第15話 夢と、ダリア
スヨンが、怒っていた。
夢の中だということは分かっていた。
分かっていても、怖かった。
スヨンが怒っている時は、怖い。生きていた頃も、夢の中でも、それは変わらなかった。
「何やってるの」
腕を組んでいた。眉が上がっていた。目が細くなっていた。
全部、怒っている時のスヨンだった。
「何が」
「何がじゃない。全部よ、全部」
「全部とは」
「名前捨てて、銃捨てて、一人でうろうろして、ボロボロになって。それで満足なの」
「満足じゃない」
「じゃあなんでそんなことしてるの」
「……約束したから」
「何の約束よ」
「生きること」
スヨンの眉が、さらに上がった。
「それが生きることなの?」
「生きてる」
「生きてるだけでしょ」
「……」
「幸せになってって言ったでしょ!」
声が大きくなった。夢の中なのに、耳が痛かった。
「言った」
「言ったわよ!ちゃんと言ったわよ!」
「覚えてる」
「覚えてるなら実行しなさいよ!」
「……難しい」
「難しくない!」
「難しい」
「難しくない!あなたがしようとしてないだけ!」
反論できなかった。夢の中のスヨンは、いつも正しかった。
「私のことを引きずるのはいい」
スヨンは続けた。少し声が落ちた。
「引きずっていい。ずっと引きずっていい。でも、それだけで生きないで」
「……」
「私のことを思い出しながら、それでも前を向いて生きて。それが幸せになるってことでしょ」
「……」
「分かった?」
「……分かった」
「本当に?」
「本当だ」
「じゃあ繰り返して」
「……」
「繰り返しなさいよ」
「……前を向いて生きる」
「もっとちゃんと言いなさい」
「……前を向いて、幸せになる」
「よろしい」
スヨンは少し表情を緩めた。
白いドレスを着ていた。結婚式の日のドレスだった。
「ジョン・ドゥだって言うんでしょ、どうせ」
「そうだ」
「どっちでもいいわよ。私には分かるから」
「……」
「一つだけ言っておく」
「何だ」
「あなた、絶対まだ誰かに感化させるわよ。止まらないんだから」
「……」
「それがあなたよ。瀧本勝幸」
「ジョン・ドゥだ」
スヨンはため息をついた。
「はいはい」
目が覚めた。
ホテルの天井だった。
午前二時。眠れなかった。
服を着た。MA-1を羽織った。白いマフラーを巻いた。外に出た。
キーウ近郊、空港に近い地区。
戦争が始まってから様変わりした街だった。閉まった店。板が打ち付けられた窓。それでも、いくつかの明かりが灯っていた。
歩いた。目的もなく。
路地を曲がった時、声が聞こえた。
女の声だった。「やめて」
体が動いていた。
路地の奥。男が一人、女を壁に押しつけていた。酔っている。スーツが乱れている。
ジョンは男の腕を取った。後ろに引いた。壁に叩きつけた。
男が振り向いた。ジョンを見た。眼帯。黒いMA-1。
「なんだお前」ロシア語だった。
「消えろ」
男は走って逃げた。
女が壁にもたれて座り込んでいた。
ジョンはしゃがんだ。「大丈夫か」ウクライナ語だった。
女は顔を上げた。
二十代前半。長い金髪。背が高い。頬に赤みがある。殴られた跡だった。
ジョンは、その顔を一瞬見た。
何かが、胸の奥で動いた。うまく言えない何かが。
金髪だった。スヨンとは全然違う顔だった。でも——何かが似ていた。目の形でも、顔立ちでもなかった。もっと別の何かが。
ジョンは視線を外した。
「怪我は」
「……ない」英語で答えた。
「立てるか」
「立てる」
女は立ち上がった。ジョンも立った。踵を返した。
「待って」
ジョンは止まった。振り向かなかった。
「名前は」
「ジョン・ドゥ」
「本名?」
「今の名前だ」
「今の名前って何よ。本名があるでしょ」
「……ジョン・ドゥだ」
「はぐらかしてる」
「してない」
「してる。私、嘘に慣れてるから分かる」
ジョンは少し間を置いた。
「……ジョンだ。それだけだ」
「ジョン。どこの人」
「タイだ」
「タイ人がなぜキーウに」
「用事があった」
「どんな用事」
「……個人的な用事だ」
「どんな個人的な用事」
「関係ない」
「関係ある。私が助けてもらったから」
ジョンは振り向いた。
「関係ない」
「関係ある」
「……」
女はジョンを見ていた。怖がっていたはずなのに、まっすぐ見ていた。
「私はダリア。ダリア・コワレンコ」
「……そうか」
「あなた、軍人?」
「違う」
「でも戦い方が」
「違う」
「じゃあ何者」
「通行人だ」
「通行人は人を助けない」
「……体が動いた」
「体が動いた?」
「そうだ」
「意味が分からない」
「俺にも分からない」
ダリアは眉をひそめた。
「嘘ついてる」
「ついてない」
「本当のことを言ってない、という意味で嘘ついてる」
「……」
「その眼帯、戦争で?」
「違う」
「じゃあ何で」
「戦いの中でだ」
「戦いって何年前」
「……数年前だ」
「何があったの」
「関係ない」
「関係ある」
「なぜだ」
「助けてもらった人間のことを知りたい。それが関係ある理由よ」
ジョンは、ダリアを見た。
こいつは引かない。
「……戦いの中で失った」
「戦いって、軍人として?」
「……似たようなものだ」
「今は違うの?」
「今は違う」
「何をしてたの、元軍人が今は」
「……歩いてる」
「歩いてる?」
「ただ歩いてる。それだけだ」
「理由は」
「……止まれないからだ」
ダリアは少し黙った。
「……止まれない、か」
「そうだ」
「私もよ」
「……」
「止まったら終わりだから。だから止まれない」
ジョンは、ダリアを見た。
何かが、また動いた。
「……大丈夫か」
「大丈夫じゃないわよ」
「……そうか」
「でも生きてる」
「……」
「生きてるだけで十分でしょ、今は」
ジョンは前を向いた。
「帰れるか」
「帰れる。でも——」
ダリアは、ジョンの隣に並んだ。
「送ってよ」
「……」
「こんな時間に一人で歩けないでしょ、普通は」
「俺は一人で歩いてる」
「あなたは普通じゃないでしょ」
「……」
「送って。それだけでいいから」
ジョンは少し考えた。
断る理由が、なかった。
「……どこだ」
「三ブロック先。すぐよ」
「歩けるか」
「歩ける。足は怪我してない」
二人は歩き始めた。
しばらく、黙って歩いた。
ダリアが口を開いた。
「家族は?」
「……いない」
「いないって、最初からいないの? それとも」
「……いなくなった」
「戦争で?」
「……違う。別の話だ」
「どんな話」
「……」
「言いたくない?」
「……ああ」
「分かった。じゃあ聞かない」
三秒の沈黙。
「ねえ」
「……何だ」
「その白いマフラー、誰かにもらったの?」
ジョンは少し間を置いた。
「……そうだ」
「誰に」
「大切な人だ」
「今もその人と一緒なの?」
「……違う」
「別れたの?」
「……死んだ」
ダリアは黙った。
しばらく歩いた。
「……ごめんなさい」
「いい」
「聞くべきじゃなかった」
「……いい。お前は正直だ」
「正直すぎるって言われる」
「悪くない」
「そう? よく迷惑がられるけど」
「……慣れろ」
ダリアは少し笑った。
「慣れろ、か。あなた面白いわね」
「面白くない」
「面白い。口数が少ないのに、たまに変なことを言う」
「変じゃない」
「変よ」
「ここよ」
ダリアが足を止めた。
古いアパートだった。窓に明かりはなかった。
「ありがとう、ジョン」
「……」
「また会えるかしら」
「……分からない」
「キーウにいる間は会える?」
「……しばらくはいる」
「じゃあまた会えるわね」
「……」
「明日、同じ時間に同じ場所にいる?」
「……いない」
「じゃあどこにいる?」
「……」
「ホテルはどこ?」
「……」
ジョンは、ダリアを見た。
「なんでそこまで聞く」
「助けてくれた人が気になるから」
「それだけか」
「……それだけじゃないかもしれないけど、今はそれだけよ」
ジョンは少し考えた。
ホテルの名前を言った。
ダリアは頷いた。
「分かった。じゃあ、また」
アパートに入っていった。
ジョンは、その背中を見た。
歩き始めた。
ホテルに向かって。
歩きながら、胸の奥の何かを押し込もうとした。
押し込めなかった。
「……似てない」
日本語で呟いた。
「顔も、声も、全部違う」
分かっていた。
でも、あの目が。
怖がっていたのに、まっすぐ見ていた、あの目が。
止まったら終わりだから止まれない、と言った、あの言葉が。
「……うるさいな、スヨン」
誰もいない夜道に、呟いた。
返事はなかった。
当然だった。
だが、どこかでスヨンが笑っている気がした。
ホテルが見えてきた。
ジョンは歩き続けた。




