第13話 村
村への道は、舗装が途切れていた。
アスファルトがあったはずの場所に、砲弾の跡が残っている。地面が抉れ、固まり、また抉れている。車が走れる状態ではなかった。
二人は歩いた。
ウクライナ東部の冬は、底冷えがした。
風が低く吹いている。草は枯れて、地面は固い。遠くに丘が見えた。丘の向こうから、時々、砲声が聞こえた。前線はまだそこにある。
ジョンは白いマフラーを巻き直した。
ヴィクトルは無言で歩いていた。
「本当にあるのか、村」
ジョンが言った。
「あるはずだ」
「はずだ、か」
「十年以上前の話だ。今も残っているかどうかは分からない」
「……」
「だが、行く」
「知ってる」
道の脇に、焼けた建物の残骸があった。
家だったものだ。壁が二面だけ残って、屋根はない。窓枠だけが、空に向かって口を開けている。
ヴィクトルは、それを見た。
何も言わなかった。
歩き続けた。
一時間歩いた。
村が見えてきた。
小さな村だった。
家が十数軒。教会が一つ。井戸が一つ。
半分以上の建物が、壊れていた。壁が崩れ、屋根が落ち、雑草が石畳の隙間から伸びていた。
人の気配はなかった。
いや——一軒だけ、煙が出ていた。
ヴィクトルは立ち止まった。
村の入口で、動かなかった。
「……ここだ」
静かな声だった。
ジョンは、村を見た。
「分かるのか」
「分かる。あの丘の形。あの教会の塔」
ヴィクトルは歩き出した。
石畳の道を歩いた。
足音が、静寂の中に響いた。
教会の前を通った。ドアが半開きになっていた。
ヴィクトルは立ち止まった。教会を見た。
入らなかった。
また歩き始めた。
村の外れに、小さな墓地があった。
石の柵で囲まれていた。柵の一部が崩れていた。
ヴィクトルは墓地に入った。
ジョンも続いた。
墓標が並んでいた。
ウクライナ語で名前が刻まれている。古いものと、新しいものが混在していた。
ヴィクトルは、一つ一つ見ていった。
黙って。ゆっくりと。
ジョンは少し離れて立っていた。
風が吹いた。白いマフラーが揺れた。
ヴィクトルが、足を止めた。
小さな墓標の前だった。
古い石だった。文字が薄れていた。だが、読めた。
しゃがんだ。
手袋を外した。
素手で、石の表面をなぞった。
どのくらい、そうしていたか。
ジョンには分からなかった。
ヴィクトルが立ち上がった。
「……あった」
振り向かずに言った。
「そうか」
「名前が、ある。覚えていなかった。ずっと覚えていなかった」
「……」
「だが、ここにある」
ヴィクトルは、墓標を見ていた。
「……俺が来たところで、何も変わらない」
「そうかもしれない」
「謝っても、戻らない」
「戻らない」
「それでも来た」
「来た方がよかった」
「なぜそう思う」
ジョンは、墓標を見た。
「……俺には、謝りに行けない場所がある」
「……」
「行けないまま、ここにいる」
「……」
「だから、お前が来られたことは——悪くない、と思う」
ヴィクトルは、それを聞いた。
しばらく黙っていた。
「……ありがとう」
ロシア語だった。
ジョンは答えなかった。
ただ、隣に立っていた。
風が、墓地を吹き抜けた。
遠くで、また砲声がした。
それでも、この場所だけは静かだった。
ヴィクトルは、ポケットから小さな石を取り出した。
どこで拾ったのか。ジョンは聞かなかった。
墓標の上に、そっと置いた。
「……行こう」
二人は墓地を出た。
村の石畳を歩いた。
村の入口まで戻ってきた。
「ヴィクトル」
「何だ」
「少し、軽くなったか」
ヴィクトルは少し考えた。
「……少しだけ」
「それで十分だ」
「十分か」
「今日は、それだけでいい」
「……お前は、いつか行けるといいな」
「……ああ」
「行けるか」
「分からない。でも——」
ジョンは空を見た。
「朝になったら分かる」
ヴィクトルは笑わなかった。
ただ、頷いた。
「そうだな」
二人は歩き始めた。
その時。
後ろから声が聞こえた。
英語だった。
「おい、待てよ」
振り向いた。
村の入口に、三人が立っていた。
防寒着。大きな荷物。疲れ切った顔。だが、目が笑っていた。
マルティネスが手を上げた。
「迷った。めちゃくちゃ迷った。この村、地図に載ってないぞ」
ヨナタンが言った。
「タクシーに三回断られた」
サラが言った。
「寒いわね、ウクライナ」
ジョンは、三人を見た。
しばらく見た。
「……なんで来た」
マルティネスが答えた。
「体が動いた。それだけだ」
ジョンは何も言わなかった。
ヴィクトルが三人を順番に見た。
それから、ジョンを見た。
「……感染か」
ジョンは前を向いた。
「うつるものじゃない」
「うつった」
「……」
マルティネスが割り込んだ。
「で、これからどうするんだ」
ジョンは歩き始めた。
「朝になったら分かる」
マルティネスはヨナタンを見た。
ヨナタンはサラを見た。
サラは肩をすくめた。
三人は、ジョンとヴィクトルの後を歩き始めた。
灰色の空から、雪が降り始めた。
小さな雪だった。
五人の上に、等しく降り積もっていった。




