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第14話 デジャヴ


 宿は、村で唯一の宿だった。

 正確には、宿ではなかった。老婆が一人で住んでいる家だった。客間が二つある。それだけだった。

 老婆はオリシャといった。七十代か、八十代か、見た目では分からなかった。村を離れない理由を誰も聞かなかった。聞く必要がなかった。ここにいる、それだけで十分だった。

 夜。

 客間に五人が押し込まれていた。

 テーブルに、ウォッカと黒パンとピクルスが並んでいた。オリシャが出してくれたものだった。

 マルティネスがグラスを上げた。

 「乾杯」

 「何に乾杯するんだ」

 ヨナタンが聞いた。

 「生きてることに」

 「それだけか」

 「十分だろ」

 五人は飲んだ。

 「ウォッカ、強いな」

 マルティネスが言った。

 「ロシアのだからな」

 ヴィクトルが答えた。

 「ウクライナのだろ、これ」

 「ウクライナも強い」

 「どっちが強いんだ」

 「同じくらいだ」

 「じゃあどっちがうまい」

 「……俺はロシアの方が好きだ」

 「偏ってるな」

 「そうかもしれない」

 サラがピクルスをつまんだ。

 「ねえ、ヴィクトル」

 「何だ」

 「今日、墓地で何を見たの?」

 ヴィクトルは少し間を置いた。

 「名前だ」

 「名前?」

 「俺が覚えていなかった名前が、石に刻まれていた」

 「……」

 「それだけだ」

 サラは頷いた。それ以上聞かなかった。

 マルティネスが口を開いた。

 「なあ、ヨナタン」

 「何だ」

 「お前、なんでここまで来たんだ。本当のところ」

 ヨナタンはグラスを見た。

 「瀧本がいるから」

 「それだけか」

 「それだけだ」

 「シンプルだな」

 「シンプルだ」

 マルティネスはジョンを見た。

 「ジョン」

 「何だ」

 「お前、俺たちが来て嬉しいか」

 ジョンは少し間を置いた。

 「……まあ」

 「まあ、か」

 「まあだ」

 「もっと喜べよ」

 「これが喜んでいる」

 「顔が変わってないぞ」

 「変わってる」

 マルティネスはヴィクトルを見た。

 「変わってるか、あの顔」

 「……少しだけ」

 ヴィクトルが答えた。

 「少しだけか」

 「それが限界だ。あの男は」

 「つくづく不器用だな」

 ジョンは煙草に火をつけた。

 「聞こえてる」

 「聞こえてていい」

 ヨナタンが、ジョンを見た。

 「昔の俺みたいだ」

 全員が、ヨナタンを見た。

 「笑わない。喋らない。感情を出さない」

 「……」

 「モサドにいた頃の俺だ」

 サラが言った。

 「今も笑わないでしょ、あなた」

 「……少しは笑う」

 「少しはね」

 マルティネスがジョンを見た。

 「まあ、すぐ戻るだろ。元に」

 ジョンは煙草を吸った。

 「戻らない」

 三人が同時に言った。

 「戻る」

 ジョンは三人を見た。

 「戻らない。俺はもう——」

 「戻る」

 マルティネスが繰り返した。

 「なんで断言できる」

 マルティネスはヨナタンを見た。ヨナタンはサラを見た。サラはマルティネスを見た。

 三人が頷いた。

 「瀧本だから」

 マルティネスが言った。

 「18発撃たれても子供を守った男だぞ」

 「……」

 「心臓止まっても蘇生した男だぞ」

 「……」

 「スヨンを失っても立ち上がった男だぞ」

 「……」

 「そういう男が、静かになってるだけで終わるわけないだろ」

 ヨナタンが続けた。

 「お前は瀧本勝幸だ。黙っててもうるさい男だ」

 サラが続けた。

 「ジョン・ドゥは仮の名前よ。中身はどこにも行ってないわ」

 ジョンは三人を見た。

 しばらく見た。

 何も言わなかった。

 煙草を吸った。

 煙を吐いた。

 「……うるさい」

 三人は笑った。

 ヴィクトルも、かすかに笑った。

 五人は飲んだ。

 外では雪が降り続けていた。

 遠くの砲声が、時々聞こえた。

 だが、この部屋の中は温かかった。

 夜が深くなった頃。

 ドアが開いた。

 オリシャだった。

 顔が青かった。

 「来る」

 ウクライナ語だった。ヴィクトルが訳した。

 「何が来る」

 「車が来る。村の外に止まっている。明かりが見える」

 ヴィクトルは立ち上がった。

 窓に近づいた。外を見た。

 暗闇の中に、ヘッドライトが見えた。

 一台ではなかった。

 複数だった。

 「軍だ」

 ヴィクトルは言った。

 声が変わっていた。

 「ウクライナ軍か」

 マルティネスが聞いた。

 「……ロシアだ。車両の形が違う」

 全員が立ち上がった。

 ジョンは窓の外を見た。

 ヘッドライトが、ゆっくりと村に向かって動き始めていた。

 「なぜここに来る。軍事目標はない」

 マルティネスが言った。

 「命令だからだ」

 ヴィクトルが答えた。

 「命令?」

 「上から来る。この村を制圧しろ、という命令が。理由は分からなくていい。命令だから動く」

 ヴィクトルの顔が、硬かった。

 「……知っている顔だ」

 誰かが聞いた。

 「何が」

 「その命令の顔だ。俺も、同じ顔をしていたことがある」

 誰も何も言わなかった。

 ヴィクトルはオリシャを見た。

 「避難民がいるか。村に」

 「いる。家が三軒。動けない老人と、子供がいる」

 ヴィクトルは、ジョンを見た。

 ジョンも、ヴィクトルを見ていた。

 言葉はなかった。

 必要がなかった。

 ヴィクトルが口を開いた。

 「俺が仕切る」

 全員が聞いた。

 「異論があるなら言え」

 誰も言わなかった。

 「サラ、マルティネス。避難民を裏口から逃がせ。東の林の中に隠れさせろ。交戦が始まったら動くな」

 「了解」

 「ヨナタン。オリシャを守れ。この家から出るな」

 「了解」

 ヴィクトルはジョンを見た。

 「お前は正面に出ろ」

 「分かった」

 「引きつけろ。時間を稼げ。俺が後ろから動く」

 「どのくらい」

 「十分だ。十分あれば民間人は逃げられる」

 ジョンは頷いた。

 「武器は」

 「素手だ」

 「……」

 「いつも通りだ」

 村の入口。

 ジョンは石畳の道の中央に立っていた。

 雪が降っている。足元が白くなっていた。

 黒いMA-1。白いマフラー。黒い眼帯。

 車両が近づいてくる。

 三台。装甲車が一台。輸送車が二台。

 止まった。

 降りてきた。

 兵士が八人。完全武装。

 先頭の将校が、ジョンを見た。

 不審そうな顔だった。

 「何者だ」

 ロシア語だった。

 ジョンはロシア語で答えた。

 「通行人だ」

 「この村に何の用がある」

 「宿に泊まっていた」

 「こんな場所に宿があるのか」

 「ある。一軒だけ」

 将校はジョンを見た。眼帯。白いマフラー。

 「どこの国の人間だ」

 「タイだ」

 「……タイ人がなぜウクライナの東部にいる」

 「墓参りだ」

 「墓参り」

 「そうだ」

 将校は少し考えた。

 「どけ。我々は任務がある」

 「任務は何だ」

 「お前には関係ない」

 「この村には何もない。軍事目標がない」

 「命令だ」

 「どんな命令だ」

 将校の顔が変わった。

 「どけと言っている」

 ジョンは動かなかった。

 「命令の内容を聞かせてくれ。民間人の避難民がいる。子供もいる」

 「関係ない」

 「関係ある」

 「命令だ。どけ」

 「命令の前に、聞いてくれ。十分だけでいい」

 将校は銃口を向けた。

 ジョンは動かなかった。

 「……お前、怖くないのか」

 ジョンは将校を見た。右目だけで。

 「怖い。でも動けない」

 将校は一瞬、戸惑った。

 その時、後ろから声が来た。

 ロシア語だった。

 「モスクワ式の挨拶だな、それは」

 将校が振り向いた。

 村の裏手の方向から、大きな影が歩いてきた。

 ヴィクトルだった。

 手を上げていた。降参のポーズではなかった。挨拶のように、片手を上げていた。

 将校の顔が変わった。

 「……ザハロフ?」

 ヴィクトルは歩き続けた。

 「久しぶりだな、レオニード」

 「なぜお前がここに……」

 「墓参りだ。俺も」

 将校——レオニードは、ヴィクトルを見た。

 信じられない顔だった。

 「生きていたのか」

 「生きている。タイで保釈された後、少し放浪していた」

 「……タイで」

 「そうだ。色々あった」

 ヴィクトルはレオニードの前に立った。

 「お前の命令は何だ」

 「……村の制圧だ。武器の隠匿場所があるという情報が」

 「情報の出どころは」

 「上からだ」

 「上のどこからだ」

 「……第三師団の参謀部から」

 ヴィクトルは少し考えた。

 「その情報は間違いだ」

 「間違い?」

 「俺は今日、この村を歩き回った。武器はない。墓地と、廃墟と、老婆が一人いるだけだ」

 「だが、命令が——」

 「命令を出した参謀は、この村を自分の目で見たか」

 レオニードは黙った。

 「地図の上で動かしているんだろう。参謀というのはそういうものだ。俺も知っている」

 「……」

 「この村に武器はない。制圧する意味がない。避難民の子供がいる」

 「……」

 「レオニード」

 ヴィクトルは、レオニードをまっすぐ見た。

 「お前は、覚えているか」

 「何を」

 「2014年だ。東部の作戦だった」

 レオニードの顔が、こわばった。

 「……覚えている」

 「俺も覚えている」

 「……」

 「あの時、俺は命令に従った。お前も従った」

 「……」

 「正しかったと思うか」

 長い沈黙。

 雪が降り続けていた。

 レオニードは、部下を見た。

 部下たちは黙っていた。

 「……後退する」

 レオニードは言った。

 「理由は」

 「情報の再確認が必要だ。それだけだ」

 ヴィクトルは頷いた。

 「賢明だ」

 車両が戻っていった。

 エンジン音が、雪の中に消えていった。

 ジョンはヴィクトルの横に立った。

 「知り合いだったのか」

 「昔の部下だ。2014年にも一緒だった」

 「……」

 「あの男も、覚えていた」

 ヴィクトルは、車両が消えた方向を見た。

 「次に命令が来たら、戻ってくるかもしれない」

 「そうかもしれない」

 「その時は、今日みたいにはいかない」

 「そうだな」

 ヴィクトルは、空を見た。

 雪が、顔に当たった。

 「……だが、今夜は止めた」

 ジョンは答えなかった。

 代わりに、隣に立っていた。

 後ろから足音が来た。

 三人だった。

 マルティネスが言った。

 「避難民、逃がした。林の中に隠れてる」

 「よくやった」

 「で、どうなった。銃声がなかったけど」

 ヴィクトルが答えた。

 「帰った」

 「帰った?」

 「ロシア軍が帰った」

 「……なんで」

 「話をした」

 マルティネスはヨナタンを見た。

 ヨナタンはサラを見た。

 「話をした、だけで帰ったのか」

 「今夜は、そうだ」

 マルティネスは少し考えた。

 「……ヴィクトル、お前すごいな」

 「すごくない。知り合いだっただけだ」

 「それがすごいんだよ」

 五人は宿に戻った。

 オリシャが、また酒を出してくれた。

 黙って、テーブルに置いた。

 それだけだった。

 五人は飲んだ。

 今度は、静かだった。

 マルティネスだけが口を開いた。

 「なあ」

 「何だ」

 「俺たち、今夜、何かすごいことをした気がするんだが」

 「した」

 ヨナタンが答えた。

 「そうだよな。でも、実感がない」

 「戦闘がなかったからだ」

 「戦わずに終わった、ってことか」

 「そうだ」

 マルティネスは天井を見た。

 「……それが一番いいやり方だったな」

 誰も否定しなかった。

 深夜。

 ヴィクトルは外に出た。

 雪が止んでいた。

 雲の切れ間から、星が見えた。

 ジョンが後から出てきた。

 二人は並んで、空を見た。

 「……乗り越えたか」

 ジョンが聞いた。

 ヴィクトルは少し考えた。

 「……分からない」

 「そうか」

 「乗り越えたかどうかは、もっと後になってから分かるんだろう」

 「そうかもしれない」

 「だが——」

 ヴィクトルは空を見た。

 「今夜、同じ場所で、反対側に立てた」

 「……ああ」

 「それだけは、確かだ」

 ジョンは頷いた。

 「それで十分だ」

 風が吹いた。

 白いマフラーが揺れた。

 星が、寒い空に光っていた。


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