」
「今は動くな」
「もう少し待て」
ハーパーは気づいていた。
局長が議論を引き延ばしていることに。
何かを待っているということに。
だが、何を待っているかは、分からなかった。
三時間が経った。
ハーパーのスマートフォンが鳴った。
見た。
部下からのメッセージだった。
「……局長」
ハーパーは、スマートフォンをテーブルに置いた。
「ヨナタン、マルティネス、サラの三人が——本部にいません」
部屋が静かになった。
「いつからだ」
局長が聞いた。
「……確認したところ、二時間前から姿が見えないと」
「二時間前」
「議論が始まった頃と、ほぼ同じです」
ルノーが額に手を当てた。
「荷物は」
「……三人とも、私物の大半がなくなっています」
「フライトは」
「確認します——」
ミュラーが端末を操作した。
「……バンコク発、イスタンブール経由。三時間前に出発しています」
沈黙。
「行き先は」
「……ウクライナです」
局長は、窓の外を見ていた。
誰も何も言わなかった。
しばらくして、局長が言った。
「追うな」
ハーパーが言った。
「……最初から分かっていたんですか」
局長は少し間を置いた。
「分かっていた。だから議論を続けた」
「……三人が逃げる時間を作ったんですか」
「俺には止める権限がない。あの三人も、組織を離れた人間じゃない。だが——」
局長は振り向いた。
「止める気にもなれなかった」
ハーパーは、局長を見た。
「……なぜですか」
「あの三人は、瀧本に感化された」
「感化、ですか」
ルノーが言った。
「どういう意味ですか」
局長は窓の外を見た。
「体が動く前に、心が動く。止まれなくなる。あの男と長くいると、そうなる」
「……」
「ヨナタンは、瀧本がいるから突撃隊に残ると言った。その男が行くなら、当然だ」
「マルティネスも同じです」
「そうだ。そして、サラは——」
局長は少し間を置いた。
「あの女は、一度ついていくと決めたら止まらない。それがサラという人間だ」
沈黙。
「局長は——行きたくないんですか」
ミュラーが、珍しく直接的に聞いた。
局長は答えなかった。
しばらく窓の外を見ていた。
「……俺はここにいる必要がある」
それだけ言った。
ハーパーは、局長の横顔を見た。
何も言わなかった。
会議が終わった。
ハーパー、ルノー、ミュラーが退室した。
局長は一人になった。
机の上のファイルを見た。
山小屋の写真。
黒いMA-1。白いマフラー。眼帯。
「瀧本」
呟いた。
「お前は相変わらず、感染させすぎだ」
窓の外で、バンコクの午後の光が傾き始めていた。
同時刻。
バンコク・スワンナプーム国際空港。
イスタンブール行きの便が、滑走路を離れていた。
三列シートの中央に、ヨナタンが座っていた。
窓側にマルティネス。通路側にサラ。
マルティネスが言った。英語だった。
「で、帰るつもりあるか」
「ない」
ヨナタンが即答した。
「だろうな」
「お前は」
「ない」
「だよな」
「サラ」
「ないわよ」
「聞いてないのに」
「どうせ聞くでしょ」
「……そうだな」
マルティネスは背もたれに深く沈んだ。
「怒られるぞ、帰ったら」
「帰らないんだろ」
「いや、まあ、生きてたら帰るけど」
「生きてたらな」
「生きる気はあるぞ、俺は」
「俺も」
「私も」
三人が同時に言った。
マルティネスが笑った。
「なんか、瀧本みたいだな、俺たち」
「似てきたのよ、きっと」
サラが言った。
「うつるもんだな」
「うつるのよ。ああいうのは」
ヨナタンは少し考えた。
「感染だな」
「感染」
「止まれなくなる。帰る気もなくなる。瀧本病だ」
「病名つけるな」
「正確だろ」
「否定できないのが腹立つ」
サラは窓の外を見た。
バンコクはもう見えない。
「ねえ」
「何だ」
「ジョンって、今、白いマフラーしてるのかしら」
「してるだろ。絶対」
マルティネスが言った。
「血まみれになってても」
「してるわよね。あの人」
「してる。死んでもしてそう」
「死んでたまるかって言いながらね」
三人は少し笑った。
飛行機は、北西へ向かって飛んでいた。




